ナーシャは夜に舞う-14

相談ごと

〈ナーシャ〉に出勤して、女装の僕と黒服の紗鈴ちゃんは、半日ぶりに僕と顔を合わせた。
 僕さえ笑顔がちょっと引き攣ったから、紗鈴ちゃんはあからさまに緊張にこわばり、頬を染めてぎこちなく目をそらした。紗鈴ちゃんの隣で煙草を吸っていた瑞砂くんは、相変わらず興味も薄そうに僕たちを一瞥しただけだったけど。
 僕はカウンター前を通り過ぎ、スタッフ専用のドアでカウンター内に入る。そして紗鈴ちゃんに近づくと、その耳元でささやいた。
「恥ずかしいと思うけど、普通にしよ」
 紗鈴ちゃんは僕に目を向け、ややとまどったようでも、小さくうなずいた。なるべくいつものように紗鈴ちゃんの頭をぽんとすると、荷物を衣装部屋に置きにいく。
 普通に。紗鈴ちゃんだけじゃない。僕もだ。ママも味方にするぐらい、とは思ったけれど、積極的にばらしにいくつもりはない。特に客の前では、何も変わりなく自然に見えないと。
 しかし、僕はそれを何とかこなせても、紗鈴ちゃんはそんなごまかしが一番苦手だった。僕に呼ばれて、アイスの交換や新しい灰皿を持ってきたとき、所作が落ち着かない。一度なんて、アイスペールを受け取るとき、指が触れてびくっとされるなんてこともあった。
 結局、「瑞砂に任せて、なるべくカウンターの中から出ないようにしてくれる?」とママに注意され、落ちこんでいた。瑞砂くんは紗鈴ちゃんの変調に気づいているようでも、特に何も尋ねたりはしていないようだ。紗鈴ちゃんも、好きな男に僕と寝たなんてことを相談しないとは思うが。
 そんな紗鈴ちゃんに、また休日に会いたい、とか誘うのは正直はばかられた。紗鈴ちゃんがパンクして、クビ案件になってくるかもしれない。
 そもそも切っかけがない。一緒に帰るといったって、基本的に瑞砂くんが戸締まりをしていくので三人になるし、ふたりきりになれないので、デートに誘うチャンスもない。
 帰宅してメッセを送ってみても、紗鈴ちゃんはあまりスマホを見ないのか、返信を待てずに眠ってしまったあとに、やっと何か来ている。その内容は当たり障りなく、踏みこむ隙がない。
 土日はさらにスマホなど放置なのか、ますます返信が遅い。土曜日の昼に思い切って明日会えないかなとか送ってみたものの、夜になって来た返信は『急に出かけるのは苦手で、すみません。』とあった。じゃあ来週、と追撃しそうになったものの、我ながらうざく感じたのでこらえた。
 泪音は、いちゃいちゃくっついたりすればいいと言っていたけれど──この空気でできるか、と頭を抱える。
 そうこうしていると、浴衣出勤のお盆も終わり、八月も半ばを過ぎてしまった。
 今夜は〈モイストローズ〉で泪音をつかまえて、〈ピーチィミルク〉でもっとアドバイスもらおう。そんなことを思っていた。風がなく暑い夕暮れの中、〈ナーシャ〉に到着して「おはようございまーす」とドアを開ける。
 すると、いつもは瑞砂くんと紗鈴ちゃんの声がすぐ返ってくるのに、今日は沈黙だった。ん、と首をかしげて店内に踏みこむと、「咲羽、おはよう」と言ったのは、カウンターに腰かけている、パステルオレンジのスーツを着たママだった。
「おはようございます」と答えつつ、ママの隣の席には瑞砂くんが座っているのを認める。紗鈴ちゃんは、カウンター内でなぜか不安そうに、胸の上でぎゅっとこぶしを握っていた。
「困ったわねえ」と瑞砂くんと向かい合ったママは、こめかみを抑えてつぶやく。
「せめて、後釜が見つかるまで続けられないかしら」
「紗鈴ちゃんにいろいろ伝えてはいくので」
 ママは紗鈴ちゃんを一瞥して、憂鬱そうに息をついた。そんなママに、紗鈴ちゃんはうつむく。
「どうかしたんですか」
 状況が飲めなくて僕が問うと、ママはこちらを見て、「実はね」と瑞砂くんの肩に手を置いた。
「瑞砂が昼の仕事が見つかったから、来月いっぱいで辞めたいそうなの」
「はっ?」
 ぎょっと瑞砂くんを見てしまっても、瑞砂くんは淡々とした表情を崩さない。
