今月の紗琴さんとのランチは、十月が終わりかけた週末だった。何度か一緒に行ったのことのある、イタリアンのお店だ。私はシーフードとサフランライスのパエリア、紗琴さんはきのこのバター醤油パスタを注文して、ドリンクはふたりともホットカフェラテにする。デザートはあとで、食べられそうなら追加ということで。
紗琴さんは、黒いリボンが裾で結ばれた白のニットに、ワインレッドのフレアロングスカートで、今日もかわいかった。私は黒いボアのワンピースに、チョコレート色のブーツを合わせている。
「もうすぐ、紗琴さんと会ってもらえるようになって一年ですね」
お冷やを少しだけ飲んで、私がそう言うと「そうですね」と紗琴さんはうなずく。
「去年の十一月でしたもんね」
「ライターさんやってると、こんなふうに読者に会ったりすることって多いんですか?」
「私は自分のこと書いてるだけなので、まだ、取材とかそういうことまではしてないですよ。悩み相談のメールにお返事するのは手伝ったりしてます」
「紗琴さんからお返事が来たときはびっくりしました」
紗琴さんは咲って、「それは、返ってきたメールで言われるときがあります」と淡いマニキュアが清楚な指先で髪を耳にかける。
「もともと、時さんのメールが切っかけなんです。メールのお返事もさせてもらうようになったのは」
「そうなんですか」
「時さんのメール、読んであげてって編集部の人に言われて読ませてもらって。伝えたいこといっぱいあふれてきたから、私がお返事していいですかって許可をもらって」
「嬉しかったです。紗琴さんに『記事を書いてくれてありがとうございます』って直接伝えられて」
「時さんみたいに、住まいが近かったらお会いしたい人もいるんですけどね。皆さん、ばらばらだから」
そんなことを話していると、甘い湯気を立てるカフェラテがやってきた。私も紗琴さんも、さらさらと白い砂糖を溶かして、金色のティースプーンで水面を混ぜる。
「私、ラッキーなんだろうなあって思うんです」
「え」
「もちろん、この心と軆のことはついてないなんてものじゃないです。でも、渚くんみたいな彼氏がいて、紗琴さんとこうしてお話できて。久賀くんとも結局こじれずに仲良くできて」
「ラッキー、というか、恵まれてる?」
「その言い方のほうがいいかも。昔はつらい気持ちばっかりでした。大輝おにいちゃんに『時はかわいいな』って言ってもらえたときは嬉しかったけど、それだって──何ていうのかな、子供に対して言う『かわいい』だったと思うし」
「私も『かわいい』って言われても、素直に受け取れなかった時期があるので分かります。『男にしてはかわいいね』って言われてるだけだってひがんでしまって」
「分かります。女の子の私に向かって、どきどきしながら『かわいい』って言ってくれたのは渚くんが初めてでした」
「私も、紫優くんに初めて『かわいい』って言ってもらえたときはすごく嬉しかったです」
「今でも言ってくれます?」
「まあ、……けっこう言いますね、あの人」
はにかんで睫毛を伏せる紗琴さんに、私は思わず微笑んでしまいながら、カフェラテに口をつけてほのかに甘い熱を体内に溶かす。
「家族には『男らしく』とか『女々しい』とか言われて、息ができなくて。そんな私の暗い顔でみんないらいらして、学校でもイジメみたいだったし。今は渚くんといると咲えて、息もできる」
「私も、最初から家族の理解があったわけじゃないので、息苦しさは分かるかもしれない」
私は紗琴さんの綺麗な顔立ちを見つめて、話題にしていいのかなと躊躇いつつも、「紗琴さんが家族に話した切っかけって」とゆっくり切り出してみる。
「周りから、性的に暴行受けてですよね」
紗琴さんの瞳はかすかに揺らいだものの、不快な色は浮かべずに「……そうですね」と静かに首肯する。
「あ……えと、話して大丈夫ですか」
やはり心配で確認すると、紗琴さんは微笑して「大丈夫です」と言ってくれる。
「あの記事を書いて、掲載してもらったことで、人に質問されるのは覚悟しましたから」
「そう、ですか。あの記事、ほんとにすごくて……たぶん、紗琴さんの記事で一番泣いたかもしれない」
「時さんは、そういう経験なかったですか?」
「私は、そんな。陰口くらいで」
