高校生になって、初めて化粧をした。
鏡に映った自分を見ても、そこに冴えない地味な男なんていない。ビューラーとマスカラで大きく見える瞳、なめらかな薔薇色の頬、艶やかにふくらむ鮮やかな唇。
ちゃんと、そこには女の子がいた。ああ、やっぱりそうなんだ。僕は男なんかじゃない。女の子なんだ。軆は男として生まれたとしたって、この心は女の子なんだ。
子供の頃から、「男の子なんだから」と言われるたび、嫌悪感に近いほど違和感があった。
ロボットよりお人形が欲しい。スカートを履いてみたい。男の子たちの中にいると、いたたまれなくて、向こうのほうで、磨いた爪にマニキュアを乗せたりしている女の子たちがうらやましくて。
中学生になったとき、学ランを着た自分のすがたに絶望した。
やだ。こんなのやだ。何で、男しか着ない服を着なきゃいけないの?
中学三年間、ずっと我慢してきた。高校生になったら、絶対かわいい格好をするんだ。そのために、お小遣いを貯めた。
中学を卒業して、春休みにお金をぱあっと使った。化粧品。洋服。エクステ。ほかにも、いろいろ。そして、「僕」は「私」になった。
しかし、誰も私を理解しなかった。親も、友達も、先生も、みんな私を奇異なものとして見た。
ゆいいつ、小学生でまだよく分かっていない弟分の真人だけ、「恵実留ちゃんは女の子でもかわいいねえ」ってにこにこと咲ってくれたけど。
それ以外に、私が女だと認めてくれる人はいなくて、「いい加減、おかしな趣味に走るのはやめなさい」と怒った。
ここにいても、私は私になれない。そう思って、私は「大学生になったらちゃんとするから」と嘘をついて家を出た。実際は、ろくに大学に行かずに風俗で働いた。
ニューハーフヘルスだった。こんなところ来る男の人いるのかな、と最初は思っていたけれど、男の娘のAVがあるような時代だから、意外と通う男の人は多かった。
ある程度お金が貯まると、親からの干渉を逃れるために勝手に引っ越してスマホも解約して、新しいものを自分名義で手に入れた。ワンルームの保証人は、お店が用意してくれた。
お店には恩義や信頼を感じていても、ニューハーフヘルスで働くのは、正直つらかった。だって、私はまだ手術しているわけではないし、ホルモン注射でふくらみかけた胸くらいで、下半身は男のままなのだ。
店に来るお客さんはそれがいいと言うのだけど、私には男の証に触れられたり、口にふくまれたり、まして射精させられるのは苦痛だった。
でも、お金のためには仕方なかった。お洒落したいし。手術したいし。
……それと、私にはたったひとつ、育った町に気がかりがあった。
私のことを無邪気に「かわいい」と言ってくれた真人。五歳年下の弟分。
あの子は私にとても懐いてくれていた。「恵実留ちゃんがおねえちゃんだったらなあ」と私の服を握って、ちょっとだけ泣いていた。真人が母子家庭で、若い母親にネグレクトを受けているのはあのへんでは有名だった。
二十歳になった私は、勇気を出して、育った町を訪ねた。堂々としていれば、昔よりずっと綺麗になった私に気がつく人はいなかった。
真人の母親は夜の仕事に出ているから、暗くなってからアパートを訪ねた。ドアフォンを鳴らして、「真人、いる?」と声をかけると、しばらく反応がなかったものの、かちゃっと鍵を開ける音がした。
だが、中からドアが開く気配はない。私がそうっとドアを開けてみると、暗い隙間からこちらを見上げる真人の顔をあった。
「……恵実留ちゃん?」
私を認め、真人は長い睫毛をぱたぱたとしばたいた。私は小さく微笑んで、「ごめんね」と真人の黒髪を撫でた。
すると、真人は一気に瞳を濡らして、私にしがみついてきた。相変わらず栄養のあるものを食べていないのか、華奢な真人を抱きしめると、私はその耳元でささやいた。
ひとりぼっちにしてごめん。置いていってごめん。ずっと心配だった。だから迎えにきた。お金もたくさん貯めた。真人さえよければ、私とこの町を逃げよう。
真人は私を見上げた。私は真人の濡れた頬をさすった。
「恵実留ちゃんとなら、どこにでも行くよ」
だからその日、私は真人をさらった。ネグレクトは進んでいたのか、物音や雑音にびくびくしていた真人は、私とのふたり暮らしで、緩やかに笑顔を取り戻していった。
