空に手が届かないなら-2

「……そいつが、危ない奴じゃないって分かったら」
 俺は紗依に向き直った。
「俺も、手を引くよ」
「あたしのことあきらめるの?」
「そうしてほしいだろ」
「あたしを想ってても、琉羽は幸せにならないね」
「………、くそ。初恋だぞ」
「琉羽を嫌いになったわけじゃないよ。でも、その人のことが琉羽よりもっと好きになったの」
「……あっそ」
 俺はそっけないふりをして、立ち上がった。「その男に会えるまでは来るからな」と言うと、紗依はうなずいた。「修羅場になるね」と瑶伊は綽々と笑っている。
 俺は散らかったものを足蹴にして玄関に向かう。
「あんたは、紗依の好きな奴に会ったことあるのか」
 ついてきた瑶伊に訊いてみると、瑶伊はにっこりとしてうなずく。
「ちょっと君に似てる男の子だよ」
「俺に似てんのかよ」
「でも、彼のほうが繊細な感じだね」
「どうせ俺はがさつだよ」
「紗依をあきらめたときはなぐさめてあげるよ」
「ゲイのなぐさめとか怖いんだよ。じゃあ、今日は帰る」
「またいつでもおいで」
 俺はスニーカーを履いてドアノブに手をかけた。一度室内を振り返ったが、紗依はまたベッドに寝転がって俺を見送りもしていない。
 確かに、俺たちは強く結ばれていたとは言いがたいけど。それでも俺は本気だったのに、と思いながら、俺はドアを開けて熱気がこもる廊下を階段へと歩いていった。
 それから、俺は瑶伊の部屋に通うようになった。夏休み、別にしたいこともしなきゃいけないこともない。ヒマに任せて、しょっちゅうその部屋を訪ねた。
「ほぼ毎日だよね」とキッチンで料理をする紗依は笑う。俺はむすっとベッドに腰かけ、「好きな奴、来ないの?」と膝に頬杖をつく。紗依は肩をすくめて答えず、俺のぶんのオムレツも持ってくる。俺はそれを受け取っておとなしく食べながら、隣に座って同じくオムレツを食べる紗依を盗み見る。
 春より髪が伸びて、尻に届くくらいになっている。瞳は相変わらずガラス玉のようで、感情の色合いが浅い。この部屋では紗依はいつも薄着で、肢体も腰まわりも肉づきがないのが分かる。胸も豊満とは言えない。
 ひと言で言ってしまえば、紗依は幼児体型だと思う。ロリコンにモテそうだ。俺はロリコンではないけど。
「何」と紗依は俺に横目をして、「つきあってはないのか?」と俺はバターが香ばしいたまごを飲みこむ。
「誰と」
「好きだって奴」
「つきあってないよ」
「片想い?」
「向こうは、あたしの気持ち知ってるけど」
「相手にされてない?」
「まあ、たぶん」
「……小学生と思われてんじゃね」
「うるさいな」
 紗依は俺を肘で突いてから、とろりとしたオムレツをスプーンですくう。俺も半熟のたまごを口に運び、こいつが料理うまいなんて初めて知った、と思った。
 料理だけではない。紗依はここで、洗濯やら掃除やらを担って器用に働いている。稼ぎは瑶伊みたいだが、家事はほぼ紗依で機能しているみたいだ。ただし、完全に引きこもっているので、買い物とかをしている様子はない。
「なあ、紗依」
「ん?」
「何でお前の好きな奴は、ここに来るの?」
「その人、前にここに暮らしてたんだよね」
「瑶伊と暮らしてたのか?」
「そお」
「ホモじゃねえの、それ」
「分かんないけど、違うんじゃない?」
「瑶伊の恋人だったとか」
「分かんない」
「分かんねえのかよ」
「うん」
「ホモだったらどうすんだよ」
「それでも好き」
「迷惑だと思うぞ」
「迷惑なのは分かってる」
 俺は眉を寄せて、分かんねえな、とオムレツを平らげる。
 ここに通うようになって一週間ぐらいだが、紗依の「好きな奴」は一向に現れない。そいつと対面して納得しないと、俺も紗依を断ち切れず、こういうまどろっこしい質問を続けてしまうのだが。我ながら未練がましいのが、けっこうつらい。
「家にはやっぱり帰らないのか」
「うん」
「学校にも来ない?」
「もう無理だから」
「無理」
「元の生活に戻るのは無理」
 どこか言い切るような紗依の横顔を見て、「そうか」としか言えなかった。
 彼女はそいつに惚れて、ずいぶん俺から離れたところに行ってしまったのだろう。一緒にいると自然と楽しかったのに、今は紗依といても彼女が何を考えているか分からない。
 かといって、掘り返すように学校をサボって共有した音楽や映画の話をしたって、それこそ彼女には鬱陶しい過去のことなのだろう。俺だけ置いてきぼりにされて、紗依と咲った記憶を捨てられない。
 元の生活には戻れない。俺たちの時間も巻き戻らない。
 何でそんなにあっさり切り替えられるんだろ、とため息をついて、とりあえず空っぽになった皿をシンクに持っていった。
「琉羽くん、僕とお酒飲まない?」
 瑶伊はいつも二十一時頃に帰宅する。何の仕事かは知らない。俺はいつも、だいたいそれと入れ違いに帰るが、その日、スニーカーを履いていると瑶伊にそんな声をかけられた。
 俺は瑶伊を振り向き、「俺、すぐ酔うから」と言うと、瑶伊はにっこりする。
「介抱してあげるよ」
「ゲイの介抱怖い」
「琉羽くんはゲイを怖がるなあ」
「ストレートの男はそんなもんなんだよ」
