かあさんが買い物に行って誰もいない午後、僕はめずらしくリビングにいて、ソファでぼんやりしていた。十六時、昼食は食べていなくて腹が減っていたので、「体重増えてたからあげるっ」と麻矢に押しつけられた甘栗を食べていた。
甘い匂いを嗅ぎつけたまろが、嬉々としてこちらに寄ってくる。「ほら」とぽいと緩いカーブで投げてやると、うまくキャッチして大好物を味わっている。それを見て、「器用だなあ」なんてつぶやきながらも、心は別のところにあった。
ときどき陰ったりぎこちなくなったりするひよりさんの仕草と、あのわらびの足が頭を離れなかった。しかし、足を引いて何だというのだろう。怪我といっていたではないか。
でも──気になる。最近越してきたって言ってたな、と肘かけに頬杖をつく。普通に、旦那さんの転勤とかと思っていたけれど……
「くうん」
まろの催促にはたとした僕は、「はいはい」と甘栗を放ってやる。自分の口にも放りながら、あま、と眉をひそめる。何で女はこんな甘いものばかり好きなのだろう。まろは男だけど。
まろの頭を撫で、「お前とわらびの会話が聞けたらなー」と自分で言いながら笑ってしまう。会話と言っても、まろとわらびは匂いを嗅ぎ合っているばかりなのだけど。多分それで本能的に相手が分かるのだろう。
甘栗の香りに瞳をきらきらさせるまろに苦笑しつつ、もうひとつ放ってやる。甘さで食欲を減退させられた僕は、ふくろの封を閉じて、甘栗はキッチンの戸棚にしまった。
ついてきたまろは残念そうに鳴いていても、「太ったらわらびに嫌われるぞ」という言葉が分かったのかどうか、リビングに通じる和室に駆けていって、そこに転がる骨ガムやボールで遊びはじめた。
僕も和室に足を伸ばして、まろのそばに腰をおろす。すると、まろは僕の周りをまわり、僕は青いボールを投げてやったりする。追いかけて腹這いになってボールとじゃれはじめたまろを眺めながら、僕はまた、わらびとひよりさんについての思索に落ちていった。
「──甘栗?」
次にわらびとひよりさんに逢ったのは、ぐずついた天気の土曜日の夕方だった。今日は時間があるから、と公園に立ち寄って、僕とひよりさんは並んでベンチに腰かけていた。
わらびの包帯はまだ取れていない。まろもわらびの怪我を気遣った上でじゃれていた。
「はい、妹が甘栗が好物で、それがまろにも移っちゃって。マロンのまろに決定」
「かわいい」とひよりさんは声をもらして笑って、「わらびはね」とわらびの頭に手を乗せる。
「娘とお揃いの名前だったの」
「え、娘さん」
初耳で、僕はカメラのシャッターのように目をしばたかせる。
「みやびって言ってね。何となく響きが似てるでしょ、みやびとわらび。意味はぜんぜん違うけど。きらびやかと雑草って」
僕は少し咲う。
「初めての娘だったから、兄弟いなくて寂しいだろうってわらびを飼いはじめたんだけど。娘も犬も赤ちゃんでしょう。世話がほんと大変だった。でも、毎日が明るくて楽しかった」
「そうですか……。というか、娘さん、いらっしゃったんですね」
「うん──」
ひよりさんはうつむき、ナチュラルブラウンの髪が肩をすべりおちる。
「もういないの」
「えっ」
「三歳のとき、事故でね」
僕は思わず喉がすくんで、言葉を失くしてしまう。
ひよりさんは僕に無理に咲うと、「ごめんね」と言った。
「えっ、あ、いえ。僕こそ気の利いたこと言えなくて」
「誰だってそうよ。気にしないで」
微笑んだひよりさんは、しばらくわらびの頭を撫でて、僕はその繊指を見つめていたけれど、「そうだ」とふとひよりさんは顔を上げた。
「そういえば、うちに甘栗があるわ」
「え」
「五樹くんとまろくんには仲良くしてもらってるから、何かお礼したかったの」
「えっ。いや、いいっすよ、そんな」
「迷惑かな?」
「いや、まろは喜ぶと思いますけど」
「じゃあ、私の家行こう。すぐそこだから」
「いいんですか」
「うん。遠慮しないで」
無理やり断ることでもないだろう、と判断すると、僕はリードを持ち直して立ち上がった。まろが不思議そうに僕を見上げる。「甘栗だってさ」とまろの頭をぽんぽんとし、ひよりさんもベンチを立って、リードを手に巻いた。
僕もまろもひよりさんも、足を引くわらびの歩調に合わせる。「まだ治らないんですか」と訊いてみると、「うん」とひよりさんは睫毛を陰らせながらうなずいた。その陰が気になっても、詮索する勇気を持てない。
ひよりさんは『月野』という表札がある家の前で立ち止まった。僕の家とあんまり変わらない、庭のない一戸建てだ。門扉を通してもらうと、階段をのぼって玄関に行き着く。
「ちょっと待っててね」とひよりさんはわらびと家の中に入ってしまい、わらびを追いかけようとしたまろを僕は引っ張る。いいのかなー、とか思いながらうろうろしたがるまろを引っ張っていると、突然、家の中で、がたんっと大きな音がした。
ん、とドアを向いたのと同時に、ガラスの割れる音が続いた。思いがけない物音に狼狽えていると、突如まろが「きゃんきゃんっ」と家の中に向かって吠えはじめた。普段あんまり聞かない──警戒したときの吠え方だ。
