忘れな草-2

 五月の連休中、その人──紫さんは私とパパの家を訪れた。かなり緊張しているようだったけど、私の瞳を見つめて、丁寧に話しかけてくれた。紫さんはパパと同じ職場の人だけど、もうすぐ辞めることになっていて、もしパパと結婚したら基本的に家にいることになるらしい。
「鈴ちゃんと過ごす時間も長くなると思うから、もし私が苦手って感じるなら言ってね。紺野さんの迷惑にはなりたくないから」
 紫さんの隣にいるパパは、その言葉に何か言おうとしたけど、それより私を見つめた。ダイニングテーブルをはさみ、私は紫さんのどこか哀しそうな目や、あまり化粧も濃くない顔立ちを見て、「パパのこと好きなんですか?」と問うた。
「えっ。あ──今は、まだ、尊敬のほうが強いかな」
「ソンケイ」
「素敵な人だなとは思ってるよ」
「ほんとですか?」
「うん。私にはもったいないくらい」
 私はパパを向いて、「パパは紫さんのこと好きなの?」と確認する。
「もちろん。紫さんのことを守ってあげたいと思ってるよ。鈴のことぐらい」
 パパのなごやかな瞳に、「そっか」とうなずいた私は、「紫さんが鈴のママになるんだよね」と訊く。
「そうだな。紫さんは前のママとは違うよ。子供を持ちたい気持ちは強い人だから」
「そうなの……?」
 紫さんに目を向けると、「私にはね、ほんとは息子がふたりいるの」と紫さんは哀しそうな目にさらに影を落とした。
「でも、一緒に暮らして育ててあげられなかった。だから、そのぶん鈴ちゃんのおかあさんになってあげられたら嬉しい」
「鈴のママになれたら嬉しい……の?」
「うん。鈴ちゃんは、私がおかあさんになるのは、嫌かな」
 私はいったん顔を伏せたものの、嫌だなんてとんでもなくて、むしろ紫さんの言葉は嬉しくて、「鈴も紫さんがママになったら嬉しい」と答えた。パパと紫さんは顔を合わせ、ほっとしたように微笑みあうと、「ありがとう、鈴」とパパは私の頭を撫でる。「違うよ」と私は首を横に振った。
「ありがとうは鈴が言うの。だって、ママを見つけてくれたんだもん」
 するとパパは笑って、紫さんも「優しい子ですね」とパパに言った。そんなふたりに、「紫さんはいつから鈴のママになるの?」と私が急かすように訊くと、「もうママになってもらっていいかな」とパパは紫さんに尋ねる。「私でよければ」と紫さんはうなずき、私がわくわくした目を輝かせていると、「じゃあ、今から紫さんは鈴のママだ」とパパは言った。
 私はぱあっと笑顔になると、椅子を降りて紫さんのかたわらに駆け寄って、「よろしくお願いしますっ」と幼稚園で教わった仲良くするための挨拶をした。すると紫さんは表情をほころばせ、「こちらこそよろしくお願いします」と応じ、私の頭を撫でてくれた。
 それからまもなく、パパと紫さんは結婚して、三人で暮らしはじめた。あの哀しそうな目で、紫さんには危なげな印象もあったのだけど、パパと私と毎日を過ごして、次第に穏やかさを持ちはじめた。
 作ってくれた料理を「おいしい」と言って食べると、幸せそうに微笑んでくれる。私が眠るときは、絵本を読んでくれたり、ずっとお腹をぽんぽんしてくれたりする。私はすぐに紫さんを「ママ」と呼ぶようになり、ママも私を「鈴」と呼ぶようになった。
「ねえ、ママ」
 朝、幼稚園に行く前に髪を梳いてもらいながら、私はちょっとだけ気になっていることを訊いてみる。
「うん?」
「ママが一緒に暮らせなかったふたりって、鈴のおにいちゃんになるの?」
「……そうなのかな。そう思ってもらえたら嬉しいね」
「いつか会ってみたいなあ」
 その言葉に「そうだね」とママは微笑し、私の髪を両肩でまとめてシュシュで飾ってくれた。そう言っておにいちゃんたちに会えることはなかったけど、ママの親友だという巴さんという女の人は紹介してもらった。
 ママと同じで四十代半ばなのだけど、はきはきと活発な人で、芸能人がテレビで着る洋服を決めたり見立てる仕事をしているらしい。その華やかさに「すごい」と思わずまばたきすると、「今度鈴ちゃんの服も一緒に見に行こうか」と巴さんは言ってくれて、私ははしゃいでしまった。
 やがて、私が小学生になるのも近づいてきた頃、巴さんがふたりのおにいちゃんがママに会いたいと言っているのを伝えてくれた。それを聞いたママはすごく動揺して、パパと話し合って何とか落ち着いたものの、「私はあの子たちに会う資格があるのか分からない」と静かにつぶやいた。
「資格なんて関係ないよ。紫さんが会いたいなら、会っておいで。きっとその子たちも、心の整理がついて『会いたい』って言ってきたんだろうから」