 昼の仕事。今月いっぱい。辞めたい。
「マジですか」
「冗談ではなさそうね。でも正直、今、瑞砂が抜けるとつらいわね」
「そう……ですね」
 紗鈴ちゃんをちらりとする。うつむいていて表情は分からないが、さすがの僕も、カウンターを紗鈴ちゃんひとりに任せるのは危険だと思った。
「咲羽、黒服やってくれそうなツテはある?」
「え、いやー……友達はみんな自分の仕事持ってるんで」
「そうよねえ。募集はすぐかけるけど、うちは続く子がなかなか見つからないから」
「思い切って、セクマイのタウン誌とかに募集載せたら、来るんじゃないですか」
「黒服は、一歩引けるストレートが助かるんだけど」
「瑞砂くん抜けるなら、こだわってられないですよ」
「……そうよね。瑞砂、来月いっぱいはここで働けるのね?」
「はい」
「分かったわ、惜しいけど、もともと昼の仕事が見つかるまでとは言ってたものね」
「すみません、お世話になってたのに」
「いいのよ、おめでたいことだわ。最後までよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
 瑞砂くんはママに頭を下げ、席を立った。僕がそれをじっと見つめていると、「咲羽さんも、お世話になりました」と瑞砂くんは僕にも頭を下げる。僕は首を横に振り、「仕事見つかっておめでとう」と言った。
 もう一度、紗鈴ちゃんを一瞥すると、不安とショックが綯い混ざった表情が見えた。やっぱりまだ、紗鈴ちゃんは瑞砂くんのことが好きなんだ。そんなことを察してしまい、僕の心はちくりとした。
 僕に押し倒された上、瑞砂くんが辞めるということで、紗鈴ちゃんはかなり混乱しているようだった。ぼんやりしてミスも増えたし、「もっとしっかりしてくれないと困るのよ」といっそうママに注意されている。
 閉店後、紗鈴ちゃんは瑞砂くんと店に残って、いろいろ教わっている様子で、僕は仕方なくひとりで〈ナーシャ〉をあとにする日が続いた。
 八月も終わりかけたその日、午前四時になろうとしていた。夜明けの蒼い空気は、だいぶひんやりしているようになった。仕事を終え、静かな通りを歩きながらスマホを確認すると、『生きてるー?』という泪音のメッセが届いていた。
 そういえば、仕事のあれこれに気を取られて、けっこう会っていない。『今どこ?』とメッセを飛ばすと、すぐ既読がついて『ピーチ』と返ってきた。悩むことなく『行ってもいい?』と送信すると、『待ってるー』というひと言と待機中のスタンプが送られてきた。
 僕は駅前に向かいかけていた足を止めると、きびすを返して、〈ピーチィミルク〉のほうへ歩き出した。
「あら、咲羽ちゃん。何だか久しぶり」
〈ピーチィミルク〉に入ると、マスターが現れた僕ににっこりした。「ご無沙汰です」と返した僕は、「泪音は」と訊いてみる。
 すると、マスターが答える前に「咲羽あ」とボックス席のほうから泪音の声がした。僕はそちらを向き、ソファに沈んで明らかに酔っている泪音を見つけて、あきれた息をつきながら歩み寄る。
「久しぶり」
「ほんとだよお。寂しかったよお」
「連絡くれてよかったのに」
「あわびとうまくいったのかと思ってさ」
「あわびって。ぜんぜんうまくいってないよ」
「えー、そおなの? 泪音さんに相談してよお」
「しようと思ったんだけど。いろいろあってさ」
 言いながら、僕は泪音の向かいに腰かけ、ソファに体重を預ける。
「てか、泪音、今日はオフだったの?」
「オフだよ。んふふ、昨日チップもらうときに僕に連絡先くれた人が、イケメンでさー。まあ、朝から昼まで燃えたよね」
「つきあうの?」
「いや、夕方までいちゃいちゃして終わり」
「いちゃいちゃ……かあ」
 僕がしみったれた息をつくと、「咲羽はどうなの?」と泪音は少し身を起こす。
「うまくいってないって、デートとか行けてないの?」
「それどころか、ろくにしゃべってない」
「え、避けられてんの」