「私のこと、気持ち悪くない?」と不安で問うたとき、「恵実留ちゃんは女の子だから」と真人は私の手を握って、瞳を見つめてきた。
「自分の軆は、大切にしてほしい」
私は一瞬ぽかんしたあと、その言葉の意味に涙をこぼした。何度も、うなずいた。
そうか。私は女の子なんだ。いやいや風俗で働いて、澱んだ白濁に飲まれてはいけない。この仕事で傷ついているなら、辞めていいんだ。
どのみち、今の店は勤めはじめて四年近いから、そろそろ古株あつかいされつつあった。辞めていいでしょうかと相談したら、あっさり承諾してもらえた。保証人も解消されるので部屋は出なくてはならなかったけど、すでに入っている予約を消化するのに一ヶ月間くらいかかるので、このあいだに部屋を探せばいいと待ってもらえた。
次は昼の仕事をしようかとも考えた。けれど、それは手術までしっかりやったあとのほうがいいだろう。私は紹介所に登録し、しばらく、ヘルプとしてあちこちの夜の店で派遣として働いていた。その中で〈ナーシャ〉というバーに出逢い、ママや先輩キャストと仲良くなったので、春からそこでフルで働きはじめた。
ママは私と同じで、女の心を持ちながら男の軆で生まれてしまった人だった。だから、私のことをとても理解してくれて、これからどんなふうに手術を受けていったらいいかまで教えてくれた。いつかは女として昼の仕事をしたいという夢にもうなずいて、「それまではうちでがっつり稼ぎなさい」と応援してくれた。
先輩キャストは、私やママとは違っていわゆる男の娘だった。咲羽さんといって、ノンオペのノンホルなのに、華麗にドレスを着こなす綺麗な人だ。バイのリバという、限りなくセクシュアリティのボーダーにいる。ざっくばらんとした性格ながら、私に服を譲ってくれたり、化粧品の情報を交換したりと優しい。
黒服もひとりいて、美海くんという男の子だ。以前は土方のバイトをしていたらしく、人懐っこい顔立ちのわりに軆つきは男らしくてどきっとすることがある。本人曰く、ストレートなのだそうだけど、咲羽さんのゲイの友人に口説き落とされて以来、何やらその人が気になってしまっているらしい。
みんないい人で、風俗と違って楽しい仕事だった。本当は切り落としたいものを、さらして触られる仕事なんて、やはり苦しかったから。
働きはじめて、あっという間に三ヵ月くらい過ぎた。その日も二十一時から三時までみっちり働いて、「お疲れ様です」と挨拶すると私は店を出る。
七月に入って数日、すでに夜になっても昼間の熱気が名残っている。ぬるい風が汗ばんだ肌を舐めて、帰ったらまずシャワー浴びなきゃなんて思う。
こんな時間に電車は動いていないので、駅前でタクシーをつかまえて帰宅する。だいたいアパートの部屋に到着するのは午前四時前で、真人はいつも起きて待っている。
「恵実留ちゃん、おかえり」
「ただいま」と言いながらハイヒールを脱いでいると、真人が玄関まで出迎えてにっこりしてくれる。
真人は十七歳になった。相変わらず細身だけど、助けにいったときほどの痩躯ではなくなった。もちろん高校は行っていないし、働いてもいない。
だから、お店では真人のことを「ヒモ?」と言われるけど、そうじゃなくて私が保護者なのだと答える。
「疲れてない?」
「ちょっと疲れた」
素直に言うと、身長の変わらない真人は私をハグしてくれる。私と真人は、ここまで。肉体関係はない。「好き」という言葉を交わすこともない。それでも、私にはもう真人は、「弟」ではなく「好きな人」なのだけれど──
「真人、眠らなくて平気?」
「恵実留ちゃんとごはん食べなきゃ」
「何か用意するね」
真人はうなずいて軆を離し、私も部屋に上がる。何か用意する、といっても、実際くたくたなので、手料理はあんまり作ってあげられない。オフの日はもちろん作るようにしていても。
真人も、私を「好き」と思ってくれているのだと思う。だからこそ私の軆がまだ女になりきっていないのを気遣い、抱こうとはしない。確かに私は、真人にはこの中途半端な軆を見られたくない。
