マグネット-1

 物心ついたときから、あたしの家にはパパがいなかった。
 けど、代わりにおねえちゃんの彼氏があたしのこともかわいがってくれて、その彼氏があたしは大好きだった。幼稚園のとき、「授ちゃんと結婚したいなあ」なんて言ったときは、「俺は桃と結婚するからなー」ときっぱり言われちゃったけど。
 そんな授ちゃんが、あたしが小学三年生になるのをひかえた春、あたしの家のダイニングで「仲良くしてやってほしいんだけど」と紹介してきたのが鈴ちゃんだった。
 この春、同じ校区に引っ越してきた子で、まだ友達がいないらしい。鈴ちゃんはおっとりした顔立ちをして、髪はシュシュで両脇に束ね、授ちゃんの手をきゅっと握っていた。
 おねえちゃんは、そばのキッチンでランチを作ってくれている。
「この子、授ちゃんの何?」
 手をつないでいることに、正直むっとしながら訊いてみると、「鈴はなー」とテーブル越しの授ちゃんは鈴ちゃんの頭を撫でた。
「俺の妹です」
「えっ?」
 ぎょっと鈴ちゃんを見ると、鈴ちゃんは授ちゃんを見上げてはにかんで咲った。
「何で? だって、授ちゃん、妹になるのは杏だって言ってたのに!」
「うん、杏もいつか妹になるけどな」
「いつかとかやだよっ。じゃあ、あたしもすぐ授ちゃんの妹になる」
「杏を妹にするには、桃と結婚せんとなあ」
「何でその子はすぐ授ちゃんの妹になれるの? ずるいよ」
 あたしが涙目でちょっとぐずると、「杏さん」と授ちゃんはいつもあたしをたしなめるときの呼び方をした。
「何とこの子は、俺のかあさんの娘です」
「へっ……?」
「実は、俺にも一応かあさんいるんだよな。ずっと会えてなかったけど、やっと会えたんだ。そしたらかあさん、再婚してて──うーん、何か話がややこしいな。とにかく、俺と鈴はかあさんが同じなの。じゃあ、妹だろ?」
「……おかあさんが、同じ」
「そう。桃と杏みたいに」
 鈴ちゃんを見つめなおした。鈴ちゃんは、あたしの剣幕にちょっと恐縮している様子だった。
 おねえちゃんとあたしみたいに、ママが同じ──それは確かに、妹としか言えない。
「俺と桃が結婚したら、杏と鈴は姉妹にもなるわけ」
 授ちゃんに目を戻した。
「だから将来も含めて、仲良くしてくれたら嬉しいんだけどな」
 あたしはしばらくむうっと頬をふくらませていたけど、鈴ちゃんを見て、「授ちゃんはおねえちゃんの彼氏だから、手をつなぐのはダメだよ」と言った。とまどったような鈴ちゃんに、あたしは椅子を降りると、そのかたわらに行って手をさしだした。
「杏がつないでてあげる。ね?」
 鈴ちゃんはまばたきをして、授ちゃんを見上げた。授ちゃんがうなずくと、鈴ちゃんはつながっていた手を離し、椅子を降りてあたしの手を握ってくれた。目線は同じくらい。あたしがにっこりすると、鈴ちゃんもほっとしたように微笑んだ。
 このときから、鈴ちゃんはあたしの一番の親友になった。
 ピンク色の桜がいっぱいにあふれる中、あたしと鈴ちゃんは同じ小学校の三年生になった。クラスは違ったけど、授ちゃんから頼まれただけに使命感もあり、あたしはしょっちゅう鈴ちゃんのクラスを訪ねた。
 鈴ちゃんは引っ込み思案なところがあるようで、あたしがやってくると「杏ちゃん」と安心したような笑顔を見せる。
「鈴ちゃんのクラス、次は何の授業?」
「算数だよ」
「そっかー。九九って何で暗記なんだろー」
「でも、私、九九がなかったら、かけ算自信ない……」
「えっ、鈴ちゃん、もうかけ算もやってるの?」
「塾ではやってるよ」
「そうなんだー。杏も塾行ったほうがいいかなー」
 あたしと鈴ちゃんが、開いた窓越しにそんな話をしていると、「いまどき塾も行ってないとか」という声がして、あたしはかちんときてそちらを見る。
 やっぱり、声の主は榎野えのいつきだ。あたしと幼稚園が一緒だった男の子で、いつも何だかんだとちょっかいを出してくる。小学生になってからはクラスも別でせいせいしていたのだけど、今年樹は鈴ちゃんと同じクラスで、結局よく顔を合わせていた。
「樹、うるさいしっ。うちにはうちの……ジショウがあるのっ」
「ジショウ?」
「……そう、ジショウ!」
「ふうん……」
「それにね、おねえちゃんも授ちゃんも、塾なんて行ってなくて大学生なんだから。そのほうがすごいもん」
