日常風景-1

One Summer Day【1】

 夏の朝は、軆が汗ばんできて目が覚める。
 梅雨がやっとおととい終わった。期末考査の勉強で夜更かしが続いているせいか、まだ頭がふやけて眠たい。それでもふとんにもぐるのは蒸し暑いから、仕方なく起き上がって時計を見る。
 七時、三分前だ。起きなきゃと背伸びしてベッドを降りる。シャワーを浴びたほうがいい。
 マジでそろそろ部屋にエアコンくれよ、と思いながら制服をつかんで廊下に出ると、窓からの陽射しでここもむしむししていた。
「柊、おはよう」
 朝から元気な蝉の声の中、階段を降りる足音に気づいたのか、かあさんが焼き魚の匂いがするキッチンから顔を出す。「はよー」と返しながら右手のバスルームを見ると、物音がしている。
「シャワー誰か使ってる?」
「雪乃よ。柊も浴びるの?」
「このまま電車とか乗れねえし。ほんとにエアコン買えないの?」
「柊に買って、雪乃に買わないわけにはいかないでしょ」
「蒸し殺されそうなんだけど」
 ため息をついて一階にたどりつくと、見下ろすようになったかあさんの脇を抜けて、和風の朝食の支度が整っているダイニングのテーブルに着く。制服は背もたれに引っかけておく。
 ここはリビングからのエアコンが届いて涼しい。
「おはよう、とうさん」
「おはよう。エアコンが欲しいのか?」
 すでに背広すがたで、ししゃもを食べていたとうさんが目を向けてくる。
「かなり切実に欲しい」
「そうか……。まあ、雪乃が大学に進んだら考えよう」
「あなた。そんなこと言って」
 とうさんをたしなめようとするかあさんはスルーして、「ねえちゃん、大学進学なんだ?」と味噌汁のお椀を手にしてすする。いつもの味だ。
「大学生になったら、ひとり暮らしをしたいと言われてな」
「マジか。できんのか」
「柊はこの家に残るだろう」
「えっ」
「出ていくか?」
 まばたきをしたあと、決まり悪く笑って「残っていいなら」と小さく言った。
 するととうさんもかあさんも笑って、「一台増えるくらいならいいだろう」と言ったとうさんにかあさんもうなずいた。俺はわかめが絡みついた豆腐を飲みこんで、おもはゆさを殺して「ありがとう」と言った。
「それにしても、雪乃のシャワーは長いわね。柊、ほんとに時間ある?」
「急いでって言ってきてよ」
「そうね。朝ごはんは今のうちに食べちゃいなさい」
「はあい」と塩味のあるししゃもと温かい白飯を口に押しこむ。行儀よく、と注意するかあさんのいないうちに、がつがつと朝飯を食らって、時計を気にしつつ食事を締めくくる。
 麦茶のひんやりした香ばしさを喉に流していると、家族の中でひとり専用のボディソープとシャンプーを使って、何か匂いが違う雪乃ねえちゃんがダイニングにやってきた。肩までのボブの髪は、一応ドライヤーを当てたようでも、まだ水気を残している。
「あんた、昨日また遅くまで歌ってたでしょ」
 麦茶を飲み干す俺に向かって、雪乃ねえちゃんは相変わらずつんつんした声で突っかかってくる。
「は? 勉強してただけだろ」
「ハミングが聴こえてくるのよ。黙って勉強してちょうだい」
「ねえちゃんも期末だから分かるだろ」
「あたしは歌ったりしないわ」
「代わりに、深夜までの長電話が多い。あれ、電話代どうなってんだよ」
「三人だけ定額に登録できるのよ」
「もう、ふたりとも! 雪乃はごはん食べなさい。柊はシャワー浴びるんでしょ」
 俺とねえちゃんは不穏にぎろりとしあったあと、すれちがってそれぞれの場所に向かった。
 俺は汗さえ流せればいいから、そんなに長く、朝陽がまばゆい浴室にはいない。低めの温度に設定したシャワーですっきりして、とっとと洗面所に上がり、柔軟剤の匂いがふかふかしたバスタオルで雑に水滴をぬぐう。
 制服を着てネクタイを締め、ミント味で歯を磨いて、用を足したりもする。それから一度部屋に戻ってかばんをつかみ、七時半をまわったところで「いってきますっ」と叫んでばたばたと家を出た。
 梅雨明けのさっぱりした晴天が広がっている。青く透ける空には白いちぎれ雲がいくつか泳ぎ、たまに電線から飛び立ったすずめが横切っていく。蝉の声が少しずつ増えていて、真っ白い太陽は大気を生温く停滞させている。
 小中学生のすがたはまだあまりなくても、通勤の大人は多くて、そういう人を追い抜きながら駅まで向かう。そのあいだにも、また軽く汗をかいてきた。
