ようやく話を切り上げて、外に出たときには暗くなってネオンがきらきらと散らばっていた。空気はまだアスファルトの照り返しで蒸していても、夜風はちょっと涼しい。
行き交う人の声や車の走る音の中、「乗り換え大丈夫?」と駅に向かいながら心配すると、「うん、憶えてる」と湊はうなずいた。
「そういえば、湊が県外で気になる学校って、今日のところだけ?」
「いや、そうでもないんだけど。鼓は?」
「私も気になってるとこある」
「じゃあ、またかぶってたら一緒にオープンキャンパス行こうか」
「そうだね。一緒のとこ目指したいね、やっぱり」
歩きながらそんなことを話していると、改札に着いて私たちは立ち止まった。「楽しかった」と言われて私はうなずいてから、やや躊躇ったのち湊を見上げる。
「湊」
「ん」
「私は、恋愛しないし。ほんとに、仲のいい恋人同士を見てるのが好きなの」
「うん……?」
「だから、その──私は、湊が幸せな恋をしてくれたら、それを見守りたいと思うよ」
湊は私をじっと見つめて、それから優しく微笑すると、「ありがと」と私の肩をぽんとした。「忘れなきゃな」と湊は睫毛を伏せ、「湊には絶対いい人がいる」と私は勝手かもしれないことを言った。でも湊はこくんとして、「今は受験だけど、落ち着いたら新しい恋をするよ」と言ってくれた。
夏休み、結局私は湊に三回くらい会った。その中で相談して、別に周りには同じところに進学したい人がいるなんて言わなかったけど、私と湊はそれぞれの学校で同じ志望校を担任に伝えた。
それからは、合格に向けて努める一直線だった。秋が深まって、冬に包まれて、三学期はほとんど登校しないまま卒業式を迎えた。そのあと、私も湊も同じ第一志望の専門学校の合格の内定を受け取った。
湊はこちらを訪ねてきて、「部屋シェアする?」と持ちかけてきて、親の仕送りなんて欲しくないけど高額バイトの宛てもない私はうなずいた。その足で不動産屋におもむき、いくつか部屋を紹介してもらい、後日の内観は私ひとりで行くことになった。「鼓がいいと思ったところに決めていいから」と湊は言って、彼はまだそんなにしょっちゅうこちらに来れるわけでもないだろうから、私は責任を持って引き受けた。
湊と通う専門学校は、初めて顔を合わせたときのあの学校だ。あの最寄りからひと駅である町のアパートで、四月の初めに私が先に部屋に入居した。すぐに湊も引っ越してきて、ルームシェア生活が始まった。
湊との生活は、思った通りすごく楽しくて、あっという間に一年半が過ぎた。専門学校は二年制なので、あと半年で私たちは卒業だ。就職活動を始めたけど、さすがに湊と同じ職場というのは考えなかった。「関係疑われたらめんどいもんなー」と湊はPCで求人をあさり、私は首肯しながらスマホで同じく求人を吟味する。
湊はこちらに来てから、たまにゲイバーとかイベントに顔を出しているようだ。あの男の子のことは口にしなくなった。胸の内ではどうなのか分からない。やがて、湊とルームシェアを始めて二度目のクリスマスが来た。
湊はゲイナイトのクリスマスイベントに行ってしまい、私はバイトの夜番に駆り出されて、帰途に着いたのは二十三時が近かった。軆の芯まで凍えそうな寒気が立ちこめる、真っ暗の夜道を速足で歩く。街燈の間隔が遠くてちょっと怖いなと感じていると、「あの、すみませんっ」と突然背後から声をかけられて、びくっと振り返った。
そこには見知らぬ背の高い男の子がいて、私は眉を寄せる。
「突然すみません。あの……」
私が暮らすアパートの玄関まで、あと三メートルもなかった。正直気味が悪くて、無視して走りだそうかと思った。しかし、次に彼が発した言葉に振り返った。
「湊さん、の……同棲相手の方ですよね」
私は目を開いて、もしかして湊の友達かなと思って、露骨な警戒する目はやわらげる。
「俺、その……」
「同棲では、ないです」
「えっ」
「ただのルームシェアなので」
「……けど」
「湊とはただの親友です」
彼はぽかんと私を見つめて、白い息をこぼし、「マジかよ……」とつぶやく。
「岬は恋人だって」
「岬……?」
「え、知らないんですか?」
「……知らないです」
「湊さんの弟なんですけど」
動揺で心臓が跳ねた。湊の弟? それって、じゃあ、まさかこの子──
「湊の弟さんの親友さん、ですか?」
「親友、なのかな。中学のときは仲良かったけど、高校は別になってほとんど会ってなかったんで」
「あなたの名前は?」
「望永翔です」
望永。数回聞いただけの名前だけど、憶えている。
息を飲んで、何で、と生じる混乱に視線が惑う。望永って、あの望永くん? どうしてここに? まさか、湊に会いにきた? どうして?
