そんなわけで、水瀬先輩と時野先輩が部活を終えると、私はふたりと駅に出た。せっかくなので、まっすぐ帰宅するのが憂鬱なときに立ち寄って本を読んでいるカフェにふたりを案内した。
雨が冷たかったせいか、ふたりはホットのドリンクを、私は懐かしい味が好きなミルクセーキを注文した。ふたりはまず自分たちのことを話してくれて、それから私のことを尋ねてきた。
「私たちに憧れて、そばで見ていたいって言ってくれるけど。それって、鼓ちゃん自身が恋をしたほうが幸せだと思うよ?」
時野先輩にそう言われて、わずかに心がちくりと痛んだ。分かっている。それは分かっているけど、私は──「もしかして」と時野先輩は心配そうな面持ちを浮かべて続ける。
「鼓ちゃんには、恋愛できない事情とかあるのかな」
どきっとして、時野先輩を見た。時野先輩はまじめな瞳で私を見つめてくれている。水瀬先輩はそんな私たちを静観している。
「もしそのことで悩んでるなら、私たち、ちゃんと聞くよ?」
「先輩……」
「言いたくないなら無理しなくていいけど、私と授くんをただ見てても解決はしないんじゃないかな」
「……でも」
「でも」
「おふたりを見てると、幸せ……です」
水瀬先輩が、カフェオレをすすりながら「見られてるほうはけっこう怖いんだよなあ」と言った。私は水瀬先輩のほうも見る。
「俺と桃は、人に見てほしくてつきあってんじゃないしさ。けっこう、窮屈な感じはある」
そういう、ものなのか。私が顔を伏せてしまったので、時野先輩が軽く水瀬先輩をたしなめる。「だからさ、成瀬」と水瀬先輩は口調をやわらげた。
「俺たち、もっと普通に話したりすればいいと思うんだ。こんなふうに。見てるだけは友達じゃないよ」
「近いと、おふたりの邪魔になりませんか」
「遠くからの観察のほうが怖いわ」
「そう、ですか」
私は指をストローに絡ませて、ミルクセーキをゆっくり混ぜる。氷がからんころんと響く。
私のこと。このふたりになら、話してもいいのかな。誰にも言えなかった。好きな人を作らないんじゃない。作れないんだ。私は恋愛が分からない。性愛が欲しくない。たぶん一生ひとりだと思う──。
私は心を決めて顔をあげる。そして、私が口を開くのを待っていてくれたふたりに、そういう「私のこと」を打ち明けてみた。ふたりとも真剣に聞いてくれて、そののち、「それでもさ、見てるだけはやめようか」と水瀬先輩が言った。
「友達じゃん。見てるよりは、たまに話もしようよ」
「話して……くれるんですか」
かすかに声が震えた私に、「話さないほうがしんどい」と水瀬先輩は言ってくれたのに、私はまだ不安で訊いてしまう。
「私のこと、冷たい人間だって気持ち悪くないですか」
水瀬先輩はよく分からないように首をかしげ、「どこが冷たいんだよ」と言う。
「人を好きになれないんですよ」
「俺と桃のことは好きなんだろ。セットで」
「それは、……そうですけど」
「じゃあ、俺と桃も成瀬のことが好きだよ」
「私たちのこと、応援してくれてるんだよね?」
「もちろんです」
「じゃあ、仲良くしようよ。鼓ちゃんのこと、もっと話してほしい」
時野先輩にそう言われて、不意に涙がこみあげてきたので、自分でもびっくりした。
鼓ちゃんって、本音話さなくて気取ってるよね。昔からそう言われてきた。違うよ。私、みんなにほんとのこと言ってるよ。好きな人いないのは嘘じゃない。何で信じてくれないの。そんなにみんなと違うことはいけないこと?
あるいは、違うためには理由がないといけない? わけもなく恋愛が興味がない私はおかしい? 誰とも恋ができない私は、もしかしてほんとにひどく心が冷えた人間なの?
