ナーシャは夜に舞う-10

君に近づきたい

 まもなく、あまり見たことのない私服の紗鈴ちゃんが現れる。大きめのTシャツにジーンズ。色気ないな……と僕なら人前ではしたくないレベルの服装だったけど、すれていない紗鈴ちゃんらしい気もした。
 僕は着替えなくても衣装部屋からバッグを取ってきて、クーラーや明かりをぱちんぱちんとパネルで切っていった。そして、ロックと防犯システムがかかったのを確認し、わずかに白みはじめている空の下で紗鈴ちゃんと並んで歩く。
 空気が冷めている、蒼い時間帯だ。すぐに太陽が昇って熱されていくけれど、このあいだだけ、頬を撫でる風も涼しい。蝉もまだ寝ていて、ひと気だってなくて、足音が響く。
 僕はさっきから、紗鈴ちゃんの手をつかめないものかと思案していても、よく考えたら傍目には女の子同士か。僕は気にしないけれど、紗鈴ちゃんが迷惑かもしれない。
 紗鈴ちゃんは特に何も話さず、僕の隣を歩いている。僕も話題を探しても、声が響く静けさに何を話していいのか躊躇ってしまう。そんなぎこちない空気のまま、ファミレスに到着して、僕たちは四人がけの席で向かい合った。
 クーラーが心地よい店内は、思ったより客がいても、騒がしいほどでもなかった。僕はメニューを開き、ナスとベーコンのトマトパスタとサラダ、それからドリンクバーと速やかに決めると、「おごるよ」と紗鈴ちゃんにメニューをさしだした。
「え、でも」と紗鈴ちゃんは困った顔を見せても、「いいから、好きなの頼んで」と僕はメニューを開いてみせる。紗鈴ちゃんはそろそろとページをめくり、しばし迷ってから「じゃあ」とエビのドリアの写真を指さした。
「よし」と僕はベルでウェイトレスを呼び、全部注文して紗鈴ちゃんのぶんのドリンクバーまで勝手につけておいた。ドリンクバーで、自分にはコーラ、紗鈴ちゃんには適当にオレンジジュースをついで、席に戻る。
「好きなの取りに行ってもいいけど」とオレンジジュースを手渡すと、「いただきます」と紗鈴ちゃんはグラスを両手で包んだ。
「紗鈴ちゃんって、ひとり暮らしなんだね」
 コーラで喉を潤して僕がそう切り出すと、紗鈴ちゃんはうなずいて、「まだ一年も経ってませんけど」と新鮮なオレンジ色をストローから飲んだ。「そっか」と僕はストローでからころと氷を混ぜる。
「〈ナーシャ〉は半年過ぎたよね」
「初めて続いてる仕事なので、何か、辞めたいけど、辞めたら何もできない気もして」
「あの仕事を頑張れるなら、ほかの仕事とか楽勝でしょ」
「………、でも、受からないので」
「ほかの仕事の面接、行ってるの?」
「行かなくなりました。前は、行ったりもしてたけど……いつも不合格だから」
 何だか、前も言っていたっけ。笑顔を心がけるとか。相手の目を見るとか。紗鈴ちゃんは、そういうのがぜんぜんできていない。そりゃ落とされるよなあ、と思っても言っていいのか分からない。
「風俗のお店にも……行ったんですけど」
 思いがけなくて、どきんと紗鈴ちゃんを見る。
「年齢を信じてもらえなくて……証明できるものも、持ってないし」
「高校生とか言われたの?」
「……中学生って」
「紗鈴ちゃん、かわいいけど童顔だもんね」
「かわいくないです」
「僕はかわいいと思うからそれでいいでしょ」
 そんなことを言っていると、僕のサラダが来た。「食べていい?」と断ると、紗鈴ちゃんは「どうぞ」と答え、僕はフレンチドレッシングのかかった野菜にフォークを刺す。
「さっき、心療内科って言ってたけど」
 ざくざくとレタスを噛み砕いて飲みこむと、やや踏みこんだ話を持ちかけてみる。
「精神的に、何かあったのかな」
「………、あんまり、家が好きじゃなくて。大学受験に失敗して引きこもりみたいになったんです」
「引きこもり」
「そのとき、母が付き添って病院に通ってたんですけど。その……死のうとして、救急車呼ばれて」
「………、」
「入院はなくて、家にはすぐ帰りました。そしたら、私が洗面所が切ったときのままになってて。自分で掃除しろって」
「……親が?」