「え……っと、湊は今夜帰ってくるか分からないんですけど」
「えっ、何で──あ、そうか。あなたが恋人じゃないなら、ほかに……」
「いや、ええと──。あっ、とりあえず私から湊に連絡してみますね。部屋に来てください」
「いいんですか?」
「いい……と、思います」
「……すみません、押しかけて。わけ分かんないですよね。でも、俺、湊さんが出ていったって聞いたときからショックで。しかも、女の人と暮らしてるって……」
「……あの、私の勘違いだったらごめんなさい。もしかして、湊のこと──」
翔くんはうつむいて表情を隠してしまったけど、それが答えだった。私の胸が、さらにどきどきとせりあげてくる。
すごい。すごい! そんな都合のいい話はないって、私でさえ思っていたのに。早く湊に知らせなきゃ。
私はとりあえず翔くんを部屋に案内して、落ち着かない彼にコーヒーを出してから、湊にメッセを送った。なかなか既読がつかなかったけど、ついたらすぐさまメッセが飛んできた。
『望永くん来たってマジ?』
『うん。湊に会いにきたみたいだよ。』
『すぐ帰る。まだ終電あるし。』
その返信で、やはり湊の心で翔くんは終わっていなかったんだなと察した。「帰ってくるって」と私が伝えると、翔くんはやや緊張した面持ちを浮かべたものの、「ありがとうございます」と私に頭を下げた。
湊が帰宅したのは、それから一時間後くらいだった。零時をまわって、リビングのこたつで翔くんはちょっとうとうとしてきていたけど、玄関の物音ではっと目を覚ます。こわばった面持ちを向け、現れた湊も緊張した様子で翔くんのすがたを確かめた。「え、と──」と湊は頭を掻く。
「久しぶり、ですね」
「はい。お元気でしたか」
「俺は、まあ。君のほうは」
「俺も──いや、……寂しかった、です」
「えっ」
「岬の家に行っても、おにいさんがいなくて寂しかった」
湊はぽかんと、理解できない様子で翔くんを見つめる。翔くんは頬を真っ赤にして、「俺、別にホモじゃないと思うんですけど」とこたつぶとんをきゅっとつかむ。
「おにいさんと他人になっちゃったのは、すごくつらくて。女の人に取られたのも悔しくて。おにいさんが優しいのは、別に俺だけじゃないって分かってても嬉しかったから」
「望永くん……」
「岬に住所訊いて、追いかけて……きちゃって。すみません。ほんとにすみません。俺、気持ち悪いですよね」
湊は翔くんに歩み寄り、そのかたわらにひざまずく。それと入れ違いに私は立ち上がり、「自分の部屋行くね」と引っこむことにした。
湊はうなずき、それから、そうっと翔くんの黒髪に触れた。翔くんが肩を揺らして湊を見る。何か言おうとした翔くんをさえぎるように、湊は彼を腕に抱き寄せた。「おにいさん」と翔くんのとまどったかぼそい声がして、「湊って呼んで」と湊は翔くんをぎゅっと抱きしめる。
翔くんは狼狽えていたけど、おそるおそる湊の背中に腕をまわして、「湊さん」とささやいた。湊の小さな嗚咽がして、「ずっと君のことが忘れられなかった」というかすれた声も聞こえて──
私は、自分の部屋に入って背中でドアを閉め、思わず笑んでしまいながら、大きな息を天井に向かって吐き出した。
翌朝、リビングにふたりのすがたはなかった。靴はあったから、湊の部屋でひと晩過ごしたのだろう。カフェラテを飲んで、朝食はどうしようなんて悩んでいると、湊が部屋から顔を出した。
「何か恥ずい」と赤面する湊に、「よかった」と私は微笑む。「メッセくれてありがとな」と言った湊は、あのときまさにナンパされていて、ついていこうか迷っていたのだそうだ。
そのうち、翔くんもリビングに現れて、甘えるように自分より背の低い湊の背中にしがみつく。「待って、心臓追いつかないから」と湊は苦笑したものの、「こうしたいって何度も考えたんです」と答える翔くんは、なかなか積極的なタイプのようだった。
翔くんは、クリスマスイヴに久々に中学時代の友達と集まり、湊の弟──岬くんに湊が家を出たことを聞いたらしい。住所を聞き出すとき、岬くんに湊への気持ちも話して理解してもらったそうだ。
「岬、理解したんだ?」
湊はまじろいで、「あいつは、俺が湊さんの話よくするのは知ってたから」と翔くんは照れる。
