夏休みが明けてすぐ、クラスを仕切る藤戸くんに「三田の教科書に『死ね』って書いてこいよ」と言われて、首を横に振ってしまったのが、切っかけだった気がする。
断ったのは正義感とかではなく、ただ、変に巻きこまれたくないからだったけど。三田くんは藤戸くんたちにイジメられていた。気の毒だと思うし、僕までイジメに加担する気はなくても、助けようとは正直思わなかった。
関わりたくない。そう思っていた。なのに、僕がそのとき言うことを聞かなかったのは、藤戸くんをかなりいらつかせてしまったらしい。
一番最初に、体操服がなくなった。探しまわって、下駄箱のゴミ箱で見つけた体操服は、給食の牛乳がぐっしょり染みこんだ状態だった。
それから、嫌がらせはエスカレートしていった。気づけば、あんなにイジメられていた三田くんが、藤戸くんと一緒に笑いながら僕のつくえを何度も蹴って、引き出しから散らばった教科書やペンを踏みつけていた。
誰にも言えなかった。先生なんてとんでもないし、親にも言っていいのか分からない。
正直、三田くんをずっと見て見ぬふりしてきた僕は、被害者の顔なんてできない気がした。
言えない。言いたくない。
これは罰のようなものだ。全部、三田くんを可哀想だなと思うくせに遠巻きに見ていた、僕の弱さのせいだ。
残暑がようやくやわらいできた十月半ば、心を押し殺す学校も家も居づらくて、夜遅くまで制服のまま駅前をふらふらするようになった。
僕の地元の駅前はけっこう拓けていて、二十一時くらいまで飲食店やカラオケボックスが明るい。そばにモールもあり、ゲーセンやレンタルショップ、パチンコ屋なんかが入っている。
いつもは本屋で立ち読みする程度だけど、その日は黒板の前で自慰をしろと言われて、クラスみんなの前で泣いてしまったのが悔しく、捨て鉢な気分だった。明るいモールの中に入ると、カフェやファミレス、スーパーも家電屋も入っているのが見渡せた。僕は陰鬱な表情のままモールを歩き、照明が薄暗くなるゲーセンの前で立ち止まった。
子供の頃はテレビゲームをよくやったけど、今はスマホのゲームさえしない。それでも気晴らしになるものもあるだろうかと、恐る恐るそこに踏みこんでみた。
いろんなゲームが並んで、かなり騒がしかった。クレーンゲーム、リズムゲーム、レーシングにシューティング──ゾンビでも撃ちまくったら少しは楽しいのかな、と思ったとき、不意に肩に手を置かれて、びくっと振り返った。
「なあ、金持ってる?」
唐突にそんな言葉が降ってくる。
きょときょとしたときには遅く、同じ中学の制服を着ている男子たちが音もなく僕を囲んでいた。
「ちょっとさー、おにいさんたちに小遣い貸してくんない?」
小柄な一年生の僕には、その人たちは中学生でなくかなりの年上に感じられた。
貸して、と言われても、もちろん面識などない。固まっていると、「金あるだろ?」と別の人が僕の肩にぐいと腕をまわしてくる。とっさに心臓がこわばって、動揺に視線が泳ぐ。
お金、は、……少し、あるけれど。ここは渡してしまったほうが楽なのか。地元だから、家には歩いて帰れるし──
「あんたら、何してんの」
僕がおとなしく背負っていたリュックをおろしかけたとき、ふと、そんな凛とした声が割りこんできた。僕も含めて、みんなぱっとそちらを見た。
そこにいたのは、制服を着た高校生ぐらいの女の子だった。艶々した黒髪のショート、闇夜の猫の目のように大きな瞳、すらりとした手足、しなやかな感じの美少女だけど、見憶えがある相手ではない。
「小学生に金せびってんのかよ」
彼女が目を細めて乱暴な口ぶりで言うと、たじろぎながらも僕を囲むひとりが言い返した。
「ほっとけよ、おばさん」
「ああ!?」
彼女は気の強そうな顔立ちをさらにいらつかせ、短いスカートも気にせずに蹴りを入れてきた。「うわっ」と狭い空間にかたまって僕を囲んでいた奴らは声を上げ、彼女のスピードのある攻撃にバランスを崩す。
ぐっと手を引っ張られて、はたと我に返ると、「スタッフ来る前に逃げるよ」と彼女は僕を連れて、ゲーセンを飛び出した。
そのままモールも出て、駅のロータリーに来た。白い街燈の下、バス停のベンチに腰かけ、彼女は手を離すとふうっと大きく息をつく。
