帰宅すると、紫さん──ママが心配しながら待っていて、私はその軆に抱きついた。パパに事情を聞いたママは「鈴、ごめんね」と言った。私はぶんぶんと首を振り、「ママが鈴のママだって言っただけだよ」とママにくっつく。ママは私の頭を撫で、今度は「ありがとう」と小さく微笑んでくれた。
翌月、おばあちゃんからパパに連絡が来ることはなく、ずっと憂鬱だった食事会がなくなった。この頃から、パパは引っ越しを考えはじめていたらしい。ママはともかく、おばあちゃんは何の理由をつけてまた私に接触しようとするか分からない。
そんなパパの悩みを聞いたのは司さんと南さんだった。特に司さんは家を作るのが仕事らしく、家探しにもいろんなツテを持っていた。「希望があれば近いもの探してみますよ」と言ってくれて、協力してもらうことになった。
そのとき、「俺たちの近所においでよー」と私とアニメを見ていた奏おにいちゃんが言ってくれて、その言葉に「確かに、紫さんも気軽に築くんと授くんに会いたいかな?」とパパはママに訊いた。「築と授がいいって言ってくれるなら」とママが答えると、そのときふたりは不在だったけど、「あいつらはそのほうが喜ぶだろ」と司さんが言った。「近所だったら、僕たちも鈴ちゃんをある程度守ってあげられるかもしれないね」と本を読んでいた響おにいちゃんも言ってくれた。
そんなわけで、私とパパとママは、三人で相談しながら休日に住宅街の空き家を見てまわった。そして、みんなの家から歩いて十五分くらいの一軒家が借りれることが決まり、私たちは引っ越すことになった。
引っ越しが決まったのは小学二年生の真冬で、二年生のあいだは今の小学校に通えるようにパパが計らってくれた。私は暖くんと手をつないで登校しながら、引っ越しのことを伝えた。
暖くんは驚きを見せたものの、「そっかあ」とわりとあっさり受け入れて納得した。「また会えるかな」と私が白い息と共にこぼすと、「いつか会えるといいな」と暖くんはにっとしてみせた。冷えきった風がぶつかってくる中、あんまり哀しそうにはしてくれないんだな、と思って、それを私は少しだけ哀しいと感じた。
三月の終了式を終える頃には、家の中は段ボールだらけになって、四月に入るのを待たずに新居に引っ越す日が来た。子供の私はあんまり手伝えることがなくて、マンションの前の階段に座ったり、今年も咲いている植木の青い花を見たりしていた。
荷物の運び出しが終わって、「鈴」とママに呼ばれて私ははたと顔をあげる。ママは私のかたわらに来て、「何かあるの?」と尋ねてきた。「このお花、毎年ここに咲くの」と私が青い花を指さすと、「忘れな草ね」とママは言った。
「わすれな……ぐさ?」
「『私を忘れないで』っていう意味のお花なの」
私はまばたきをした。私を忘れないで。「……じゃあ、このお花、暖くんにあげたらダメかなあ」と訊いてみると、ママは柔らかく笑んで「ひとつくらいなら摘んでいいかも」と言ってくれた。
私はどの花が一番生き生きしているか目を凝らし、花びらがつやつやしたひとつをそうっと摘んでみた。そして立ち上がり、「暖くんのおうち行ってくる」とママに言い置くと、マンションの中に駆けこんでいった。
三階の暖くんの家を訪ねると、暖くんのおかあさんが顔を出した。「暖くんいますか?」と問うと、「部屋にいると思うよ」と暖くんのおかあさんは私を家に通してくれた。私は花がこぼれないようにしながら、暖くんの部屋のドアをノックする。ついで「暖くん」と声をかけると、暖くんは寝ていたのかどうか、目をこすりながらドアを開けてくれた。
「んー、どうした? 今日、引っ越しじゃなかったか」
「うん。その前に、このお花を暖くんにあげようと思って」
「植木のとこの奴じゃん」
「このお花ね、えっと──『私を忘れないで』っていうお花なの」
「え、その花、そんな名前なのか?」
「うん。ママが言ってた」
「知らなかった」
「私も。それでね、これを暖くんにあげたいの。暖くんには、また会いにくるから。私のこと、憶えててほしいの」
暖くんは私を見つめ、不意に小さく咲うと「忘れたりしないのに」と私の頭を撫でた。
「鈴こそ、俺のこと忘れんなよ」
「忘れないよっ。暖くんは私の一番だもん」
「へへ、そっか。ありがと。でも、これもらっただけだと枯れるなあ」
「えっ。あ……そっか。どうしよう」
「まあ、何か残せないかかあさんとかに訊いてみる。ちゃんと大事に持ってるよ」
「うんっ。えと……あの、じゃあまたね」
「おう」