「はい。自分の血を雑巾で拭きながら、情けなくて。この家にいたら、私、おかしくなると思って、家を出たんです」
「あ……じゃあ、家ともう連絡取ってないんだ」
「母に生存報告だけしてます。部屋の保証人とかは、母がなってくれたので」
「そっか。高校までは学校行ってたの?」
「行ってましたけど、いつもひとりでした。イジメとかあったわけじゃないです」
「ふうん……」
 のんきに女装や片想いにうつつを抜かしていた僕とは、ずいぶん違う学生時代だったようだ。ずっとストレスがすごかった人生らしい。
 そのうち、僕のパスタと紗鈴ちゃんのドリアが、「お待たせ致しました」と運ばれてくる。ほかほかとおいしそうな湯気を立てるそれを食べはじめながら、「紗鈴ちゃん」と僕は甘いトマトが染みこんだナスを頬張った。「はい」と紗鈴ちゃんは柔らかいチーズの匂いがするドリアを混ぜる手を止め、顔を上げる。
「紗鈴ちゃん、休日は何してるの?」
「え……と、引きこもってますけど」
「ダメじゃん」
「どこか行くと、疲れるので」
「気分転換になることもあるよ。ねえ、僕と遊びに行かない?」
「えっ」
「どこか行くってわけじゃなくてさ、街を歩くだけでもいいから。というか、紗鈴ちゃんに服を見立ててあげたい」
「服……ですか」
「もっとかわいいの着なよ。似合う奴、見つけてあげるから」
「……私、そんなスタイルもよくないし」
「でも、Lサイズは入るよね? 大丈夫、僕いつもあちこち行ってるし。何か服買ってあげる」
「えっ、いえ、いいです。そんな、……咲羽さんみたいにかわいくないから」
「かわいいってば。あー、ほら、女の子っぽい格好見せると、瑞砂くんも褒めてくれるかも」
 紗鈴ちゃんは、僕に目を上げる。くそ。やっぱりこれが効くのか。悔しい。瑞砂くんは紗鈴ちゃんを意識しないどころか、苦手とさえ思っているのに──でも、僕がそれを伝えても嫉妬だ。
「紗鈴ちゃんが自分のことかわいくないと思うなら、かわいいって思わせてあげる」
「……けど」
「休日に僕と会うの嫌かな」
「私はいいです。咲羽さんが、私といてもつまらないかも……」
「そんなことないよっ。紗鈴ちゃんと一度ゆっくり過ごしてみたかったし。お店じゃ、ばたばただからね」
 紗鈴ちゃんは、どう答えたらいいのか分からないのか首をかしげ、スプーンでドリアをすくうと、息を吹きかけて口にふくむ。「あ、でも」と僕はくるくるとパスタを巻きつけてフォークをまわす。
「キャストと黒服が店の外で会うのってやばいよなあ。この食事だってグレーだし」
「えっ、そ、そうなんですか。すみません──」
「いやいや。誘ったの僕だから。まあ、ママと客にばれなきゃ何とかなるね。瑞砂くんは、感づいても黙っててくれると思う」
「……ほんとに、いいんですか。私のことなんて、放っておいても──」
「気分転換で紗鈴ちゃんの気持ちが楽になるなら、僕は一緒に出かけたい」
「……咲羽さんは、やっぱり優しいですね」
 いや、下心がすごいだけ。とは、もちろん言わないけれど。とりあえず、紗鈴ちゃんと休日も会う仲になりたい。もっとプライベートな存在になりたい。
 そんなわけで、スマホのカレンダーを見ながら、今週末、八月最初の日曜日に、僕は紗鈴ちゃんと会うことになった。デートと呼んでいいのか分からなくても、まあ僕にはデートだ。
「男で行ったほうがいい?」と確認すると、「咲羽さんの好きな格好でいいです」と紗鈴ちゃんは答えた。じゃあ女装だな、とあっさり決定して、何だかそわそわしてくる。
 紗鈴ちゃんは、僕の三人目の本気の恋の相手だ。僕はいつも、好きな人を別の人に取られてきた。紗鈴ちゃんも瑞砂くんが気になっているとはいえ、瑞砂くんからの望みがないので、この際、視野には入れない。
 紗鈴ちゃんのことを落とせる自信は、今のところそんなになくても、その自信が湧いてくるぐらいの進展はそろそろ欲しい。頑張ろ、と気を引き締め、僕はパスタを食していった。

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