だとしたら、私は、自分のこの欠落が怖い──時野先輩が泣いている私の頭を優しく撫でて、「私は授くんが好きだから」と声をかけてくれる。
「鼓ちゃんと同じだよとは言えないけど。でも、鼓ちゃんみたいな人はきっとひとりじゃないと思うよ。恋人ができないことは、ひとりぼっちってことじゃないからね」
ひとりぼっち、じゃない。私はずっと自分はひとりだと思っていた。違うのだ。私にはこんなに素敵な先輩たちがいる。「ありがとうございます」とまだ泣きながら言う私に、時野先輩はにっこりして頭をさすっていてくれた。
それから、私は水瀬先輩と時野先輩とたまにそのカフェでお茶するようになった。水瀬先輩も、時野先輩も、ちょっと事情がある家庭で育ったことを語って、私も自分の家庭が原因で人を愛せないのかなと話した。
そのことを水瀬先輩が気にかけてくれたようで、翌日、「俺の家族に勝手に話したのは悪いんだけど」と前置きして、私が“アセクシュアル”ではないかと家族に言われたという話をしてくれた。初めて聞くその言葉は、セクシュアルマイノリティのひとつで、無性愛者という意味なのだそうだ。
言葉通り、恋愛感情や性的欲求がない人のことで、私以外にもそういうカテゴライズの人はいるという。そしてそれは元からの性質で、原因があるわけではない──それが一番しっくり来た。
「だから、何が悪かったんだろうと考えなくていいんだよ。それが成瀬なんだ」
水瀬先輩は言い、「ありがとうございます」と私は安堵のため息をこぼしてしまった。
「……こんなの、ほんと、私だけかと思ってました」
「はは。でも、よく考えたら、成瀬が世界最速だったほうがびっくりだろ」
水瀬先輩の言葉は確かにその通りで、「そうですね」と私は咲ってしまった。「自分でも調べてみます」と続けると、「そのうち、同じタイプの友達も見つかるといいな」と水瀬先輩はにっとしてくれた。
「いろんな人がいるねー」と時野先輩が言って、ほんとにそうだと思った。いろんな人がいる。だから、私みたいな人間もいていいし、少なくともそれをこのふたりは認めてくれている。
冬が近づいてくると、水瀬先輩と時野先輩は大学のことでいそがしくなりはじめた。それでも私のことは気にかけてくれていたけど、お茶の回数は減っていった。そして私は二年生に、ふたりは三年生になり、お互いしばらく自分たちのことで一生懸命になった。
でも、水瀬先輩が陸上選手として推薦で有名な大学に進むこと、時野先輩もそれをサポートするために同じ大学を目指していることは、ふたりにも聞いたし、うわさとしても伝わってきた。
私はスマホでアセクシュアルのことを調べるうち、いろんなセクマイのかたちを知っていった。何となく始めたSNSの中で、友人のビアンカップルを見守るのが癒やしだという男の子がいて、ちょっと似てるかもしれないと思ってその人をフォローすると、次の日にフォロバとリプライが届いた。
『フォローありがとうございます!
プロフ見たらアセクさんって書いてたので、ついフォローしちゃいました。
よろしくお願いします~。』
登校中の電車でそのリプを読み返し、これはこの人もアセクシュアルってことなのかな、と思って訊いてみた。すると、わりとすぐ返信が来て『違いますよー。でもゲイなんで、女の子には無反応ですw』とあって、ちょっと咲ってしまった。
『私も高校の先輩のカップル見てるのが好きだから、そこに共感しちゃって。』と応えると、『推しカプ眺めるのいいですよね! 俺二次元に限らないんで、友達には「そこは爆発だろ」って言われるんですよー。』と返ってきた。
分かるなあと見守るカップルさんについて訊くと、『すげーおバカなカップルなんですけど、そこがマジで癒やし!』と語ってくれた。私も水瀬先輩と時野先輩のことを話して、それをその子は身を乗り出すのが分かるぐらいに聞いてくれた。
やりとりするうちに、彼が同い年の男子高校生で、恋人はいないけど好きな人はいることを知った。弟の友達のひとりで、たまに家ですれちがうくらいの関係なのだそうだ。
『友達の兄貴がそんな目で見てるとか、あの子に気づかれたら絶対気持ち悪いんだろうなあ……』
彼はDMで語り、私みたいに誰にも興味がないのも不安だけど、気になる相手が同性であったりしても、心が苦しいだろうなと感じた。
『てか、俺らタメなら、来年受験生ってこと?』
ふとそんな話題になったとき、何となく進路の話になってびっくりした。私は、自分自身では関われないぶんブライダル系の仕事をと考えていたのだけど、彼も同じ進路を目指していたのだ。
『やっぱ幸せなカップル愛でたいよな!』と彼は言い、『自分が結婚しないからたくさん結婚式見たい』と私は応えて、そのとき、初めてゆっくり話もしようということで通話した。
『俺、湊でいいよ。通話は本名がいいや』と彼は笑って、「私も鼓って呼んでくれたら」と私も本名を伝えた。それから私は、ますます湊と仲良くなっていきながら、去年の水瀬先輩と時野先輩のように進路のことでばたばたしはじめた。
『俺、高校出たら実家は出たいな』