「初めて逢ったときから、いっぱい、ありがとう」
「うん」
「会えなく……なる、けど。絶対、また、遊ぼうね」
暖くんは微笑んで、「鈴を忘れないよ」と約束してくれた。そして、その手に花を受け取ってくれる。私と暖くんは見つめあい、離れたくないなあ、という想いがお互いの中で通じた。
でも、もう出発だ。私は泣きそうになってきたのをこらえて、何とか暖くんに笑顔を見せて玄関に走った。暖くんのおかあさんが「鈴ちゃん、ありがとね」と私の頭をぽんぽんとしてくれて、ちょっとだけ涙が落ちた。
私は暖くんのおかあさんにちょこんと頭を下げて、暖くんの家をあとにして、マンションも出た。ママが待っていてくれて、私はその軆に抱きついてまたちょっとだけ泣いた。
新しい家の引っ越し作業は、おにいちゃんたちも手伝いに来てくれてにぎやかだった。「学校でお友達できるかなあ」という私のつぶやきを聞いた授おにいちゃんが、「俺の彼女の妹も、今度小三だよ」と声をかけてくれた。「そうなの?」と私が興味を持ったのを見取り、授おにいちゃんはその子を私に紹介する約束をしてくれた。そうして出逢ったのが、授おにいちゃんの彼女である桃さんの妹、杏ちゃんだった。
初めは杏ちゃんは私に不審そうにしていたけど、すぐ手をさしのべて仲良くしてくれるようになった。同じクラスになれたらよかったけど、さすがにそこまでうまくいかなかった。けれど、杏ちゃんは休み時間に私の教室まで遊びにきて、たくさん話をしてくれる。
杏ちゃんは授おにいちゃんが大好きなようで、話題もそのことが多い。授おにいちゃんと桃さんが結婚したら、私は杏ちゃんと姉妹になる。それが私は楽しみだった。
私のクラスには、榎野樹くんという男の子がいて、その子は杏ちゃんと幼稚園が同じだったらしい。私に会いにきた杏ちゃんに、しょっちゅう絡んでいるから、杏ちゃんが好きなんだなあとはたから見ているとすぐ分かった。肝心の杏ちゃんは、ぜんぜん気づいていないようだけど。
杏ちゃんが来なかった休み時間、榎野くんが私に話しかけてきたことがある。曰く、自分でこのクラスに友達を作れというのだ。
「え、でも、杏ちゃんがいるから大丈──」
「お前がそうやって甘ったれてるから、あいつも自分のクラスに友達作れねーかもしれないだろっ」
榎野くんを見つめて、考えてみればそうかもしれないと思った。私のせいで、杏ちゃんに自分のクラスの友達がいなかったら──。
「だいたい、あいつもこのクラスに来すぎなんだよ。何だよ、離れたと思ったのに」
私は首をかしげて、「榎野くんは杏ちゃんが遊びにくるのは嬉しいでしょ?」とまばたきをした。「はあっ?」と榎野くんは頬を真っ赤にして大声まで出した。
「何でだよっ。鬱陶しいんだよ、あんな奴。だから……その、来なくていいしっ」
「榎野くん、杏ちゃんのこと好きなのに」
私があっさり口をすると、榎野くんは熱で故障したみたいにかたまってしまった。それを見ていたクラスの子たちが一気に爆笑して、「紺野さんの勝ちだねー」とそばにいた女の子たちが言った。
「友達作れとか、時野さんが紺野さんと仲いいの嫉妬してるのがばればれだしー」
「えっ、そうなの?」とそこまでは思わなかった私がきょとんとすると、「そだよー」と女の子たちは笑い、「それは違うっ」と榎野くんは懸命に訴えてくる。
「俺はあいつがクラスで浮いてたらとか心配してっ──」
「心配なんだ」と私が冷静に言うと、榎野くんはまた攻撃を食らったように声を上げ、「お前マジムカつくなっ」と私を睨んできた。「でも、私は榎野くんと杏ちゃんのこと応援してるよ」と返すと、榎野くんは表情をすくませ、「いや、応援とか……されても」とか言って、まんざらでもなさそうにする。
分かりやすいなあと思いながら、「杏ちゃんがクラスに好きな人いないといいけど……」とそういう話はしたことがないので私がつぶやくと、榎野くんは急にショックを受けた顔になって、「杏に好きな人……」とか何とかぶつぶつしながら席に戻ってしまった。
次の休み時間、杏ちゃんが教室に来ると、クラスに友達がいるかどうかは訊いた。「え、いるよ普通に」と杏ちゃんは不思議そうに答えて、「鈴ちゃんは?」と訊き返された。
私は──いないのかな、と言おうとしたとき、「うちら仲いいよ!」とさっきの女の子たちが声をかけてきて、「時野さんには負けるけどねー」と言い添えて私ににこっとしてくれた。「そっか!」と杏ちゃんはほっとした笑みを見せて、「杏も一番は鈴ちゃんだよ」と言ってくれた。