 パパの目を見ても不安そうなママに、私は「鈴はママと一緒にいるの大好きだから、おにいちゃんたちもママとお話したいと思うよ」とその膝に身を乗り出した。ママは私を見て、「あの子たちには私はいいおかあさんじゃなかったのに」と泣きそうになる。「でも、今はすっごくいいママだよ!」と私は言い切って、ママの手をつかんだ。
 ママは涙目でその手を握り返した。そこにパパの手も重なり、「大丈夫だよ、紫さん」とパパはママをあやすように抱き寄せてささやく。そんなふうに私とパパに励まされ、ママは意を決しておにいちゃんたちに会いにいった。
 ママを見送ったその日は、私とパパまでそわそわ落ち着かなかった。巴さんに送られて帰宅したママは、泣き腫らした目だったとはいえ、安堵を浮かべていて私たちにお礼を言った。私とパパの励ましがなければ会いにいく勇気が出なかった、そしてまたあの子たちを傷つけていたと。おにいちゃんたちはママに会えてとても喜んだそうで、私やパパにも会ってみたいと言ってくれたらしい。「鈴も会いたい!」と私がすぐ答えると、パパもうなずき、三月になった春先、私とパパはおにいちゃんたちが暮らしている家にお邪魔することになった。
 その家には、おにいちゃんふたりだけでなく、ママの昔の旦那さんとその相手、そして、相手の人の子供であるおにいちゃんもふたりいるのだそうだ。ひとりっこだと思ってきた私は、おにいちゃんがたくさんできるのがすごく嬉しくて、パパが運転する車の中で胸を高鳴らせた。大きな一軒家の前に到着して、チャイムを鳴らすと男の人ふたりが出迎えてくれて、リビングに招かれると四人のおにいちゃんが私とパパを待っていた。
「やばっ、やっぱ美少女じゃん!」
「確かに将来有望だな」
「むさい俺らにやっと妹ですよ」
「女の子って新鮮だね」
 口々に言いながらおにいちゃんたちは私を囲んできた。びっくりしてしまったものの、みんな私を歓迎してくれているのが表情で分かる。「おにいちゃんがいっぱい」と私がはにかんで咲うと、「かわいい!」とか「萌える!!」とかみんな悶えるように騒いだ。
 ひとしきりにぎやかだったあと、改めて紹介を受けた。
 一番上の築おにいちゃん。すごくかっこいい人で、思わずどきどきしてしまう。二番目が授おにいちゃん。顔立ちにママの面影を感じるものの、表情はぱっと明るい。このふたりが、ママの子供でもある。
 授おにいちゃんと同い年の響おにいちゃん。眼鏡をかけて、凛とした雰囲気が大人っぽい。一番下が奏おにいちゃん。人懐っこい感じで、笑顔がほっとさせてくれる。響おにいちゃんと奏おにいちゃんは、巴さんがおかあさんなのだそうだ。
 ママの昔の旦那さんが司さん。築おにいちゃんとそっくりでかっこいい男の人。そして、司さんの「パートナー」として紹介されたたおやかな人は南さんで──「男の人?」と私がきょとんと首をかしげると、「男の人同士でも、愛し合うことはあるんだよ」とパパが優しく説いてくれた。そうなんだ、と初めて知ったけど納得した私は、例によって「よろしくお願いします」と挨拶した。司さんと南さんは柔らかく微笑み、「ありがとう」「こちらこそ」と言ってくれた。
 そんな私のもうひとつの家族のような存在を話すと、暖くんは「よかったな」と微笑ましそうに聞いてくれた。
 暖くんは、この春に小学三年生になった。最近は学校の友達と遊ぶことが増えていたけど、小学一年生になった私を邪慳にすることもなく、責任を持って一緒に登下校してくれている。
「暖くんもおにいちゃんたちと仲良くなれるよ」と言うと、「どうだろうなあ」と柔らかい春風に茶髪を揺らす暖くんは苦笑した。
「俺、不良とか言われるしなー。逆ににいちゃんたちには鈴に近づくなって言われるかも」
「暖くんは不良じゃないもん。優しいもん」
「髪とかこんな色だぞ」
「奏おにいちゃんも染めてたよ。あと、南さんも」
「そうなのか。ま、そういうときがあれば挨拶はするよ」
「うんっ。暖くんは鈴の自慢だよ」
「ありがと」と笑った暖くんは、車が増える車道沿いに出ると、「危ないぞ」と私と手をつないでくれる。暖くんの体温と感触が伝わって、何だか嬉しい。このまま手を握っていられたらいいのにと思うから、やがて学校に着くのがもどかしかった。
 そんなふうに、毎日は穏やかに過ぎていた。
 だけど、月に一度だけすごく嫌だったのは、ママとおばあちゃんに会ってレストランで食事する日だった。ママはもはや私が疎ましいという態度を隠さなかった。目も顔も合わせないし、いらついた仕草で髪に触れたり爪をいじったりしている。
 それとは真逆に、おばあちゃんは私にお菓子やお洋服をプレゼントして、何とか「もっと会いたい」という言葉を言わせようとする。私はうつむいて、あんまり何もしゃべらずにさっさと食事を済まし、いつも早めに「帰りたい」とつぶやいていた。
「ねえ、鈴。今度おばあちゃんたちと遊園地行かない? 動物園のほうがいいかしら?」