高校生になって家を訪ねてこなくなったのは、湊に親しい女の子が現れたと聞き、忘れなくてはならないと思ったためだった。三人でこたつに入りながら、「その女の子って」と私が首をかしげると、「鼓さんのことです」と翔くんはばつが悪そうに言った。
「鼓、翔くんには話しておいたら?」
湊がそう言ったので、私はやや考えたものの、話しておかないと確かに翔くんも不安をぬぐえないだろうと思って、自分がアセクシュアルであることを打ち明けた。アセクシュアルの説明を聞いた翔くんは、そんなセクシュアリティを知らなかったようで驚いていたけど、納得はしてくれた。
「これからも、ずっと恋愛はしないんですか?」
「しないと思う。というか、恋愛感情そのものが分からないの。人が信じられないわけではないけど、相手の心や軆を欲しいとは思わないというか」
「異性愛者でも同性愛者でもないって感じだよな。異性愛者に『同性の恋人を作れ』って言っても意味通じないだろ。鼓には、同性でも異性でも『恋人を作れ』って言われることが違和感なんだと思う」
私は湊の言葉にうなずき、「自分は人に興味がなくて冷たい人間なのかって悩んだときもあったけど」と言葉をつなぐ。
「湊が親友になって、別に自分は人間不信とかじゃないんだって思えるようになった」
「そう、なんですか。不思議な感じですね、俺は自分はストレートだと思ってたけど、何か……湊さんのことは、鼓さんがいるって知って嫉妬で自覚した感じかも」
「女の子を好きになった子とはあるの?」と私が問うと、「ありますけど、小学生のときだしなあ」と翔くんは苦笑いする。
「けど、バイって感覚はないです。男も女もOKって感じじゃないというか……湊さん好きになったのは、湊さんだったからって感じです」
「そういうセクシュアリティもあるんだろうな。名前も探せばあるのかも」
「翔くんだけじゃないと思う。私のことアセクシュアルじゃないかって言ってくれた人も言ってたんだけど、翔くんが世界で初めてのタイプだったとしたら、それは逆にすごいと思わない?」
湊も翔くんもその意見に笑い、「確かに」とうなずいた。
そのあとも、三人でまったり過ごすことができた。ときどき翔くんは湊をじっと見つめて、湊がその視線にまばたきをすると、「湊さんとこんなふうにゆっくり話せたことなかったから嬉しい」と翔くんははにかみながら咲う。その言葉に湊も照れ咲いして、「俺も見てるだけ以上はないと思ってた」と優しく翔くんを見つめ返す。
そんなふたりを私は眺めて、ああ、このふたりを見ていたいなと思った。水瀬先輩と時野先輩にそう感じたように、このふたりをそばで見守りたい。
そのあとの年末年始、湊は弟の岬くんと翔くんのことで話がしたいと思ったそうで、帰省していった。私はひとりで過ごしたけれど、何となく、もしかして自分は孤独死しないかもしれないとか考えた。
恋愛や結婚だけが、人間関係ではない。湊、翔くん、水瀬先輩や時野先輩。私はちゃんと、ゆっくりとだけど、誰かと関わりながら生きている。
愛する人を看取ったり、自分の子供に看取られることはないだろう。でも、私がいつか死んだら、哀しい、寂しい、って泣いてくれる人はいるし、これからも現れていくのだと思う。
春になって、私も湊も無事就職を果たした。私は結婚式場、湊はブライダルプロデュースの会社にそれぞれ採用された。高校を卒業した翔くんは、大学を卒業したらこちらに移り住みたいと言っている。「そしたらシェアも解消だね」と私が咲うと、「俺は三人でもいいけどなー」なんて湊は咲う。
この先、そのことがどうなるのかはまだ分からない。でも、私は湊と翔くんを見ていたい。それが私の幸せだから。本の中より、スクリーンの中より、フィクションじゃない目の前で。確かに愛が存在することをそっと眺めることが、私を満たしてくれる。
朝起きて、ガラス戸のカーテンを開けると、雨の気配がしていた。もうじき六月だ。ジューンブライドでいそがしくなる。たくさんのカップルが、ついに恋人から夫婦へと結ばれるのを見送れる。
といっても、まだ担当はさせてもらったことはなくて、補佐ばかりだけど──担当できるようになったら、いつでも大丈夫ですって、一番にあのいちご飴のアイコンを呼び出さないと。
空は湿って灰色だけど、今、心はとても晴れやかに軽くて、どんな未来も楽しみなくらいに、きらきらしている気がした。
FIN