やがて五年生になり、クラス替えで杏ちゃんと同じクラスになれた。ついでに、榎野くんも同じクラスだった。陸上クラブに入った榎野くんは、完全に授おにいちゃんをライバル視しているようだ。私と杏ちゃんは家庭科クラブに入って、料理やお裁縫を楽しんだ。
委員も一緒に保健委員になった。杏ちゃんもさすがに榎野くんの態度に感づくものがあるのか、私たちは初めて好きな人がいるのかという話をした。好きな人、として格別に意識したことはなかったけれど、もしいるとしたらと思って、私は少しだけ暖くんのことを話した。
暖くん、今頃どうしているだろう。もう中学生になっているのか。こちらに引っ越してきて、一度も会ってない。電話も手紙も交わしていない。私のことを憶えてくれているだろうか。
私は憶えている。暖くんに忘れな草を渡したことも。鈴を忘れないよ、と言ってもらったことも。だけど──二年間はすごく大きくて、暖くんは中学生になっていると思うとさらに遠くて、どんな機会で会いにいけばいいのかどんどん分からなくなっていた。
六月には林間学校があって、私は初めて家に帰らず外泊をした。バスでは杏ちゃんが隣の席だったし、自然の家に到着してからの山登りも杏ちゃんと同じグループだった。翠蓋を抜けて汗だくになりながらお昼時に山頂に着くと、ママが作ってくれたお弁当を食べて、アスレチックで遊ぶところを担任の秋ヶ瀬先生にたくさん写真を撮ってもらった。
夕方に山を下りて、夕食と入浴を済ますと、今度はキャンプファイアだ。飲みこむような夜の闇に、大きな炎がぱちぱちと燃え上がるのをみんなで囲む。そして事前のくじで決まっていたペアの男子と出発する肝試し──うめき声より、肩に乗る手より、飛んできたこんにゃくの感触が一番怖かった。みんな無事に自然の家の前に戻ると、宿泊する部屋へと解散になる。もちろん、泊まる部屋も杏ちゃんと一緒だ。
「杏ちゃんと榎野ってつきあってるの?」
消燈の二十二時を過ぎても、懐中電燈を持ってきている子のところにみんな集まり、お菓子を食べながら無駄話は続く。そして、やはりこういうときは恋愛の話が多い。杏ちゃんもそんなことを訊かれて、「な、ないよっ。樹はそんなんじゃないし」と慌てて否定していた。その様子を私がにこにこと眺めていると、「鈴ちゃんっ」と察した杏ちゃんは頬を染めて私を揺する。
「今頃、榎野くんも杏ちゃんの話してるのかなあ」
「してないよっ。もう、みんなあいつのことは話さなくていいから」
「でも、榎野って五年になってからちょっとかっこよくなったよね」
「ちょっとねー」
「早めに抑えたほうがいいかもよー?」
みんなに揶揄われて杏ちゃんはむくれてしまい、「大丈夫だよ」と私は杏ちゃんをなだめた。
「榎野くんは杏ちゃんひと筋だから」
「……もお、みんなそういうこと言うんだからっ」
「私はうらやましいけどなあ」
「うらやましくなくていいよ」
「私は、あの人に憶えてもらえてるかも分かんない」
みんなには聞こえない小さな声で言うと、杏ちゃんはまじめな顔になって、「例のおにいさん」と同じく声をひそめて訊いてきた。私はこくんとする。
「どうしてるかなあ。中学生って、もう彼女とか作るかな?」
「どうなんだろ。あ、おねえちゃんと授ちゃんは中一からだ」
「……会いたいなあ」
私がしんみりつぶやくと、杏ちゃんはじっとこちらを見つめてきて、「一緒に会いに行く?」と言った。
「えっ」
「ほら、来月は夏休みになるし。あたしも一緒だったら、おかあさんがいても守ってあげられるでしょ」
「杏ちゃん……」
「あたしも鈴ちゃんの好きな人には会ってみたい」
「……うん。暖くんも、そうだと思う」
「ダンくんっていうの?」
「そう。でも、彼女とかできてたら嫌だなあ」
「だったら、なおさら早く会ったほうがいいじゃん。たぶん、高校生になったときのほうが、彼女とか作るし」
「……そっか」
「夏休みに一緒に会いにいこうよ。あたしも、鈴ちゃんのこと手伝いたいもん」
「手伝う」
「あ、えと──その、あたしと樹のこと、鈴ちゃん応援してくれるから」
懐中電燈の光の中で杏ちゃんを見て、つい微笑んでしまうと、杏ちゃんも照れ咲いを返してくれた。
暖くんに会いにいく。杏ちゃんと一緒なら、確かにあの町に行くことをパパとママも分かってくれるかもしれない。
反対されたことがあるわけじゃなくても、パパは私を守るために引っ越してくれた。あの町に近づいてほしくない想いはあると思う。でも、暖くんに会いたいと言えば、それは理解してくれるだろう。
【第四話へ】