真人に性欲がないとは思わない。十七歳なんて、本当なら好きな女の子を一番抱きしめたいときだろう。でも、真人はそれを私に押しつけない。私も、ストレートの真人にこの軆まで受け入れてもらおうとは思わない。
全部女になったら、真人に抱いてもらえる。それを考えただけで、軆の芯がきゅんと疼くけど、もうちょっと我慢だ。
「ごめんね、こんなので済ませちゃって」
冷凍食品のエビピラフとからあげの食事をミニテーブルに並べると、ルームウェアになった私はそう言って腰をおろす。真人はふわりと咲って、「恵実留ちゃんと食べれるなら何でもおいしい」とスプーンを手に取る。
「いただきます」
そう言って真人はエビピラフを頬張る。真人はこの部屋にこもってばかりでなく、買い物やコインランドリーなどにも行ってくれる。それでじゅうぶんだよ、料理や掃除はしなくていいよ、と私は言う。
育った家庭では、何もかも自分でやらなくてはならなくて、つらかったと思う。この部屋ではそんな生い立ちのぶん、くつろいで過ごしてほしかった。
眠るときは、一緒のふとんにもぐりこむ。たまに真人は私の手を握ってくるけれど、やはり、それ以上はない。私は真人の手を握り返し、近づく夜明けに白む中で、はにかんだ笑みを絡める。
すき、と言いそうになるのをこらえる。けれど、いつか絶対に真人に言う。女の軆になったら、真っ先に真人に「好き」と伝えたい。だから、私は頑張れる。
そんな毎日が流れていき、お客さんに何気なく手術の予定はないのかと訊かれ、「今はクリニックに通って、診断書をもらうのがいいんじゃないかしら」と同席していたママにも言われた。
「クリニック」と私がきょとんとすると、「ジェンクリね」とママはさっと鮮やかにお客さんの煙草に火をつける。私もネット検索で知っている──ジェンダークリニック。ちなみに私は、手術も国内で受けるか海外で受けるか迷っている。
ママは海外で受けたらしい。「あたしの頃は、国内は質のいい手術とは言えなかったのよね」と語られ、「やっぱり海外は違いますか」と訊くと、「タイとかはそりゃあ進んでるわよ」と返された。風俗時代からお金はずいぶん貯まったし、どうせなら可能な限り綺麗に女の軆になりたい。思い切って海外行こうかな、とも考えながら、その席で笑ったり歌ったりしたあと、ようやく帰宅した。
ドアを開けるとふと鼻をくすぐったいい匂いがして、え、と私は顔をあげる。
「恵実留ちゃん。おかえりなさい」
そう言って、いつも通り真人が出迎えてくれる。私は首をかしげて、玄関の左手にあるキッチンを見た。するとそこには、見たことのない白いお鍋があった。
「何か、いい匂いがする」
「あっ、シチューだよ。お裾分けしてもらったから」
「お裾分け」
「二階に住んでる人で、たまにコインランドリーで会うから話す人なんだ」
「……女の人?」
「うん。OLさんだって」
真人を見つめた。真人は首をかたむける。
私はちょっとぎこちなく咲うと、「そっか」とこくんとして「じゃあ、いただこうかな」と言った。「うんっ」と真人はにっこりして、私はわずかに胸の中がざらざらしたけど、それが醜い感情なのは分かっていたので抑えこんだ。
二階に住んでいるOLさん、なんて私は知らない。どんな人かも思い当たらない。それは、そうか。私はこのアパートで、ほかの住人とは交流しない。
でも、アパート共用のコインランドリーを利用する真人は、そこでほかの住人と顔を合わせることだって、仲良くなることだって、ある──か。
シチューの味はあんまり分からなかったけど、「おいしい?」と真人が訊いてくるので、「うん、おいしいね」と私は何だか乾いた感覚で微笑んだ。
それ以来、時たま真人はOLさんのお裾分けの料理をもらうようになった。私が普段作ってあげられない手料理ばかりだった。煮物やだしまきという和風から、ドリアやハンバーグといった洋風まで。でも、そんなに完璧な料理ではない。ハンバーグのかたちが悪かったり、煮物がちょっと硬かったりする。それが逆に手作りっぽくて、温かい感じがした。
なぜその人は、真人にこんなさしいれをくれるのだろう。疑問の答えは、分かりきっていて、心がもやもやと苦しくなった。
別にもらわなくていいんじゃない?
