ゼンマイジカケ-1

地を這う日々

 まだ、動くのに。動けるのに。ぜんまいさえ巻いてもらえれば、俺はまだ生きていけるのに。
 誰も俺のぜんまいなんて巻いてくれない。俺を生かしてくれない。生まれただけで、いらないがらくたとして壁際に投げ捨てられている。
 空っぽの胃が、鋭く絞めあげられている。どのくらい食べていないか分からないし、最後に食べたものさえ、つまみのスライスサラミの数切れだ。餓えた生唾が口の中でべとべとして吐きたい。俺は昨日殴られた頬の痣に眉を顰めながら、栄養のない細い膝を抱いている。
 そこは電気もガスも通らない、ゆいいつ水道は共同だから通っている、アパートの一室だった。気づいたら俺は、この部屋に転がるがらくたのひとつだった。
 母親はほとんどいない。いらいらしたときだけ、便所に来るみたいにここに来て俺をぶちのめして、すっきりして帰る。親父はアダルトサイトの管理人をしていて、いかに広告をクリックさせるかで稼いでいた。サイトのためにいつもPCでポルノを見ていて、マスターベーションをしている。
 荒い息とうめき声、そしてブラウザの女の嬌声が常に室内をぐるぐるして、虫唾が走る。何週間も溜められたゴミは散らかり、暖かくなってきた気温に腐った臭いを放っていた。
 音を立てないように立ち上がり、ふらつきそうになって壁に手をついた。親父は甘ったるく喘ぐポルノに見入っている。カビの生えた食パンの耳でもいい。何か食べないと、意識が薄くて飛んでしまいそうだ。
 台所の生臭いシンクの下の小型冷蔵庫を開けて、中をあさった。ビール。チューハイ。どんなにあさっても、酒だ。こないだみたいにつまみくらいないのか。酒を割る水か、ジュースでもいい。汗臭い服の胃のあたりをつかんで、目を凝らして冷蔵庫に首を突っ込んだときだった。
 突然、頭を鷲掴みにされた。全部引き抜くように髪を引っ張られ、はっとしたときには首をぐいっと反動をつけて持ち上げられた。ついで、剥き出しの冷えたコンクリートにたたきつけられた。
 髪をつかむ手から便所に似た汚臭がしたたり、臭い足が俺の肩を踏み躙る。まだ治っていない痣をえぐられ、思わず硬くすくんで丸くなる。すると、背骨を砕く勢いで蹴られ、冷蔵庫からつかみ出した中身の入った酒缶まで投げつけられた。
 がんっ、と重く冷たい缶は音を立てて転がり、俺は視覚を失いかけながら歯を食い縛って声をこらえる。
「ゴキブリが! がさがさうるせえんだよっ」
 何も言わない。目は閉じる。聞こえなかったことにする。腫れた熱には耐える。臭い息にこみあげる胃液は飲みこむ。“そのあいだ”は人形になって、されるがまま殴られて、絶対に逆らわない。
 本当は叫びたい。泣きたい。吐きたい。
 でも、俺はこの部屋では人間じゃない。寄生虫だ。宿主がいくらくそったれでも、寄生虫は寄生して生きているに過ぎない。だから、こいつの機嫌次第で生きるか死ぬかだ。感受する自分の心なんて、麻痺させてしまうしかない。
 親父が酒缶をつかんでPCの前に戻るときには、俺は頭から血を流して、息も絶え絶えになっていた。缶が当たって、打撲のあまり頭皮が切れたみたいだ。よろよろと這いずり、流れる血を手の甲で拭って、俺は玄関の把手に取りついて部屋を転がり出た。
 月が明るく光り、なめらかに温かい風が吹いていた。でも酒の臭いか、シンナーの臭いか、とにかく異臭があって眉を顰める。今日も二階のどこかの部屋で赤ん坊が泣いている。
 俺はため息をつくと、地べたに手をついて立ち上がり、アパートの裏のメーターが並ぶ小さな草地に向かった。
「翼」