「……嫌な想いしたのは同じですよ。つらかったですよね」
私はカフェラテの水面を見つめた。あいつ女みたい。オカマなんじゃね。男を好きになるのかも。中学時代に特につきまとった中傷が頭をめぐり、私は小さくこくんとする。それから顔を上げ、「紗琴さんは」と前から疑問に思っていたことを投げかけてみる。
「加害者の人を、訴えたりはしないんですか?」
私の陰口程度のイジメで訴えを起こすのは大変かもしれないけれど、紗琴さんの体験はそんなものじゃない。綴られたものを読むだけでも、裁判になれば社会全体が味方につくと思うほど、むごい体験だった。それに、紗琴さんの精神面には酷かもしれないけど、訴えるために行動を起こせば勇気をもらえる人もいるかもしれない。
「たぶん」と紗琴さんは長い睫毛を揺らす。
「そうしたほうが、周りは納得するんですけど」
「周り」と私が首をかしげると、紗琴さんは弱く咲う。
「私は、何で服を脱がされた時点で、彼に呼び出されても無視しなかったんだろうとか、逃げなかったんだろうとか、拒否しなかったんだろうとか……考えてしまって。当時は、拒絶したら性同一性障害をひどく言われるって考えたんですけど。何と言うか、私も悪かったのかなあって思ってしまうんです」
「そんな……紗琴さんは、悪くないですよ」
「紫優くんも茉莉も、そう言ってくれます。確かに、私に落ち度があってされたことではないって分かってます。でも、自分の苦痛を認められなかったのは、悪かったのかなって。もっと私が『嫌だ』『やめて』って言えてたら、違ったのかもしれない。なのに、恥ずかしいとか、情けないとか、そういう気持ちに流されて抵抗できなくて。そういう弱さが、後ろめたくて」
「………、」
「もし訴えるなら、時効もあるんだから早くしないといけないんですけど。今すごく幸せだから、裁判のために当時を思い出すのもつらいです。診断のためのカウンセリングでも、全部話さないとって思って、あのことは話したんですけど──話すどころか、思い出すだけでも負担で」
「あの記事は、紗琴さんの意志で書いた……んですよね?」
「はい。編集部の人にも、『載せていいの?』って確認されました。私にできることって、訴えて彼を裁くことじゃなくて、マイノリティに対してこういう現実があるって書くことで。それが精一杯で、まだ……闘う力はないです。泣き寝入りって言われたらそうかもしれない。でも、何も分かってない人に『お前も悪かったんじゃないか』って言われるのが怖いし、まして、何も知らない人に『性同一性障害だったから仕方ない』って言われたら、死にたいとか、そういう感情まで戻ってきそうで」
そんなこと言う人いないですよ、と言ってあげられないのがもどかしい。むしろ、いないわけがないと思う。加害者の人を裁くために、第三者の中傷を浴びなくてはならないのなら、やっぱり口をつぐんでしまうのが防衛本能だろう。
「すみません、つらいこと話させちゃって」
「いえ、いいんです。私と茉莉の想像に過ぎないんですけど、加害者の彼も悩んだんじゃないかって思うんです」
「悩む」
「彼、もともとは私を女の子だと思いこんで、好意を持ってくれてたんです。でも、そうじゃなくて……少なくとも、私の軆は男で。気持ちの行き場がなくなって、混乱して、私に当たるしかなかったのかも。だからって許すとかはないんですけど、私が最初から全部女の子だったら、優しい人だったんじゃないかなって」
「………、ほんとに優しい人は、私は……紫優さんのような人だと思います」
「……そうですね。何というか……茉莉の表現ですけど、『あいつは器の小さい男だったんだよ』って」
私が小さくだけどつい笑ってしまうと、紗琴さんも笑う。
「私は、紫優くんに愛してもらえて幸せです。あの頃の気持ちに区切りをつけたいと思って、訴訟を起こす日もあるのかもしれません。でも、それ以上に書いた記事を読んで『自分も同じようなことありました』とか『今そういうことに遭ってます、助けてください』とか……打ち明けてくれた人たちを助ける行動を優先したい。そのためにあの記事を書いたので」
「私も助けてもらってます。紗琴さんには」
「ほんとですか? よかった」