 途端に、樹がむすっとした顔になる。「何よ」とあたしが突っかかると、「別に」と言っておきながら、樹はあたしをじいっと睨む。
「お前、小学生になっても授ちゃん授ちゃんって、マジでうるせーし」
「は? いいじゃない、授ちゃんはあたしの自慢だもん」
「そいつ、お前の何でもないじゃん」
「授ちゃんはおねえちゃんと結婚するから、あたしのおにいちゃんになるのっ。絶対っ」
「結婚なんて絶対じゃねーし」
「絶対ですー」
「だいたい、もう紺野こんのの兄貴なんだろ」
 樹はいきなり鈴ちゃんを向き、鈴ちゃんはまばたきをしたあと、「杏ちゃんと私は姉妹になるって、授おにいちゃんは言ってたけど」と口ごもりながら答える。樹はおもしろくなさそうな面持ちをしたあと、「何だよ、みんなそいつのことばっかり」とつぶやいた。
「みんなって、あたしと鈴ちゃんだけじゃない」
「テレビとかでも言ってるじゃねーか」
 あたしと鈴ちゃんは顔を合わせてから、「いつ映ってたの!?」と同時に身を乗り出す。
「い、いつって……ニュースとか……」
「榎野くん、ニュース観るの? すごいね!」
「えーっ、あたしも見るようにしなきゃ。何チャンネル?」
 わいわいと盛り上がるあたしと鈴ちゃんに、樹が調子が狂うような顰めっ面をしたとき、チャイムが鳴った。
「わっ、教室戻んなきゃ!」とあたしは慌てて窓から身を引き、「鈴ちゃん、またねっ」と手を振って廊下を駆け出す。樹のことは無視。
「こら、廊下は走らなーい!」と鈴ちゃんのクラスの先生にすれ違いざまに小突かれたけど、「走るジショウがあるからーっ」と叫んであたしはそのまま廊下を抜けて、自分の教室に飛びこんだ。
「時野さんはむずかしい言葉を知っていますね」
 あたしのクラスの先生は、天然パーマと丸眼鏡がちょっと漫画のキャラみたいな男の先生だ。やっぱり廊下を走ってきたのを注意されて、「ごめんなさーい」と照れ笑いをして自分の席に引っこむあたしに、その先生──秋ヶ瀬あきがせ先生はそう言った。
「へ?」
「事象って。使い方は少し──あれですけど」
「んー? おねえちゃんが、家のジショウが何とかって前に言ってたからですー」
「ああ、それは……事情ですね」
「え?」
「いえ、またあとで話しましょう。──皆さん、もうすぐゴールデンウィークが始まりますね。なので、三時間目と四時間目の図工では、こどもの日の鯉のぼりのちぎり絵を作りましょう」
「はーい」とみんなの声が揃って、秋ヶ瀬先生は画用紙を配りはじめる。「色紙は前に来て、好きな色をたくさん取っていってくださいね」と先生が言うと、がたがたっとみんな席を立って教卓に集まる。好きな色の色紙は欲しいけど、まずはあたしは下書きのための鉛筆、それと糊もつくえに用意しておく。鯉のぼりって──大きな真鯉はおとうさん、ちいさい緋鯉はこどもたち、だっけ。
「ねえねえ、先生」
 ちょうどかたわらを通りかかった秋ヶ瀬先生に声をかけると、「何でしょう?」と先生はにっこりする。
「大きな鯉は、おとうさんなんですよね」
「そういう歌はありますねえ」
「でも、あたしの家の大きな鯉は、ママで合ってますか?」
「もちろん。時野さんのおかあさんは素敵ですね。バイタリティを感じます」
「ばい……りりぃ」
「元気でかっこいいってことです」
「うん! ママはいつもかっこいいよ! でも朝はすごく眠そう」
「はは、そうなんですね。先生も朝は苦手なので分かります」
「えーっ、朝はすっきりしてるよお。始まるぞーっ、がんばるぞーって」
「素晴らしいです」と秋ヶ瀬先生はあたしの頭を撫でてくれて、あたしは「えへへ」と咲う。そのときほかの子が先生を呼んで、「どうかしましたか?」と先生はそちらに顔を向けて移動する。
 けっこうあの先生好きなんだよなあ、と思いながら、あたしは教壇を見て、色紙を選ぶ人が減っていたので席を立った。
 幼稚園までは、お迎えがあるまで帰ることができなかった。でも、小学生になってあたしは自分の鍵を持たせてもらえて、ひとりで帰ってもいいことになった。
 ママとおねえちゃんは『ほうかごルーム』の利用も考えたようだけど、あたしは鈴ちゃんと下校したかったし、鈴ちゃんのママが、あたしをマンションの部屋にひとりにするのが心配なら、うちの家に来てくれたらいいと言ってくれた。