車道では、ヘッドライトとテールライトが交差しながら車がたくさん通っている。周りを行き交っている人は、学校帰り、仕事帰りらしき人が圧倒的に多い。
走って少し体温が上がった僕は、彼女のかたわらに突っ立ち、ずりおちていたリュックをとまどいながら背負いなおした。
夜風がほのかに流れる中、何か言われるかなあと思っていたけど、彼女は長い脚を投げて小さくあくびをしたりしている。ほんとに猫みたいだな、なんて思う。
何で僕を助けてくれたのだろう。どうして、厄介事にあんなふうに果敢に割りこめたのだろう。
それは僕が、学校ではできなかったことだ。
「別に……」
彼女に感謝しなくてはならないのは分かっていても、沈黙が続いて、思わずそんな言葉が突いて出ていた。
「平気……だったのに」
「あ?」
捻くれた言葉に、彼女は不機嫌そうにこちらを一瞥して、僕はついすくんでしまう。
「お、お金取られるぐらい……」
「それ、『平気』って言わねえだろ」
「………、」
「平気じゃねえから、断れなかったんだろうが」
不良なのかなあ、とさっきよりよほどびくびくしながら、僕はうつむく。
「僕、は……断っても殴られる、し」
「だから、そもそもああいうのに絡まれないようにしろ! いいね?」
「……はい」
僕のその返事で、「よしっ」と彼女はすっきりした様子で立ち上がった。僕より背が高い。
彼女は僕の頭をぽんぽんとすると、「もう帰りな」と腰に手を立てた。僕は小さくこくんとして、「ありがとうございます」とようやく一応述べた。彼女は初めて笑みを見せると、「あんま強がるなよ」と残して身を返していった。
僕はその背中を見送り、怖いけど綺麗な人だったな、とぼんやり思った。
それからも、相変わらず僕はイジメの標的だった。お弁当を泥水でぐちゃぐちゃにされたり、みんなサボったトイレの掃除当番をひとりでしていたら閉じこめられたり、ノートに書いた宿題を黒のマジックで塗りつぶされたり。殴るとか蹴るとかはなかったけど、あれこれ細工をされるのは学校生活で困ることが多かった。
教師が気づくようなこともあったけど、何も訊かれなかったから、やっぱり先生たちには相談できないと思った。学校でずっしり疲れて、家で嘘咲いするのがつらくて、相変わらず夜は制服のまま駅前をふらついた。
十月が終わりかけた肌寒い日、夕食の時間になっても帰宅せずに駅前にいた。今日はお弁当を便器で水浸しにされて、昼に何も食べられなかった。お腹が空いて、家には僕のぶんの夕食が用意されているのは知っていても、ファーストフードで照り焼きハンバーガーを買って食べた。
窓に面したテーブルの席に着いて、もそもそと新鮮なレタスと甘辛い照り焼きソースの肉を噛みしめる。店内にはラジオと暖房がかかって、ちょっと頭がおかしいような学生の笑い声がはじけていた。
どこか、僕の居場所になるようなところはないのかなあ──ガラスの向こうの人の往来を漫然と眺め、そんな当てもないことを考えた。
学校でも家でも、僕は無理をしてばかりだ。ただ、楽に息がしたい。それができる場所が欲しい。保健室に登校する? 先生に言いたくない。部屋に引きこもる? 親に説明できない。いっそ昼間も、駅前でぼーっとしようか。
補導とかされないかなあ、と交番があるのを思い出してハンバーガーを頬張ったとき、「あれっ」という声がかかった気がして、僕は振り返った。
「やっぱ、こないだの子じゃん」
そこにいたのは、あの日ゲーセンにいた、猫のようにしなやかな女子高生だった。今日も制服すがただ。
持っているトレイには、ハンバーガーとポテトとドリンクが載っている。彼女は僕に断ることもなく隣のスツールに座ると、「ハンバーガーだけ?」と僕のトレイを覗きこんだ。
「ちゃんと食べなきゃダメだろ」
家にごはんがある、とは何となく言えずにいると、「ほら」と彼女はポテトの包みを破って僕もつまめるようにした。厚意を断れず、僕はおとなしくポテトを一本もらって、その塩味を味わう。
「またゲーセン行くの?」
「え、いえ。絡まれたら嫌ですし」
「敬語やめろよ」
「………、嫌だし」
「うん」と彼女はうなずき、フィッシュバーガーの包みを開く。タルタルソースの匂いがこぼれる。
「えと、おねえさん……は、ゲーセンに行くの」