紗琴さんはふわりと微笑して、そんなふうに咲えている今を、過去を混ぜ返して壊すのも確かに違うのかもしれないと思った。訴えて加害者を裁くことが『正しい』とは言える。しかし、その行動を起こす代償があまりにも負担になるなら、必ずしも正しくなくてもいいのかもしれない。
それを『泣き寝入り』と言う人もいるのだろうけれど、紗琴さんは自分の体験を文章として公開し、共感の止まり木になっている。それは、裁判を起こすより強いことかもしれない。
その日も夕方近くまで紗琴さんとゆっくりおしゃべりして、またお茶しましょうと約束すると別れた。ビル街の裏の飲食街を抜けて大通りに出ると、イルミネーションが灯りはじめ、空はあっという間に暗く飲まれた。頬をすべっていく風もひやりとして、駅が見えてくるあたりでは人と車がざわめいている。
駅のホームで電車を待っているとき、スマホを見ると渚くんからメッセが届いていた。
『今日は紗琴さんとランチだよね。
無事家に着いたら教えてね。
僕は奏と勉強してます。』
やっぱり仲良し、とくすりとしながら、『今から電車に乗って帰ります。』と送信しておく。やってきた電車はけっこう混んでいて、人と密着するのは嫌でも仕方なく乗りこむ。せめて堂々と女性専用車両に乗れたらなあ、と思うのだけど、自分が乗っていいのかよく分からなかった。
途中で乗り換えもしつつ、紗琴さんにお礼のメッセを送ったりしていると、スマホがメッセ着信で震えた。開いてみると渚くんからで、久賀くんといるファミレスの場所が書いてあり、『もし一緒に夕食食べれるなら。』と添えてあった。このまま帰宅して家で食べるつもりだったけれど、渚くんに会えるのなら会いたい。
帰りが遅くなったって、どうせ家では『男』だから心配はされない。『乗り換えで降りる駅だから向かうね。』と返すと、万歳のスタンプが来て『待ってるね。』と続いた。
そんなわけで、乗り換えの駅で自宅の最寄りがある沿線に直行せず、ファミレスに向かった。改札を抜けたところで、いったん立ち止まって鏡を覗いておいた。ウィッグも大丈夫だし、化粧も崩れたりしていない。ただ、ルージュはさっと塗りなおす。
ファミレスの位置は分かっていたので、迷うことなく到着した。店内に踏みこむと、ウェイトレスさんが「おひとり様ですか?」と尋ねてきて、待ち合わせって言えばいいのかなと口を開こうとすると、「時さんっ」と声がしてそちらを向く。わりと奥のほうの席から、渚くんがこちらに向かってきていた。
「あ、えと……彼と待ち合わせというか」
私がそう言うとウェイトレスさんはうなずき、「お冷やお持ちしますね」とにっこりして去っていった。やってきた渚くんは今日はもちろん私服で、何だか見慣れない。何だかおもはゆい笑みになってしまうと、「何?」と渚くんも咲いつつ首をかしげる。
「私服だなあって」
「あ、変かな」
「ううん。ぜんぜん」
「よかった。時さん、服飾専攻だから、私服見られるのはどきどきする」
「勉強はしてるけど、センスがあるかは分からないよ」
「スタイリスト目指してるんでしょ? 奏のおかあさんみたいな」
「なれるかなあ」と私が苦笑すると、「なれるよ」と渚くんは微笑んで私の手を引く。その手を握り返してついていくと、「先輩、久しぶりですー」とその席には久賀くんもいた。
食事はふたりきりなのか、久賀くんもまだいるのか、どうなのか気になっていたけど、やっぱり一緒か。と思っていると、「あ、すみません」と久賀くんはくるくるまわしていたシャーペンを止める。
「カップルの邪魔はしないですよ。すぐ帰るんですけど」
「あ、別に気にしなくていいよ」
「俺は気にします。──渚、ここだけ教えて。そしたら帰る」
久賀くんがしめすところを渚くんは覗きこみ、そのあいだにお冷やがやってくる。ふたりともドリンクバーは飲み散らかしていても、食事は注文していないようなので、私もひかえておく。
渚くんの解説を「ふんふん」と真剣に聞いていた久賀くんは、「あー」と眉間をほどいて納得した声を出して、相変わらず表情が豊かな子だなあと思う。やがて「うむ、完璧」と言った久賀くんは、勉強道具を片づけはじめた。
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