冬休みが終わるくらいの頃、湊は通話でぽつりとそんなことを言った。私はルームウェアを着て、入浴で濡れた髪も乾かし、もう眠るだけの夜だった。
実家を出る。「行きたい学校が遠いの?」と訊いた私に、『学校は鼓と同じとこに行きたいなあ』と湊は笑う。
『もっと鼓と普通に話せたらと思うし』
「それだけで志望校決めなくても。同じ仕事してたら、そのうち会えるよ」
『うん──。でも、家にいるのしんどいしさ』
「家に」
『あの子がたまに家に来ても、顔を見るのが、もう嬉しいよりつらくなってきた』
はっと私は口をつぐんだものの、そっか、と納得する。湊の片想いも、もうだいぶ長いことになる。
『いまだに連絡先も訊けなくてさ、あの子の望永って名字しか知らない。彼女とかだっているのかもしれない。一緒に夕飯食うこともあるのに、遠いんだよな。絶対手が届かないんだ』
「……そっか」
『そもそも、俺を対象として見てくれるわけない。男なんだし』
「告白とか、やっぱり……考えられないよね」
『あの子も困るだろ。友達の兄貴とか。気持ち悪いけど無下にもできないというか』
私はベッドの上で膝を抱え、「私も家は出たいかな」と言った。
『鼓も?』
「私は家が好きではないから」
『……話してたな。住んでるとこ近ければ、ほんと、シェアとかできるのにな』
「うん……」
『まあ、卒業は家を出るチャンスかなと思う。どうしても行きたい学校なんだって言えば、親は理解すると思うし。教師がどう言うかがちょっと分かんないけど』
「もしこっちの学校に来るなら、教えてね」
『おう。そういや、鼓の推しのカップルさんってもう卒業?』
「あ、うん。そうなの。たぶん三学期はほとんど登校してこないし、卒業式に少し話せたらと思うんだけど」
『鼓、寂しくなるんじゃね?』
「そうだね。友達もそこまで親しい子はいないし」
『俺がそっち行ったら親友になれるのになあ。俺の推しのビアンちゃんたちは、同棲始めるらしいわ』
「大学生だっけ」とちょっとあやふやな記憶を確認すると、『そう』と湊は肯定する。
『一緒に暮らしはじめたら何したいとかあれしたいとか、どっちもフォローしてるから全部TLに流れてくるんだけど、それがゆいいつの癒やし』
私は咲って、水瀬先輩と時野先輩もわりと早く結婚するのかなあと思う。ふたりの結婚式は見たい。
湊が例の好きな子と結ばれたら、その話も聞いたりしたかったけど。それを求めるのは、もう湊を傷つけるのだろうか。
すぐに三学期が始まって、学期末試験が行なわれたあと、三月の初旬に卒業式があった。在校生は生徒会以外は休みだったけど、私は制服を着て学校に向かった。
カレンダーでは春になったのだけど、まだまだ朝の空気は凛と冷たい。よく晴れた日で、雲もほとんど見当たらない青空がまばゆく広がっていた。駅から高校への道のりで、ちらほら見かける桜の樹にもつぼみがついて、あっという間に満開になるのだろう。
校門を抜けられるのは学校関係者のみだけど、そこさえくぐれば体育館は開放されていた。水瀬先輩と時野先輩のすがたを探していると、入口の近くに見憶えのある顔触れが集まっているのを見つけた。
陸上部の子たちだ。私に声をかけたクラスメイトのあの男の子もいるから、間違いない。私がそこに混ざるのは変だからひかえたけど、窺っていればふたりのすがたを見れるだろうか。
水瀬先輩も時野先輩も人気だから、式のあとは捕まるか分からない。だから朝早くに来たのだけど、結局ふたりを見つけられずに卒業式が始まってしまった。とはいえ、このまま会えずに帰ったら後悔するだろう。話せる時間があるか分からないけど、私は式が終わるのを待つことにした。
スマホをいじって時間をつぶしていると、ふと、体育館から拍手が聞こえて卒業生が体育館から退場してきた。見学に来ている在校生はけっこういたから、知り合いの顔を見つけて「先輩っ」と駆け寄っていく子がちらほらいる。
水瀬先輩が出てきたときは、陸上部の子たちだけでなく、取材の記者のような人まで囲みにいっていた。すごい人なんだな、と改めて実感していると、「桃先輩!」という声がして、いつのまにか時野先輩も現れていて女の子が集まっているのに気づく。「これからも陸上部よろしくね」と時野先輩はその子たちに微笑み、「水瀬先輩と桃先輩がいなくなるの、すごく寂しいです」と女の子たちは泣いている。
いなく、なる。そうか。もう、水瀬先輩と時野先輩はこの学校に来ないんだ。グラウンドにも体育館にも、そのすがたを見つけることはできなくなる。放課後のお茶がいつのまにかなくなっても、同じ学校にいる安心感で、私はあまり何も感じていなかったけど──
今日が、全部、最後なのかな。大好きなふたりなのに、もう見ることはできなくなる。もちろん話すこともなくなる。それでも水瀬先輩と時野先輩の絆は続いていくのだろうけど、私はそこに関われなくなる。
何でだろう。見てるだけでよかったし、ふたりにそう言って「それは友達じゃない」と言われたくらいなのに。水瀬先輩と時野先輩が他人になるのが、なぜだかひどく苦しい。
【第三話へ】