「そうだなあ。行ってもいいけど、もうだいたいの曲遊んだし」
「曲」
「ボカロのリズムゲーが好きなんだ。ランキングに登録されるカードも持ってるし」
「……はあ」
よく分かんないな、とまたポテトをつまむと、「君もゲームするんだろ」と彼女は頬杖をついて首をかしげる。
「え、別に」
「じゃあ何でゲーセンにいたんだよ」
「……何か、すっきりしたくて」
「ナンパに来てたのかよ」
「そ、そういうすっきりじゃなくて。ぐちゃぐちゃだったんだ。気持ちが。それで、ゲームが気晴らしになるかなって。よく分からないだけだったけど」
ハンバーガーをもぐもぐとしながら彼女は僕を眺め、「あのときも思ったけど」と飲みこんでから口を開く。
「君、まっすぐ家に帰ってないじゃん」
「え、まあ」
「何かあんの?」
「……何か、というか」
「まあ、あたしに話せとは言わねえけど、ひとりで溜めこむのは良くないぞ」
僕は残りのハンバーガーを持ち直し、「うん」と言いつつも言葉は続けずに照り焼きの匂いに咬みついた。
彼女もぱくぱくとハンバーガーを平らげ、ポテトは半分食べると残りは僕のトレイに投げた。いらないよ、と言えずにいると、Sサイズのドリンクを一気に飲み干した彼女は、「じゃあな」とスツールを降りる。
「あたし、いつもここで夕食だし。ゲーセンにもいるし。またな」
「……ん」
「何があるか知らないけど、元気出せよ」
彼女は僕の頭をくしゃっとしてから、トレイを持って立ち去っていった。僕は髪に触れ、心配してくれたんだな、と思った。
話してもよかったのだろうか。確かに吐き出したら楽になるのかもしれない。
しかし僕がイジメられているのは僕のせいだし、三田くんを助けなかった罰だから、仕方のないことだ。同情はしてもらえない。軽蔑されるかもしれない。あの人は、金をよこせと囲まれた僕を助けてくれたような、まっすぐな人だ。
それから、夜の徘徊でときおり彼女に遭遇するようになった。小夏さん、という彼女の名前も知った。小夏さんはぞんざいな言葉遣いをするものの、一応僕を心配してくれているようで、優しいのかな、と思うようになってきた。
一緒にゲーセンに行って例のリズムゲームのお手並みを見せてもらったり、「すっきりってこういうの?」とパンチングマシーンに連れていかれたり、ゲームに飽きたらモール内のフードコートで軽食を食べたりした。
十一月に入って、急速に風が冷えるようになった。僕は学校指定のウインドブレーカーを着るようになった。小夏さんはかわいいダッフルコートを着ていた。
いつのまにか、夜には小夏さんに会えるのが楽しみになっていた。学校はひどいし、家も苦しいけれど、小夏さんといると気持ちが軽くなる。「明るくなってきたな」と小夏さんは僕ににっとして、僕は照れ咲ってこくんとした。
「ねえ、小夏さん」
「んー?」
「僕、学校ではイジメられてるんだ」
二十一時で閉まるのに混んでいるモールのフードコートで、シナモンドーナツを食べているとき、僕はついに小夏さんにそのことを打ち明けた。チョコレートのドーナツを食べていた小夏さんは、僕を見つめてくる。
「クラスでイジメられてる人がいて、その人の教科書に『死ね』って書けって言われて断った。そしたら、そのイジメられてた人も一緒になって、僕をイジメるようになった」
「……そうか」
「僕が悪いんだけどね。その人がイジメられてるの、ずっと見て見ぬふりしてて。ずるかったから、イジメられて仕方ないんだ」
「それはないだろ」
「え」
「『死ね』って書かなかったあんたはえらいよ」
「関わりたくなかっただけだよ」
「ほんとに関わりたくなかったら、さらっと『死ね』って書いといて受け流すんだよ」
小夏さんを見つめた。小夏さんは細い指でドーナツをちぎって口に放る。
「あんたが自分より強かったから、イジメっこは癪に障ったんだろ」
「強い……」
「そういう奴には、従っておくほうが楽だしな。でも、あんたは『死ね』なんて言われなくていい奴に、ちゃんとそんなことを言わなかったんだ」
「………、」
「そいつも今あんたをイジメてるなら、あたしにしたら『死ね』って感じだけどな」