「じゃあ、酔いつぶれても放置していくから」
「それもどうかと思うぞ」
「僕とお酒飲みたくない?」
「飲む義理を感じない」
 瑶伊はやっぱりにこにこしながら、腰をかがめて俺に耳打ちした。
「紗依の好きな男の子について、聞きたくない?」
 俺はぱっと瑶伊を見た。瑶伊は飄々と笑っていて、その向こうで紗依は櫛で長い髪を梳いている。俺が固まっていると、「じゃあ決まり」と瑶伊は俺の背中を押した。
「紗依、僕ちょっと琉羽くんと飲んでくるよ」
 そう声をかけられて初めて、紗依はこちらを向き、「了解」とだけ言った。
 俺がまごまごしているうちに、瑶伊は俺を夏の熱気がこもる廊下に押し出した。
「紗依の好きな奴って──」
「それが知りたくて、こんなにここに通ってるんでしょ。少しは情報あげないと不憫になってきた」
「不憫って」
「知りたくない?」
「知りたい、けど」
「じゃあ、軽く一緒に飲もう。何なら、琉羽くんはジュースでもいいから」
 そう言って瑶伊は歩き出し、俺は何秒かその場に踏ん張るように立っていたけど、結局瑶伊を追いかけてアパートを出た。
 夜の街は雑踏と電飾が入り乱れている。瑶伊とはぐれないだけでも、けっこう大変だ。「手つなぐ?」と瑶伊は言ったが、「ふざけんな」と俺は言った。瑶伊はからからと笑って、やがて、ひとつの雑居ビルに入るとエレベーターホールで立ち止まった。
 俺が隣に追いつくと、瑶伊は『△』のボタンを押す。
「紗依が言ってたけど」
「ん?」
「好きな男とあんたが一緒に暮らしてたって」
「しばらくね」
「つきあってたのか?」
「紗依はそう言ってた?」
「『分かんない』、って」
「まあ、かわいい子だったけどねえ」
 エレベーターがやってきて、俺と瑶伊はそれに乗りこむ。そして五階までのぼると、エレベーターを降りてすぐにガラスのドアがあった。瑶伊についておとなしく店に入ったが、入ってすぐに空気の異変に気づいた。
 何だか、客が男しかいないし、男同士でくっついているし、男から視線が来るし──「おい」と俺は瑶伊の肩をたたき、「ん?」と瑶伊は振り返ってくる。
「あ、カウンターがいい? ボックス?」
「どっちでもいいけど、ここ野郎しかいないぞ」
「ゲイバーに女の子いてもしょうがないでしょ」
「ゲイっ……いや、俺はそっちじゃねえし。怖いんだけど」
「僕にくっついてれば大丈夫だから」
「くっつきたくねえよ。ふざけんな」
「そんなに怖がらなくても、ゲイは男だからって見境なく襲ってくるわけじゃないんだよ」
 そのわりには、露骨に視線や窃笑がちらちら来ていて、冷房のせいだけでなく肌が冷めていく。
 瑶伊は煙草で煙たい店内の窓際のボックス席に座り、俺は引き攣りそうな所作で向かいに腰かけた。右手の窓の向こうにはネオンが乱れる夜景が広がっている。「隣においでよ」と言われて瑶伊を睨むと、瑶伊はくすくすと笑いを噛んだ。
「で、何飲む? 僕がおごるよ」
「烏龍茶」
「お酒飲まないの?」
「ほんとにすぐ酔うんだよ」
「酔ったらかわいいだろうね」
「殺すぞ」
「はいはい。じゃあ、注文してくるよ」
 瑶伊は立ち上がって、カウンターに行ってしまった。俺は息をついて、迂闊だった、といらいらするので目を伏せる。
 ゲイに酒を誘われたら、それはゲイバーにだって連れてこられるだろう。お断りだと釘を刺さなかった俺も悪い。しかし、ストレートの男にはこんな場所は窮屈だとも察してほしい。ここに来ている野郎共にとっても、ストレートの男を引きこまれるのは迷惑な気がするが。
 内心ぶつぶつ考えていると、「どうぞ」と瑶伊の声がして顔を上げる。さしだされている烏龍茶のグラスを受け取ると、瑶伊は透明なカクテルを飲みながら、俺の隣に腰を下ろしてきた。
「隣やめろ」
「僕といちゃついておかないと、知らないおにいさんから声かかるかもよ?」
 俺は舌打ちして烏龍茶を飲み、それがちゃんと烏龍茶で酒は入っていないのを確かめる。
「琉羽くんは根っからのストレートだね」
「悪いか」
「ゲイバーに来ると、色目使われて悪い気はしないストレートは多い」
「色目使われても応えられないんだぞ」
「まじめなんだね」
 そう言った瑶伊はカクテルを飲み、テーブルにコースターを敷くと「さてと」とグラスをそこに置いた。
「じゃあ、紗依の好きな人の話をしようか」
 改まって言われ、俺も烏龍茶をコースターの上に置いて、瑶伊を見た。瑶伊はにっこりとしてから、「僕とその子の関係から言うと」と話を始める。
「彼は僕の甥なんだ。かごめっていうんだけど」
「甥」
「姉の息子だよ。これが驚きの美少年でね」
「はあ」
「でも、容姿が恵まれてるっていうのは幸福なこととは限らない。子供の頃から、かごめはよく大人に悪戯されてたみたいなんだ。可哀想にね」
「……悪戯」
「かごめは十三のときに家を出て、僕のところに逃げてきた。理由を訊いたら、おとうさんが怖いって」
 何となく予想がついて眉を寄せると、「まだ手は出されてなかったみたいだけど」と瑶伊は背もたれに寄りかかる。

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