 最寄り駅に到着して智也のすがたを探したけれど、例によって俺のほうが早かったみたいだ。
 改札脇の日陰に入ってケータイを取り出し、智也から休みだとメールなり何なり来ていないのを確認して息をつく。高校生になって二年目、毎朝たくさんのせわしない人を見送って、ぎりぎりの時刻まで改札で待つのが日課だ。それでも、智也なりによく頑張って高校に行っているのだろうけど。
 このあいだも、「進路調査表って何なわけ」と先日配られたプリントに、智也はもろに絶望していた。
「早いだろ。まだ俺ら二年だぞ」
 高校最寄りのファーストフードで、智也はそのプリントをテーブルに投げて平手で殴った。俺はコーラをストローですすって、「三年になってから訊いても遅いだろ」と妙に冷静に答えた。
「三年の一年間で考えるんだろ」
「いや、三年は希望に進めるように勉強──」
「希望は大学以外だな」
「専門とか?」
「いや、勉強以外」
「働くのか?」
「いや、どうしたいのか分かってるなら、進路調査されても異論などないんだよ」
 智也らしい答えだったことに、思わず今また噴きそうになってこらえる。
 確かに、俺も大学には進むだろうとは思っていても、特に専攻したい学科とかは分かっていない。将来も何をしているのだろう。サラリーマンはやだなあと思う。というか、たぶん無理だ。
 でも俺はしっかり稼いでゆくゆくは一緒に暮らしたい奴がいるから、正規雇用の仕事は欲しい。フリーターはちょっとなあ、とか思っていると、「塩沢!」とざわめきの中に名前を呼ばれて俺は顔を上げた。
「おはよっ」
 そう言って混雑の中から俺の正面に駆け寄ってきたのは、中学時代にクラスメイト、深井亜里紗だった。
「深井。おはよ」
「また桐島待ってんの?」
 昔より伸ばされたセミロングの髪を揺らし、深井は首をかしげる。俺は肩をすくめて「智也が先に来てた日ってないや」と苦笑する。
「遅刻はしないの?」
「高校の駅にはゆとり持って着くようにしてるから」
「あんなの、一回置いていけばいいんだよ」
「そしたら智也は、ふらっとサボりに出かけるからなあ」
「ほんと変わんない奴……。あ、塩沢のとこも、もうすぐ期末だよね?」
「ああ。ここんとこ勉強漬け」
「どこもそうだよね。授業がどんどんわけ分かんなくなるよ。もうちょっとランク低い高校にすればよかったかなあ」
「深井なら大丈夫だろ。頑張れよ」
「ありがと。じゃあ、あたしはけっこうギリの時間だから行くね」
「おう。夏休み、芽さんに会いにいくよ」
「二ノ宮くんも連れてきなよ。おにいちゃん喜ぶから」
 微笑んだ深井はスカートと髪をひるがえし、混雑する改札に飲まれていった。すぐに深井が乗っただろう電車が発車していく音がして、ほんと智也遅いなと腕時計を覗いたときだ。
「朝からあの女と話すとか幸先悪いぞ」と背後から肩に手を置かれた。振り向くと、同じく中学時代からの親友、桐島智也が仏頂面をしていた。
「見てたのかよ」
 そう息をつくと、鬱陶しいとヘアピンで前髪を抑えるようになった智也は、苦しげに頭を振った。
「卒業したら、高校も別で関わらないと思ってたのに、登校時間が近くて結局朝の駅で会うとか何なんだよ。鬼か!」
「何が鬼なんだよ」
「深井が」
「あとでメールで伝えとく」
「やめて」
「高校別でも、地元は同じなんだから仕方ないだろ。とりあえずホーム行こう」
「眠い……」とぼやく智也を引っ張って、高校への最寄りに向かう方面のホームに行き着く。一度市内で乗り換えて、その先が俺と智也が進んだ共学校だ。
「眠いって、勉強なわけないよな」
「試験前の息子を、ゲームの対戦に誘う母親ってどうなんだよ」
「どうせ勉強しないからじゃね」
「一夜漬けはしないとなー。また教えにこいよ」
「智也はそれで合格点が取れるんだもんなあ」
「高得点は取らないけどな」
「取れないじゃなくて」
「取ってどうすんの? それで人生楽になるのか? 金になるのか?」
「はいはい」
 苦笑いしていると電車がやってきて、ぎゅうぎゅうの人の中に押しこまれる。クーラーなんてぜんぜん追いついていない熱気だ。こんな中なのに、新聞を読んだり化粧したりする大人の臭いには本当にいらつく。

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