独特の香りが立ちのぼるシナモンドーナツを頬張り、しばらくもぐもぐとしたあと、「僕は弱いよ」とドーナツを飲みこんでつぶやいた。
「『やめてよ』とも言えないし、誰にも相談できないし、ただ、やられっぱなしで」
「それでも、学校行ってんだろ」
「不登校なんてできないよ」
「いいじゃん、不登校。すればいいのに」
「そんな勇気ないよ」
「じゃあ試しに明日、学校サボってみる?」
「え」
「それで心が楽になったって感じたら、学校なんか辞めちゃいな。あたしも学校サボって、あんたにつきあってあげる」
「ほ……ほんと?」
「うん。行きたいとこ行って遊ぼう」
僕の表情が明るくなると、「やっと咲った」と小夏さんも満足そうに咲った。「行きたいとこある?」と訊かれて、少し考えて「観たい映画がある」と言うと、「映画ってデートかよ」と小夏さんは苦笑しつつもうなずいてくれた。
翌日、僕は通学かばんに教科書でなく着替えをつめこんで、学校の前の通らないまわり道をして駅に向かった。
小夏さんは私服でなくいつもの制服で、「大丈夫なの?」と訊くと「そんなに気にもされないよ」と返された。じゃあ僕も制服のままでいいかな、と思ったものの、「学ランはさすがに着替えな」と言われたのでトイレで着替えてきた。
荷物はロッカーに預けると、小夏さんとふたりで電車に乗って街に出かけた。
そして、僕たちは一日遊びほうけた。約束通り映画を観たり、カフェで飲んだことのないドリンクを飲んだり、ゲーセンで曲に合わせて素早く画面上を動く小夏さんの手を眺めたり。
日が暮れてくると、ファミレスで夕食を取って、「たまに行くライヴハウスでイベントあるから、行ってみる?」と訊かれた。ボカロカバーオンリーのイベントらしい。よく分からないだろうけど、ボカロなら小夏さんが好きだろうなと思ったので、僕はこくりとした。小夏さんはケータイで、出演バンドのメンバーにチケットの取り置きを頼んでいた。
そんなわけで、夕食が終わるとライヴハウスのある通りまで歩き、十八時半にオープンしていたライヴハウスに入った。スタートは十九時からだそうだ。小夏さんは、物販のところにいた出演者とハイタッチしたりして楽しそうに話し、「こいつは弟分なの」と僕のことも紹介してくれた。
弟分、という言葉を反芻していると、ふっと照明が暗転してステージで演奏が始まった。小夏さんは騒がしい前には出ず、壁際で曲に耳を澄まし、僕はその隣で初めてのライヴ演奏を食い入って観ていた。僕は楽器なんて弾けないし、人前で歌うのはカラオケさえ苦手だし、すごいなあ、と見入ってしまって、あっという間にトリのバンドまで見届けてしまった。
「ドリンクチケット、もったいないし、何か飲めよ」
イベントが終わって店内が明るくなると、いつのまにか人がけっこう混みあっていることに気づいた。
小夏さんにそう言われて、入場したときにもらったドリンクチケットを握ったままなのを思い出した。「お酒ばっかりなんじゃないの」と心配すると、「どうせなら酒飲んでみるか」と小夏さんはにやりとして、僕の手からドリンクチケットを奪い、オレンジ色の飲み物と取り換えてきた。
「ジュース?」と首をかしげると、「ジュースレベルだから飲んでいいよ」と小夏さんは楽しそうに咲った。それってお酒ってことじゃ、と思ったものの、そろそろと口をつけると、確かにアルコール特有の味の違和感がほとんどなくて、喉も渇いていたのでこくこくと飲むことができた。
でも、やっぱりお酒だ。何だか胃にほてっているような感じが現れはじめた。「帰ろっか」と小夏さんは僕の手をつかんで、わずかにくらくらしながら僕は小夏さんについていった。
外に出ると、夜風がアルコールの熱をすうっと冷ました。時刻は二十二時をまわっているけれど、人通りはわりとある。駅で切符を買って、各駅停車の電車にかたんことんと揺られて地元に帰った。
改札を抜けて「家まで送ろうか?」と問われると、「大丈夫」と僕はちょっと蕩けた口調ながら答えて、ロッカーの荷物を引き取った。そんな僕を見つめ、小夏さんは「かわいいなあ」と頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
「今日、楽しかった?」
「うん」
「よかった。学校行かなきゃ、これだけ楽になるんだぜ」