手料理が食べたいなら私が頑張って作るよ?
そう言いたくても、せっかく真人が「恵実留ちゃんにもおいしいの食べてほしいから」ともらってきてくれるものを無下にもできなくて、……真人に嫉妬を感づかれて嫌われたくなくて、何も言えなかった。
だって私は、真人に拒絶されたら、自分が分からなくなってしまう。
お店では、必死に明るく振る舞っていた。でもある日、「烏龍割り」を「烏龍茶」と聞き違えて、お酒でなくお茶を出してしまってお客さんを不機嫌にさせてしまった。お客さんが帰ったあとママにも怒られ、「美瑠ちゃん、五分休憩しよ」と美海くんがカウンター内に入れてくれた。
私がアイスボックスの前にしゃがみこんで、顔を伏せていると「何かあった?」と美海くんが気にかけてくれる。私は首を横に振り、「大丈夫」と自分に言い聞かせるためにも何度か繰り返した。
そのあと、どうにか仕事をラストまでこなしてほっとしていると、ふと「美瑠」と呼ばれた。振り向くと、そこには腰に手をあてるチャイナドレスを着こなした咲羽さんがいた。ママは今日の売り上げを奥で計算している。
「ここんとこ、無理してない?」
私をカウンターに誘って、美海くんにミネラルウォーターを出させた咲羽さんは、綺麗な脚を組んでこちらを覗きこんできた。私は咲羽さんを見つめ、「大丈夫です」と言った。「そっか」と咲羽さんは頬杖をついて、長い指でグラスを持ちあげてミネラルウォーターを飲む。今日もすらりとした指の先は鮮やかに彩られている。
「ママもね、心配してるだけだから」
「えっ」
「ママ、心配するほど、きつく当たっちゃう人なんだよね」
「あ……えと、今日のは私が確かにミスしたので。ママのことで落ちこんでるわけでは」
「落ちこんではいるんだね」
私はぎくりと口をつぐむ。そののち観念した息をついて、引き寄せたグラスのミネラルウォーターを口にする。
「咲羽さんは」
「ん」
「好きな人って、いますか」
「えっ。んー、まあ。いるね」
「いるんすか」とグラスを洗っていた美海くんがこちらを向いて目をぱちぱちさせ、「いるよ、それくらい」と咲羽さんは頬をふくらませる。
「咲羽さん、なら……もちろん、その人とはつきあってます、よね」
恐る恐る問うと、咲羽さんは「いやいや」と笑い、「脈あるかもぜんぜん分かんない状態」と意外な恋を語る。
「片想いのまま待たされる感じだよ」
「そうなんですか」
「うん。戻ってくるって勝手に信じてるけどね」
「どこか行っちゃったんですか」
「まあ、そんなとこ。ずいぶん会ってない。連絡も取ってない」
咲羽さんの横顔を見つめ、見かけによらないなあと思った。
咲羽さんなら、どんな男だって、どんな女だって、たやすく振り向かせられそうなのに。そんな人たちには目をくれず、そんな切ない表情をたたえて待っている人がいる。
「待たされるの、って……つらいですか?」
「え」
「私、待たせてる人がいるんです」
「待たせてる」
「私が女の軆になるのを、……待ってくれてる人です」
今度は咲羽さんが私を見つめ、「なるほど」とミネラルウォーターをすすった。しばらく考えた咲羽さんは、「うーん」と唸ったあとに、ぽんと私の肩に手を置いた。
「とりあえず、待たせていいと思うよ」
「えっ」
「よく分かんないけど、もしかして、もう待ってくれないかもって焦ってる?」
「………、たぶん、そうです」
「どのくらい待たせてるの?」
「分からない、です。もしかしたら、子供の頃から」
「はあ!? そんなん、そいつ、美瑠のこと大好きじゃん」