「いや、紗鈴ちゃん、店でしれっとできてないからさ。ママに怒られてへこんでて。そんな状態なのに、またデート誘っていいのかなって僕も迷っちゃって」
「それこそ、誘ってなぐさめたらいいじゃん」
「あとで紗鈴ちゃんの挙動不審指数が上がりそうなんだよ」
「挙動不審指数」という変な言葉を反芻し、泪音はからから笑う。深いスリットの入ったマリンブルーのマーメイドワンピースを着た僕は、「あー」と唸って上体を膝に折る。
「同じ職場って、きついなあ。でも、距離感的にどっちかが店辞めても、そしたら他人なんだよなあ」
「てことは、要するに最後までやったくせに何も進展ないの?」
「ないかな……」
「うわあ」
「僕もね、仕事終わってからとか休日とか、メッセしたりはしてるんだよ」
「ほう」
「かわされるよね」
「ふむ。ううーん、やっぱ何とかちゃんは咲羽に興味持てないのかなあ。咲羽もイケメンだけどねえ、何せ好きな人がレベル高い。せめて、イケメン黒服がいなきゃなあ」
 僕は仏頂面で肘掛けに頬杖をついて、「瑞砂くんさ」とおつまみの柿の種を口に放って噛む。
「辞めるんだよ」
「え」
「来月いっぱいだって」
「何で」
「昼の仕事が見つかったらしいよ」
「マジか。そりゃあ、何とかちゃんショックじゃん」
「そうなんだよ。それで僕のことで悩むより、もはやそっちが気がかりみたいで」
「イケメン黒服辞めて、店まわるの?」
「それもなあ。紗鈴ちゃんじゃ頼りないのは、いくらあの子が好きでも否定できない」
「うわー。何とかちゃん、思い切ってイケメン黒服に告ったりしないかな? もう会えないとか思ったらさ」
 僕は真顔で泪音と顔を合わせ、想像してみて、名状しがたい声を上げるとソファにつぶれた。
「マジ瑞砂くん邪魔なんですけど」
「何とかちゃんの心の支えはイケメン黒服でしょ。追いかけて、何とかちゃんまで辞めるかもねえ」
「えっ。何それ。最悪じゃん」
「それまでに、咲羽が支えになれるかどうかだよ」
「僕が……?」
「咲羽が店にいるなら頑張れるとかさ。そんなふうには持っていけないの」
「そんなん、さんざん店にいてほしいとか一緒に頑張りたいとか伝えてるけど」
「そうなの? 何とかちゃんの反応は」
「咲羽さんは優しいですねって」
「何だ、その脈のない返事。優しいとか一番言われちゃいけないやつじゃん。当たり障りないお断りじゃん」
 ざっくり言ってしまう泪音に、僕はソファに倒れこんだ。
 お断り。そうなのか。もしや僕は、すでに紗鈴ちゃんに振られているのか。
「僕、紗鈴ちゃんを落とせると思う……?」
「無理とは言い切らないけど、面倒臭いねえ」
「だよね……。デートしてさ、それから紗鈴ちゃんをよく見てたけど。どうしても、僕は瑞砂くんに勝てないんだよなあ」
 のろのろと身を起こし、カールの長い髪をはらって息を吐いた。泪音は赤いカクテルを飲んで、「まあ、僕は咲羽が女とつきあわないなら、それはそれで嬉しい」と言った。「それはどうも」と僕は肩をすくめると、「とりあえず何か頼んでくる」と今日はまだまだ話しこみそうなので、ひとまずカウンターにドリンクを注文しにいった。
 それから、話せていなかった紗鈴ちゃんとのデートの詳細も泪音に語った。「すげえ振りまわしたんだね」とコメントされ、「そうなるのかあ」と落ちこんだりしているうちに、めずらしく閉店時刻の十時になってしまった。
「はあい、あとはファミレスにでも行きなさい」とマスターに言われ、僕と泪音は酔ってふらふらになりつつ会計をして〈ピーチィミルク〉を出た。外は白い日射しに照らされていて、ゾンビみたいな僕たちは食い殺されそうだ。
「ファミレス行く?」と訊くと、「ごめん、眠い……」と泪音は目をこすり、訊いた僕も大きなあくびを噛み殺した。ふたりで一台のタクシーを捕まえると、先に泪音の部屋に寄り、それから僕の部屋に行った。そして、もう気力がなくて、その日はそのまま、ふとんのみかろうじて敷くと寝てしまった。

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