「うん」
「無理しなくていいんだからな」
僕は小夏さんを見上げた。何だか自然と笑みがこぼれる。「小夏さんといると楽しい」と僕は言った。
小夏さんは一瞬驚きを見せても、くすりとして、「そっか」と僕の髪に指を絡ませた。
「あんたは、きっといい男になるよ」
そう言って、小夏さんはわずかに哀しそうな色を瞳にちらつかせた。僕がそれを見つめてしまうと、小夏さんは僕の肩をたたいて「じゃあな」と一歩引く。
「また、一緒に出かけられる?」
僕のその質問に、小夏さんは微笑んだけど、何とも言わずにきびすを返して去ってしまった。
僕は突っ立って、小夏さんと一緒だったから楽しかったんだ、と思った。ひとりで学校をサボっただけじゃ、こんなに呼吸が楽にはならなかった。今日一日、小夏さんが隣にいてくれたから──
その日、家に帰ると親が怖い顔をして玄関で待ち受けていた。今まで夜の駅前をふらついていてもあまり関心を持たなかったのに何で、と思ったら、今日学校に来なかったと担任から電話が来たらしい。
しかも、はたと気づいたけど、僕はぼんやりしていて私服のまま帰宅してしまった。おまけにお酒が入っていることまで気づかれて、どこに行って何をしていたか、きつく追及された。
そして、夜の徘徊にこれまで干渉しなかったのは、ときどき地元の駅前に留まっている様子を見に来ていたからだと言われた。「今日はどこにもいなくて、どれだけ心配したと思ってるの」と母親は最後は怒るより泣きそうになっていた。「何か問題があるなら、正直に言ってみなさい」と父親も大きなため息で怒りを鎮めて言った。
翌日、僕はお酒が残ってひどい頭痛があり、風邪みたいな体調になったので学校を休んだ。夕方にやっと落ち着いてくると、夕食の支度をする母親に「ちょっと駅前に行ってもいい?」と訊いた。
母親はもちろん渋ったものの、「話したい人がいるから」と言うと、「あの女の子?」と言い当てられたのでびっくりした。でも、僕の様子をたまに見ていたのなら、一緒にいるところも見られていたのか。
何か恥ずかしいな、と僕がうつむくと、「おとうさんには言わないけど、昨日もあの子と一緒だったの?」と突きつめられる。僕は迷った挙句、小さくうなずいた。母親は吐息をつくと、「おかあさんは、中学生のあなたをいかがわしい場所にまで連れまわすような女の子は、嫌だな」と言った。
小夏さんはそんな人じゃない。そう言いたかったけど、その前に「夕食までには帰ってきなさい」と言われたので、僕は素直にこくっとして服を着替えると、日が暮れて闇に包まれていく道を歩いて駅前に出た。
小夏さんのすがたを探してきょろきょろしたけど、うろつくよりいつも来る場所で待ってたほうがいいか、とあのファーストフードに行った。にぎやかで暖かい店内で、Sサイズのお茶をすすっていると、「よっ」と肩をたたかれてはっと振り返る。
そこには、いつも通り制服を着た小夏さんがいた。
「制服じゃないじゃん。学校辞めたのか」
「二日酔いで頭痛くて。それで今日は休んだ」
「マジか。それは悪かった」
「……ううん」
今日の小夏さんの夕食は、チーズバーガーとアップルパイとドリンクだ。深く考えたことがなかったけど、毎日ここで夕食ということは、小夏さんの家では食事が出ないのだろうか。
「小夏さん」
「んー?」
「昨日、親にすごく怒られちゃった」
「えっ」
「学校行かなかったのとか、お酒飲んだのとか、全部ばれちゃって。今まで夜にふらふらしても何も言われなかったのも、僕の様子を見に来てたからなんだって」
「………、」
「何か、親は……親なりに、僕のこと守ってたんだね。昨日は一日僕がどこに行ってたか分からなかったから、すごく心配だったって」
小夏さんはハンバーガーに伸ばしかけていた手を引っこめて、「ごめん」と言った。僕は首を横に振る。
「小夏さんは僕を支えてくれてるよ。それはほんとだから」
「……あたしは、」
「親にも、それ分かってもらえるようにするから。ただ、その──僕といると、僕の親も見てることになる。それは、言っておかなきゃって」
小夏さんはうつむき、口をつぐんだ。「嫌かもしれないけど」と僕がぽつりとつけたすと、「別に、」と小夏さんはささやくような声で言う。