僕は眉を寄せて、ドアノブを見た。躊躇うヒマもなく男の怒鳴り声がしたので、僕はまろのリードを取り落としながらドアを開けた。
「こんな犬、捨ててしまえと言ってるだろうっ!」
何だ、と息をのむ。こんな犬って──。
そのとき、わらびの足が脳裏をよぎり、思わず勝手に月野家に上がりこんだ。
「あなた、やめてっ。わらびは──」
「お前もいい加減にしろっ。この犬を捨てるために引っ越してきたのに、連れてくるなんて」
家に入ってすぐ、右手にダイニングルームがあった。そこで、ひよりさんと眼鏡をかけた男が格闘していた。男はひよりさんの細腕に簡単に追いやると、床で震えていたわらびに渾身の一蹴を食らわした。
まろが吠える。僕はほとんど何も考えずに、その男と取っくみあった。
「てめえ、何やってんだよっ」
「何だお前はっ。──ひより、貴様、犬の次は若い男かっ」
「違うわ、その子はわらびの──」
僕はその男のこけた右頬を思いきり殴った。ごつっと骨の当たる音がこぶしに響いて、思ったより入った。男はよろけ、そばのテーブルに手をつく。
「やめて」とひよりさんが悲鳴に近い声で僕の腕を取った。
「この人は私の主人なの」
「主人って……何、わらびのこと──」
男はこちらを睨みつけると、ひよりさんを押しのけてふらつくように飛びかかってきた。僕がそれをよけると悔しそうに舌打ちし、「こいつもこの犬が引き寄せたのかっ」とまたひよりさんに牙を向ける。
「早く捨ててこい、こんな犬っ」
「あなた、お願いだから落ち着い──」
「ちきしょう、お前のせいでみやびはっ」
男は、うずくまるわらびを怪我した右足から持ち上げた。乱暴なあつかいに、包帯がほどける。
僕は目を剥いた。わらびの前足には、虫刺されなんかじゃない、真っ赤な皮膚が剥きだしになった酷い火傷があった。
悲鳴をあげるわらびを高く持ちあげると、男は割れたガラスの上にわらびをたたきつけた。ひよりさんは泣き出しながら、わらびに駆けよる。
「あなたこそいい加減にして、わらびはみやびが、」
「その犬がみやびを殺したんだっ。そんな犬をかわいがれるかっ。捨てないなら俺が殺してや──」
「うっせえな、てめえが死ねっ!」
僕は男の胸倉をつかんで、力いっぱい顎を殴りつけた。男はうめいてガラスに崩れ落ち、僕は初めて自分が息をはずませているのに気づいた。
まろはひよりさんとわらびのところに行って、わらびの火傷を舐めている。
男はこぶしを握りしめたものの、僕に反撃しようとはしなかった。「ちくしょう」ばかりつぶやき繰り返して、床のガラスをはらうとフローリングを殴りつける。そして不意に立ち上がると、僕を壁に押しやって、二階に行ってしまった。
僕はそれを苦々しく見送り、すぐ三人のほうにガラスに気をつけながら向かう。
「大丈夫ですか」
「わ、私は何もないわ。わらびが……」
「病院に連れていきましょう」
「ダメっ」
ひよりさんの鋭い制止に、ぐったりしたわらびの軆に手をあてていた僕は、怪訝に顔をあげる。
「だって、病院に連れていかないと。さっきので内臓が破裂とかしてたら」
「そ、そうだけど……。やっぱりダメよ。お医者さんに何て説明したらいいか」
「そのまま言ったらいいじゃないですか。あんなの──」
「あんなって言われても、私の主人なの。大事な人なのっ」
困惑して、口をつぐんでしまう。指先に生温かい感触がして、目線をさげた。あいつを殴って擦りきれた僕の指を、わらびが舐めてくれている。
それを見ていると、無性に泣きたくなってきて、僕は目をこすった。ひよりさんは僕を見、細いため息をつくと、その場に虚脱した。
「娘はね」
「え」
「わらびをかばって死んだの」
「えっ……」
「ほんとの姉妹みたいに仲がよかったから。転がったボールを追いかけて車道に出たわらびを、みやびが押しのけて代わりに轢かれてしまったの」
「………、」
「それまでは、あの人もわらびをかわいがってたのよ。本当に。でも、みやびが亡くなって変わったわ。お酒を飲むようになって、わらびに暴力をふるって。私のことも怒鳴りつけたり。でも、根は優しい人なの。ほんとよ」
どう答えたらいいのか、分からなかった。僕には、今見た光景が焼きつきすぎている。火傷したわらびの足を捻じりあげて、ガラスの破片にたたきつけて──。
「今日は土曜出勤でいなかったはずなの。散歩に行ってるあいだに帰ってきたのね。ごめんね、五樹くん。痛くなかった?」
「あ……、はい。僕は何も」
「まろくんもびっくりさせちゃったね。ごめんね。ごめんね……」
わらびの傷を舐めるまろの頭を撫でながら、ひよりさんはぽろぽろと涙をこぼした。僕は何も言えず、脱力して、指を舐めるわらびの小さな舌を見つめた。
この重たい暗雲のような沈黙をどう破けばいいのか、頭が混乱しすぎていて、僕には分からなかった。
その日は結局、甘栗のふくろだけもらって、わらびがどうなったか分からないまま、僕とまろは帰路に着いた。
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