わらびに出逢ったのは、大学受験に惨敗して、日課が愛犬のまろの散歩だけになっている残暑の頃だった。
高校時代、友達だった奴らは大学やバイトで毎日を満喫している。僕には何もない。浪人生になるのもだるかった。何もしたくなかった。
もうじき十九だというのに自立のメドも立てられず、焦りながらも虚しくて──家族の負担になっている自分が大嫌いになっているとき、僕は、そのやんちゃなビーグルに出逢った。
「麻矢は?」
時刻は十七時が近かった。九月中旬の夕暮れ時、帰宅中のからすが鳴いている。やっとふとんを起き出して、一階に降りた僕は、キッチンに顔を出してかあさんの背中に尋ねた。
「また寝てたの?」
「……まあ。それより──」
僕が言い終わる前に、リビングから足元に駆けてきたまろが、じゃれついてきた。僕は屈みながらちょっと笑みを浮かべて、「おはよ」とまろの頭をぽんぽんとする。
まろは我が家に来て二年になる、キャラメル色でテディカットのプードル犬だ。
「きゃんっ。きゃんっ」
吠えるたびに、耳のピンクのリボンがケータイのストラップみたいに揺れる。しかし、こいつは立派な雄犬だ。
「かあさん、まろが腹減ったって」
「五樹やってちょうだい。おかあさん、夕食の支度があるのよ」
「だーかーら、麻矢は? あいつの仕事だろ」
「麻矢は塾に行っちゃったわよ」
僕はばつが悪く舌打ちすると、ふっと息をつき、中学受験をひかえた妹の代わりに、今日もまろの世話を引き受ける。
まろはすっかり、麻矢より僕に懐いている。短い尻尾をしきりに振るまろを「よしよし」となだめながら皿を持ってきて、かりかりのドライフードを盛った。かあさんの邪魔にならないよう廊下に出ると、まろは母親を追う子供のようにとことことついてくる。
「はい、まろ。おすわり」
しかしまろは、僕の言うことが聞こえなかったようで、野性のまま餌に飛びつこうとする。「こらっ」と軽く頭をはたき、落ち着かせると手をさしだした。
「まろ、おては?」
「きゃんっ」
「散歩に行きたいのは分かるが、今は飯だ」
「きゃんきゃんっ」
「まーろっ」
まろの前足をすくいとるようにつかむと、右手に乗せる。まろはやっとおすわりすると、尻尾は振るまま、おてをした。「おかわり」というと、さっと左足をさしだす。「いいこいいこ」と頭を撫でてやると、僕は「よしっ」と言った。
まろはピンクのリボンを揺らしながら、食事を始める。そのあいだに、玄関先にまとめてあるリードや排泄物処理のふくろの用意をする。
先日まで、夏バテか食がのろかったまろも、九月に入り、秋が近づくにつれ回復した。飯も、早食い競争でもないのにあっという間に食べてしまう。
僕が玄関先でごそごそやっていると、いつのまにか後ろに来て「散歩準備OK!」とでも言いたげに目をきらきらさせていた。まろの赤い首輪にお揃いの赤いリードをかちっとはめると、いざ散歩だ。
まろは、妹の麻矢の十歳の誕生日にうちにやってきた。麻矢は初めは甲斐甲斐しく世話をしていたが、やがて、かわいがるばかりで世話をしなくなった。
しかも、最近は小学生のくせに彼氏ができたとかで、デートばかりしてやがる。私立の中学を受験すると言い出したのも、どうせ彼氏がその中学に進学するからなのだろう。
仕方なくかあさんが面倒を見ていたが、僕が春に大学受験に失敗して見事ニートになった途端、お鉢がまわってきた。いや、別にまろが鬱陶しいわけではないが、正直麻矢にはあきれている。僕なんか、彼女いない歴イコール年齢なのに。
名前は麻矢がつけた。麻矢とまろの大好物が甘栗だったから、マロンのまろだ。
「単純」と笑ったら、「モンブランよりいちごのショートが好きなおにいちゃんのが子供だもん」と生意気に反撃された。しかし、いちごショートの何が悪い。うまいではないか。
「そういや、まろにいちごって食べさせたことないなあ。今度の春に食わせてやるか」
ぬいぐるみみたいな、小さくふわふわな足を僕の歩調に合わせるまろに話しかけつつ、夕暮れ時の一軒家の住宅街を歩いていく。
近所の幼い子供たちが集まって、母親同伴で騒がしく遊んでいる。「わんちゃんだー」と指をさされると、まろは愛想よく尻尾を振る。
天を仰ぐ。よく晴れた夕焼けで、景色一帯が橙色に染まっている。空は橙々と桃色が混ざり合い、空色が水彩絵の具のように溶けかかっている。
明日も晴れかあ、と厳しい残暑に辟易したため息をついたときだ。
まろが突然立ち止まって、僕はわずかに前のめりになった。ちょうど公園に面した十字路で、まろは左手に軆を向け、言われたわけでもなくおすわりし、ゆいいつ、お人形ではない証拠に尻尾を振っている。
まさか、とそちらを覗きこむと、案の定ほかの犬がこちらにやってきていた。
「まろ、行くぞ」
リードを引っ張っても動かない。たまにこいつは、頑固でバカ力だ。
「まーろっ」
僕が大声を出したせいで、迫っていた犬がこちらに気づいた。ぴんと立てていた尻尾を急に振りだしたビーグルが、「はあはあ」と息をしながらこちらに駆け寄ってくる。
連れていた細身の女の人は、ビーグルの暴走に軽く声を上げ、引っ張られるまま小走りになった。
「こら、待ちなさいっ」
言うことも聞かずにこちらにやってきた、黒茶色の軆に白いハイソックスのビーグルは、まろを見つめて瞳を輝かせている。まろも立ち上がり、ビーグルのほうに近寄った。