「あたしは、平気だけど。あんたは迷惑でしょ。あたしに関わってて注意されるとか」
「僕は構わないよ。分かってもらえるようにするし、」
「分かってもらえないよ」
「それは、」
「分かってもらえるわけないじゃん」
言い切る小夏さんをとまどって見つめると、小夏さんは息をついて天井を仰いだ。
どこかで学生ががさつな笑い声をあげる。
「あたしさー、売りやってるんだ」
「えっ?」
「いや、やってた──かな。十七になるまでは、そこそこ稼げたんだけど。十八になってから、ほとんどダメだわ」
「な、何……」
「制服着てうろうろするだけで、男寄ってきたのになあ。最近じゃダメ」
唐突な話に僕がまごついてると、小夏さんは僕を見て小さく笑った。
「親は普通にどっちもいるし。学校にも友達いるし。なのに、何でだろう。何でこんなに満たされないんだろうな。君みたいにつらいことがあるわけでもないのに」
「小夏さん──」
「贅沢なのかな。それとも、意地汚いのかな。……まあ、汚れてるよね」
「そんな、」
「君みたいに純粋な子は、あたしと一緒にいちゃいけないんだよな」
「えっ」
「親にさ、話せよ。イジメのこと。その感じじゃ、理解してくれるって分かってんだろ」
「……僕、は」
「親が守ってくれるよ。それが一番正しいよ」
何か言おうとするものの、何を言えばいいのか分からなかった。親は、確かに、分かってくれるのかな、とか少し思っている。でも、だからといって、小夏さんはいらないなんてない。
小夏さんのそばにいたい。だって、僕を救ってくれた切っかけは──
小夏さんは無言でハンバーガーをドリンクで流しこみ、「これはあげるわ」とアップルパイを僕のトレイに置いた。僕は小夏さんの名前を呼びかけた。「それ本名じゃないから」と小夏さんは肩をすくめ、スツールを降りる。
「じゃあな。少しのあいだだけど、楽しかったよ」
「っ……」
「あたしも売りやめる。だから、夕食もこれからは家で食べるね」
小夏さんは猫のような瞳でにっこりして、身を返してゴミを捨てると店を出ていった。僕は追いかけることも忘れて、それをぽかんと見送ってしまった。
え……何?
これが最後?
どくどくと不穏な搏動がこみあげて、僕はアップルパイだけつかむと、店を走り出た。でも、もう遅い。小夏さん──いや、あの人のすがたなんて、行き交う人の中と夜闇で見分けがつかない。
夕食までには帰ってきなさい。そう言われたのも忘れて、僕はあの人と過ごした駅前を走りまわった。でも、フードコートにもゲーセンにも、あのしなやかなすがたを見つけることはできなかった。
ようやくあきらめた僕は、それでも家に帰る気になれずにふらふらと住宅街を彷徨い、まだ開拓されていない野原に出て、月の光で夜露が煌めく草の上にしゃがみこんでしまった。
お腹が空いた。なぜか握りしめてきたアップルパイを開封して、ひと口齧った。煮つめられた林檎が甘い。その甘みに、なぜか息が絞めつけられて、涙がこぼれてきた。泣きながら、あの人が最後に僕にくれたものを噛みしめた。
汚いなんて思わない。ただ、何がそんなに虚しいのか、ちゃんと聞いてあげればよかった。あの人が僕のつらい話を聞いてくれたみたいに。僕はあの人に何も返せなかった。
僕はあなたといたかったのに。あなたがいればよかったのに。あなたが僕のすべてになっていたから。僕を笑顔にしてくれる、たったひとりはあなただけだったんだ。
行かないでよ。そばにいてよ。泣きたくないよ。
もう僕の頭を撫でてはくれないの?
こんなにあなたのことが好きになったのに、僕を置いてどこに行ってしまうの?
膝を抱えて、嗚咽を殺して泣いていた。食べかけのアップルパイのシナモンの香りが、あの人に『あんたは強いよ』と言われたときを思い出させた。そして、それに『僕は弱いよ』と答えた。
そう、やっぱり僕は弱いよ。確かに、イジメには加担しなかったけど。自分がイジメられても、けしてあいつらにはならなかったけど。好きな人を失ったら、こんなにも深く傷つくんだ。
もう僕の夜にあの猫が現れることはきっとない。僕を咲わせたやんちゃな猫は、するりと闇に溶けこんでいった。
そして、見失ってしまったが最後、僕はその猫の温もりをも失くしてしまったのだ。
FIN