 鈴ちゃんのママは、つまり、授ちゃんのママだ。会ってみて、顔立ちに授ちゃんの面影を感じたので、あたしはすぐに鈴ちゃんのママに懐いた。
 その日もあたしは、いったん家に帰ってランドセルを置くと、鈴ちゃんの家に向かった。鈴ちゃんの家は、授ちゃんの家と同じ住宅地にある。
 授ちゃんの家にも、何回か行ったことはある。おにいさんがいっぱいいた。あと、授ちゃんの家はパパがふたりいる。代わりにママがいない。ふたりのパパはとっても仲が良くて、おねえちゃんと授ちゃんみたいだ。
 特に、南パパはおねえちゃんぐらい料理が上手で、ご馳走になったときにあたしは感動してしまった。司パパはすごくかっこよくて、「血の上では俺のとうさんは司だよ」と授ちゃんが言っていた。
 また授ちゃんちにも行きたいなあ、と思いつつ、あたしは到着した鈴ちゃんの家のチャイムを、少し背伸びして押して鳴らす。
「杏ちゃん。今日のおやつ、カスタードプリンだよ。ママが作ってくれてた」
 ドアを開けてくれた鈴ちゃんが言って、あたしはぱあっと表情を華やがせる。鈴ちゃんのママはずっと家にいるから、よく鈴ちゃんとあたしにお菓子を作ってくれる。「お邪魔しまーす」とあたしは声をかけながら鈴ちゃんの家に上がり、確かにカラメルソースの香ばしい匂いを嗅ぎ取る。
「杏ちゃん。いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
 ダイニングのテーブルに、カスタードプリンのお皿とカフェオレのマグを並べてくれていた鈴ちゃんのママは、あたしに穏やかに微笑みかけてくれた。やっぱりその顔は、授ちゃんの顔立ちや輪郭が柔らかくなった感じで、あと、穏やかさも重なっている。
 この人が授ちゃんのママで、司パパが授ちゃんのパパなら、ふたりは前は結婚してたのかな? そこまではあたしは知らないけど、たぶんそうなのだろう。
「かあさん、咲ってるんだよなー」
 このあいだ、あたしの家で授ちゃんがごはんを食べてくれたとき、授ちゃんはもりもりとおねえちゃんの手料理を食しつつ、ふとそんなことをつぶやいていた。
 その日は、おねえちゃんと授ちゃんが一緒にあたしを鈴ちゃんの家に迎えにきてくれた。だから、ついさっき授ちゃんは自分のおかあさんと顔を合わせたところだった。
 おねえちゃんは箸を止めて、「おかあさん、すごく落ち着いて見える」とうなずいた。
「昔は、何つーか……司もだけどさ。司はいつもいらいらしてるわけ。で、かあさんは暗いというか、泣いてるとか、そういうのばっかで。今はぜんぜん違う。すばるさんに大事にしてもらえるんだろうな」
 昴さん、というのは鈴ちゃんのおとうさんだ。鈴ちゃんとよく似たおっとりした面差しのおとうさんだけど、意外としっかりした面もあり、奥さんの家事を手伝ったり、鈴ちゃんの勉強を見たりしている。
「かあさんが幸せになってくれてて、ほんとよかったなーと思う。桃もかあさんと仲良くしてくれてるしな」
 授ちゃんがにっとすると、おねえちゃんは微笑む。
「私も初めて会うときは、授くんの話の印象しかないから不安だったけど、優しくしてもらえてほっとした」
「杏も! 杏も鈴ちゃんのママとは仲いいよっ」
 あたしが口をそうはさむと、「だよなー」と授ちゃんはテーブル越しににっこりしてくれて、その隣のおねえちゃんも「鈴ちゃんとも仲良くしてるもんね」と褒めてくれる。あたしは得意になってにこにこしてから、授ちゃんが吸いこむみたいに食べていってしまうからあげを頬張った。
 カスタードプリンを食べ終わったときには、鈴ちゃんのママはリビングでテレビを観ていた。そういえば、樹がテレビで授ちゃんを見たとか言っていた。気になったものの、さすがに自分の家のテレビみたいにチャンネルを自由にはできない。今映っているかどうかも分からないし。
「杏ちゃん、遊ぶ前に宿題終わらせよう」
 鈴ちゃんが言って、あたしはこくんとして、持ってきた手提げからプリントを取り出した。クラスが違って宿題も違うので、相談することはできず、黙々とあたしたちは宿題に打ちこむ。

第二話へ

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