「すみませんっ」
女の人は黄色のリードを手に巻きつけ、馬でも止まらせるみたいに、ビーグルを自分のほうに引き寄せようとする。
「あ、いえ。こちらこそ」
「この子、すぐにほかのわんちゃんにじゃれつくから……」
まろを見た。まろはあんまりほかの犬にじゃれつくほうではない。気に入ったら近づこうとするが、気に入らないと唸りはじめるぐらいだ。それが、そのビーグル相手だと尻尾を振り、くんくんと匂いを嗅いでいる。
僕は咲うと、腰をかがめてビーグルの頭を撫でた。ビーグルは僕に顔を上げ、飛びついてこようとする。
「わらびっ。もう、ほんとごめんなさい」
二十台半ばくらいだろうか。女の人は、ナチュラルブラウンの髪を肩より下まで伸ばし、クリーム色の共切れのツーピースに白いジーンズを穿いている。
この夏どこにもいかなかったのか、ずいぶん色白で繊細な感じだ。左薬指には、銀の指輪がある。
僕は笑って、「よしよし」とビーグルの喉を撫でてやった。垂れた耳が心地よさそうにぴくぴくと動く。
そのあいだにも、まろはビーグルの匂いを熱心に嗅いでいる。どうやら気に入ったらしい。
「いいですよ。うちのもすみません」
「プードルですよね。かわいい。女の子ですか?」
「いや、男です」
女の人はちょっと咲うと、「リボン似合ってますね」と言った。
僕は失笑してしまう。雄なんだから、リボンはいらないだろうと思うのだが、これも麻矢の趣味だ。麻矢の気分によって、赤チェックのリボンになったり、ブルーのリボンになったりする。
「ビーグルですよね。男ですか?」
「いえ、うちのは雌です」
紹介されながら、ビーグルは立ち上がって、僕の膝に前足を乗せる。
「はは。肉球柔らかい」
「ほんとやんちゃな子で。何か、性別反対みたいですね」
微笑みながら、女の人はまろの頭を撫でた。お礼なのか、まろはぺろっと女の人の手を舐める。
「おとなしいですね。いくつなんですか?」
「今年で二年です。この子は」
「うちのは五歳になりますね。やだ、あんたおばちゃんだよー」
女の人は笑って、ビーグルの頭を撫でた。ビーグルは僕の膝を降りると、まろに匂いを嗅がれるままになった。
「仲いいですね」
「みたいですね」
「うちのは、気に入らないとすぐ唸るんですけど」
「そうなんですか。うちの子は、誰にでもついていっちゃって。困ってます」
「名前は」
「わらびです」
「わらびちゃんかー。うちのはまろっていうんです」
「まろくん? かわいい名前ですね」
「妹がつけたもんで」
苦笑しながら、まろの頭をぽんぽんとした。くすぐったそうに耳とリボンが揺れる。僕は立ち上がった。
「じゃあ、このへんで」
「そうですね。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。このへんに住んでらっしゃるんですか」
「あ、最近越してきたんです」
「そうなんですか。どうりで見ない子ですね。なー、わらびちゃん」
僕が腰をかがめると、わらびも立ち上がって応えようとする。愛嬌のある奴だ。
上塗りされたように、空がさっきより陰っている。僕はともかく、女の人は、暗くなると犬を連れているとはいえ危険だ。
また機会があれば、と挨拶を交わして僕たちは別れようとした。が、犬同士が踏んばってまだじゃれあいたがっている。
お互い苦笑いしながら、どうにか二匹を引き離すと、僕はまっすぐ行って公園のほうへ、女の人は僕とまろが来た道に曲がっていった。
その日の夜、僕は自分の部屋でふとんに仰向けになり、散歩の帰り道にコンビニから取ってきた、無料のアルバイトニュースをめくって滅入っていた。働きたくねえ、と社会不適合者が冊子を放ってうつぶせになったときだ。
かりかり、とドアを引っかく音が細く聞こえてきた。
「まろ?」と呼びかけると、「きゃんきゃんっ」と返事が来た。「はいはい」と僕は、起き上がってドアを開けてやる。
まろがスライディングのように勢いよく駆けこんできて、ついで「まろーっ」という麻矢の声が一階から聞こえてきた。僕は廊下に出て、手すりから一階を見おろしてみる。
まだシャワーを浴びていないのか、ツインテールのままの麻矢がじたばたしている。
「何やってんだよ」
「ブラッシングしてたら逃げたのーっ。おにいちゃん捕まえて」
「まろ、ブラッシング嫌いだろー」
「何で嫌いなのかなあ。気持ちいいのに」
「お前が下手なんじゃねえの?」
「何よ、ニート兄貴っ。そんなんだから彼女できないんだよーっ」
「っせえな。まろは僕が保護する。お前はコンドームの使い方でも勉強してろ」
「なっ! バカバカバカ、何でそんな恥ずかしいこと言えんのよっ」
「じゃあな」
「あーん、まろーっ」
麻矢の抗議の声は無視して、僕は部屋に戻るとドアを閉めた。
まろはふとんにもぐりこんで、僕の体温に甘えている。僕はふとんにあぐらをかくと、まろのふかふかの背中を撫でてやった。こないだ美容院に連れていったばかりだから、ブラッシングなんかしなくても毛並みはいい。
麻矢がまろに構うのは、たいてい彼氏と何かあったときだ。「そんなときだけ構われたってなー」と僕はまろを抱き上げ、あぐらに乗せてやる。まろは僕の服の裾を咬みながら、おとなしく丸くなった。
【第二話へ】