 頭を抑えて舌打ちしながら現れた俺に、そこにいた先客が声をかけた。見ると、暗がりで身を寄せ合っているのは春夜はるや秋陽あきひだった。
 隣の部屋の兄弟だ。春夜は六歳、秋陽は三歳──俺は五歳か六歳かどっちかだ。自分の誕生日なんか知らない。こんな街、あんな家庭で生まれ育ち、知恵や知識、言葉遣いは五、六歳のものじゃないけれど。
「大丈夫?」
 秋陽をはさんで並んで腰を下ろした俺に、春夜が心配そうに首をかしげる。ふたりとも隈が染みついた目をして、痩せこけている。俺はうなずき、止まりかけた血に手を下ろす。手の甲は思ったより赤くなくて、鉄の匂いもかすれて乾きかけている。
「うるさかったか」
「けっこう響いてた」
「そうか。ごめん」
 秋陽の小さな手が、血がこすれた俺の手を取る。そこが怪我していると思ったのか、丁寧に手の甲をさすってくれる。
「大丈夫だよ、秋陽」
 秋陽は俺を見上げて、小さくうなずく。秋陽は生まれたときから声を発さない。出ないのか、出さないのかは、俺も春夜も分かっていない。でも少なくとも耳はちゃんと聴こえているようだ。
「春夜のとこもか」
「ん。今飲んでる」
 春夜と秋陽は不健康な見た目だけど、俺のように痣や傷はない。食事をろくにもらえないのは同じでも、ふたりは暴力はそんなに受けていない。
 一緒に暮らしているのは親父で、このおじさんが末期のヤク中なのだ。薬が効いているあいだは優しいぐらいで、そういうときになぜか俺までお菓子をもらえたりする。でも薬が切れると、自傷行為がとにかくひどくて、不安定になって言動もおかしくなる。春夜も秋陽も放置して、薬のことしか考えなくなる。
 春夜によると、おじさんは定期的にどこかに振りこみをしていて、週に一度ぐらいのペースで薬がドアポストに届くようになっているらしい。七日間、配分して摂取していた薬だったが、最近は一気に飲むのが増えてきたそうだ。そのため、五日目くらいで底尽きて、そうなれば残り三日はまともじゃない状態で過ごすわけで、たいていは手首や腕を切っている。
 金はどこから入っているのかはっきり分からずとも、たまに電話している相手がいて、その人に送金してもらっているのかもしれないという。
 ふと秋陽のお腹が鳴って、「薬効いてきたら、おとうさん何かくれるからね」と春夜は弟の頭を撫でる。そういえば俺も空腹だったが、今は軆のあちこちのほうが痛い。春夜もかなり腹が減っているようで、少し開いた窓を振り返り、そわそわと骨の浮いた膝を抱えている。
 春夜は最近、玄関のドアを絶対に開けてはならないとおじさんに言われるようになったらしい。だから、部屋を出入りするときはこの裏手に面した窓を使っている。メーターがちょうど足掛けになって、手足が幼くても昇り降りできるのだ。
「翼も、頭、手当てしたほうがいいね」
「平気だよ」
「ダメだよ。血が出てるなら膿になる」
「それより、風呂入りたい」
「うちの貸すよ」
「ごめん、いつも」
「翼もたまに食べ物持ってきてくれるし」
「万引きだけどな」
「僕はそんな勇気ないから。秋陽に食べさせてあげれるの、助かってるよ」
 俺が顔を伏せて痛む背中を丸めたとき、ふと春夜たちの部屋からテレビの音が聞こえてきた。
 俺たちは顔を見交わす。おじさんが安定したのだ。不安定になると、おじさんは物音に過敏になるからテレビも消してしまう。落ち着くと、適度な雑音としてテレビをつける。
 俺たちはふらふらしながらも何とか立ち上がり、まずは春夜がメーターにのぼって部屋を覗いた。そして振り返って、静かにうなずいたので、俺たちは続けて窓から部屋に入った。

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