「でも、これ以上待たせたら──」
「いやいや、待ってるほうってね、好きで待ってるんだよ」
「……好き、で」
「っそ。だからいいんだよ、多少は振りまわして。待たせていいの! 美瑠は約束も破るわけじゃないでしょ?」
「約束、って」
「女の軆をあきらめる、って選択肢はないよね」
「それはないですっ」
「じゃあ、ちゃんとその人に自分をプレゼントできるんだし。いいじゃん。待っててくれるよ」
「……もし、その人がほかの人に告白されたりしても?」
「美瑠は、その人のガキの頃からの待つ気持ちが、それで揺らぐ程度だと思ってるの?」
咲羽さんを見つめた。
真人の気持ち。誰も理解しない中で、私を女だと認めてくれた。さらいにいったらついてきてくれた。そして、私と一緒にごはんを食べたいからと毎晩起きていてくれる。
私はうつむき、「あの子を誰にも取られたくなくて」と涙声をこぼす。
「ほんとに、好きなんです」
「うん」
「私がこんな軆じゃなかったら、とか、つらくて」
「そっか」
「早く、女の子になりたい」
「じゃあ、ママにも相談して頑張ろ。美瑠はかわいい子になるよ、絶対」
私はうなずいて、「ありがとうございます」と泣き咲いみたいになりながら咲羽さんを見た。咲羽さんはにこっとして、この人が待っている相手も、早くそのそばに戻ってきてくれるといいなと心から思った。
その日、ママは私と咲羽さん、めずらしく美海くんもラーメンに誘って、四人で香ばしい湯気がもくもくあがる白湯の夜食をすすった。「ちなみに待ってる相手って例のヒモっすか」と美海くんが言って、「あの子はヒモじゃないって言ってるでしょっ」と私は美海くんに言い返せるくらい元気になっていた。「ヒモはあんまりよろしくないわねえ」とママまで言うので、「成人してないから、仕事がそんなにないんです」と言っておくと、「ひゃー、未成年かよお」と咲羽さんが笑って、みんな笑ってしまった。
そんなふうに過ごしたから、帰宅がいつもより遅れてしまった。きっと、今日も真人は私とのごはんを待っている。そう思いながらアパートに駆けこもうとしたとき、階段から降りてきた人と鉢合わせかけた。
慌てて立ち止まって「すみません」と言うと、「あ、いえいえっ」と相手は答えてから、「あれ」と私を見つめてきた。
「真人くんの彼女さん?」
どきっとして、蒼ざめた夜明けの中でその人を見た。ゴミらしきふくろを提げたその女の人は、すでに薄化粧をしているものの、ボブの髪は後ろで無造作に束ねている。ぜんぜん、見憶えも心当たりもない人だ。
「え、えと──」
「わあ、やっぱ夜に働くと華やかだなあ。私なんて、そんな勇気なくて事務職だから。でも、分かんないことあったら何でも訊いてくださいねっ」
分からないこと? 何でも訊いて? 何を言われているのかも分からなくて、そもそも真人を親しげに呼ぶこの人が誰なのか臆していると、「あれ」と彼女は首をかしげた。
「真人くんに、私のこと聞いてないですか?」
「え……えと、まあ、はい」
「そうなんですね。私もね、生まれは男だったんです」
「はっ?」
「ふふふ、でも今は戸籍までしっかり女! 今度、彼氏とも結婚するんですよ」
まじろいで突っ立ってしまう。ええと……男、だった? つまり、この人は私と同じ人? いや、そもそもこの人と真人のつながりって──
「今はまだここでひとり暮らしなんですけど。料理とか必死に花嫁修業中なんだよーって話したら、真人くん、僕も料理覚えたいですって言ってきて」