 ママの豆腐ハンバーグのほうがおいしいなあと思いながら、とろりとしたチーズの入ったハンバーグを食べる私は、「……こないだ水族館行ったからいい」とぼそっと答える。
「水族館! いいわねえ、おばあちゃんも行きたいわ。社会科見学で行ったのかしら?」
「……普通にパパとママと行った」
 おばあちゃんの眉がぴくんと動く。そして、何やらわざとらしいため息をつくと、「昴さん、こんなに早く再婚なんて」と嘆きはじめる。
「鈴の気持ちを考えないのかしらね。鈴のママはこの子ひとりだけなのに」
「鈴のママは紫さんだよ」
 おばあちゃんの目が不穏を帯びる。それでも私は、フォークとナイフを置くと、「紫さんは私のこといらないとか言わないもん」と続けた。おばあちゃんの隣で黙々と食べていたママの肩が揺れる。
「それに、紫さんのおかげでおにいちゃんもできたの。すごく楽しいんだから。おばあちゃんとどっか行ってるヒマなんてないよ」
 さえぎるように、大きな舌打ちが聞こえた。ママだった。「もういいんじゃないの?」とうんざりした声でママはおばあちゃんを向く。
「私、この子と面会もしたくない。するなら、かあさんひとりで会ってよ」
「ちょっと、落ち着きなさい。──ほら、鈴もおかあさんに謝って」
「何で? 嫌だよ。紫さんがママになって、全部うまくいってるの。でも、このおばあちゃんたちに会う日だけ邪魔だよ。パパも紫さんも心配そうにするし、鈴だって来たくない。会いたくない」
「鈴っ! 何でそんなこと言うの? おばあちゃん、いつもあなたにお菓子もお洋服も持ってきてあげてるのに、」
「頼んでないもん。鈴のお洋服は紫さんのお友達がかわいいの見つけてくれるし、お菓子は紫さんが作ってくれるし──」
「うるっさいなあ! いいでしょ、かあさん。分かったでしょ。この子、もう私たちのこと何とも思ってないんだよ。むしろバカにしてる。こんなに較べられると、いらいらする」
「別に較べてないよ……較べなくても紫さんのほうが、」
 言い終わる前に、ばしっと頬に破裂音と痛みが走った。私はびくっとこわばった。ママが身を乗り出して、私の頬を引っぱたいていた。ママの瞳に灯る憎悪の光に、私は耐え切れずにわっと泣き出した。
 途端、周りの人もざわめき、「ちょっと、母親が娘殴ったよ」「動画撮っとけばよかった」という声が飛び交う。おばあちゃんはそんな周囲にぺこぺこして、ママは席を立つとレストランを出ていった。私がパパとママを泣きながら呼ぶから、さらに周りの人は「まさか家族じゃないの?」と騒ぎはじめる。
 おばあちゃんはスマホでパパを呼んだ。私の泣き声が電話口で聞こえたのだろうか、パパはすぐさま飛んできて、私のぶたれた頬も見て「どういうことですか」とおばあちゃんに詰め寄る。
「これは、鈴があの子に失礼なことを言ったから──」
「紫さんの話をしただけだもん! 鈴のママは紫さんって言っただけだよ」
 パパにしがみつきながら私が訴えると、パパはなだめるように私の背中を撫でながら「妻は鈴を大切にしてくれているんです」とおばあちゃんにきっぱり言う。
「嬉しくて、話題に出したくなるのは分かるでしょう」
「でも、何も本当の母親であるあの子の前で……」
「鈴の本当のおかあさんは紫さんなの! 鈴のこといらないって言った人なんか、おかあさんじゃないよ」
 パパは私を腕に抱いて「分かってるよ、鈴」とあやしてくれる。それをおばあちゃんは苦々しく見ていたけど、ふうっと息をつくと、「分かりました」とテーブルにお金を置いた。
「面会もこれっきりにしましょう。あの子もそう望んでいるし、私も鈴とはつきあえそうにありません。あなた方で自由に暮らしてください。最後のお食事代だけ置いておきます」
 そして、おばあちゃんも身を返してレストランを出ていった。私はようやくほっとしながら、パパの胸にしがみつく。「会ったときはいつもこんなふうにひどかったのか?」とパパは愁眉して、「ママはいつも怒ってた」と私は鼻をすする。パパは抱きしめた私の頭をさすると、「ごめん、もっと早く鈴の気持ちを訊いて断ればよかったな」と謝った。
「これっきりっておばあちゃんも言ってたから、もう会わなくていいよ」
「ほんと? やっぱり会いたいとか言ってこない?」
「ママにぶたれたんだな?」
「え、うん」
「それも含めて、まだ言ってくるようならパパも弁護士さんに相談する。大丈夫、鈴は心配しなくていい」
 私はパパのいつもの匂いがする胸の中でうなずいた。パパはレストランの人に謝り、さりげなくほかのお客さんに向かっても頭を下げた。

第三話へ

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