彼女をはたと見上げる。背の高さだけ、確かに男性の名残で、女性としては高いように感じる。
「彼女さんの役に立ちたいからって。レシピとかよく渡してるんですけど、真人くん、料理上達してます?」
「えっ……と、ま、真人が料理作ってるんですか?」
「あれ、作ってないですか?」
「いえ、……こないだは餃子、を」
「あ、レシピ渡しましたっ。冬には水餃子にするのもおすすめですよ。あー、いいなあ。私も結婚して生活始まったら、彼に料理作ってもらったりしたいなあ」
ぽかんとたたずむと、「あ、じゃあ、収集車来る前にゴミ出してきますねー」と彼女は笑顔で会釈して、すれちがっていった。
私はいったんうつむき、ふうっと大きく息をついてから、廊下に踏みこんで部屋の前に立った。鍵を取り出してドアを開けると、「恵実留ちゃん?」と声がした。どこか心細いような声だったから、「真人?」と応えると駆け足が近づいてきて、真人はぶつかるようにぎゅっと私を抱きしめてきた。
「どうしたの?」
私の窺う口調に、「遅い、から」と真人は私の服をきつく握りしめる。
「恵実留ちゃんが帰ってこなかったらどうしようって」
「……あ、」
「僕、何にもできないから。何もしなくていいよって言われて、ほんとに何にもしてないし。でもね、恵実留ちゃんが離れていくくらいなら、僕、何でもするんだよ」
「……真人」
「恵実留ちゃんとずっと一緒にいたいよ」
「……ごはん」
「えっ?」
「お裾分けなんて、何で、嘘ついたの?」
真人ははっと私を見た。それから、わずかに咲うと、「ばれてた?」と軆を離そうとする。でも、私はその腕をつかまえてしがみつく。
「真人、」
「……だって」
「『だって』?」
「僕が作った、って言ったら、恵実留ちゃん、きっと気を遣わなくていいよって言うから」
「………、」
「でも僕、恵実留ちゃんの役に立ちたいんだ。支えてあげたいんだよ。だって、僕は男だもん」
「真人……」
「頼りないけど、やっぱり、好きな女の子の力になりたいよ」
真人のまっすぐのまなざしに胸が締めつけられ、私は彼に抱きついた。ああ、軆がまだそうではなくても、真人には私はとっくに女なんだ。男として、守りたいと思う女なんだ。
それだけで、涙が出そうなほど嬉しくなる。
「それにね、僕も幸せなんだよ。恵実留ちゃん早く帰ってこないかなあって待ちながら、一緒に食べるためのごはん作ってると、すごく幸せなんだ」
「……うん」
「ダメ、かな。僕の料理なんて、やっぱり──」
「嬉しいよ。もう、最初からそう言ってよ。知らない女の料理なんて、そのほうが嫌だったよ」
「そ、そうなの? あ……ごめんね、どう言えば食べてもらえるか分からなくて、」
「真人」
「う、うん」
「いつもありがとう。今日は遅くなってごめんね。一緒にごはん、食べよう」
真人は私を瞳を映し、ほっとした笑顔を浮かべると、大きくうなずいた。
ねえ、真人。私、さっきのあの人みたいに、男である真人と結婚できる女になるね。それまでもうちょっとかかるかもしれなくても、待っててくれるよね。毎日私とごはんを食べてくれる真人なら、待っててくれるって信じていいよね。
私も、好きな男の子の自慢の女になりたい。だから、最高の女になるんだ。真人だけのかわいい女になる。
ごはんを温めはじめる真人のすがたを見て、大好き、と思った。
私だけの優しい男の子。そして、これからきっと、最高にかっこよくなる男の子。
ごはんのあとには、私も真人が「好きな男の子」だよって言おう。そうすれば私たち、もう離れることなんてないはずだから。
FIN
