ゼンマイジカケ-3

生きていけ

 借りてきたDVDをマスターベーションしながら確認すると、その中身をPCに取りこむあいだ、親父はクリックしたくなる内容紹介を考える。
 親父はあんまり寝ない。ほとんど一日じゅうPCに向かっている。それで平気ということはないようだ。作業が立てこんで寝不足が続くといらいらしてきて、俺への暴力も増える。
 その日も気配がうざいとかわけの分からないことをわめかれて、まだ寝ぼけていたところに胸倉をつかまれた。持ち上げられ、宙に浮き、頬をがつっと力いっぱい殴られる。ぐにゃりと首は垂れ、そうしたら今度は硬いこぶしを腹に打ちこまれる。酸っぱい胃液がせりあげ、口元をしたたる。
 親父は俺を床にたたきつけるようにぶん投げ、頭が衝撃でまたたいた。感覚が戻らないうちに、背中や腰を何度も踏みつけられ、脇腹を蹴りあげられる。うめきをもらすと、親父は笑い声を上げる。
「情けないよなあっ! 親にもかわいいと思ってもらえなくて、ほんとにお前は可哀想だよなあ! っとに、お前は虫唾が走るぜ。何で生まれたんだろうなあっ、何で生きてんだろうな、ああっ?」
 唇を噛んで、自分を閉ざす。親父の足が俺の脊髄を踏み躙り、その執拗なかかとに表情が苦くゆがんでしまう。でも、何とかその顔は床に伏せる。
 すると親父は、俺の髪をつかみ、目元に唾を吐きかけてくる。ひどい臭いの唾だった。それがまるで涙みたいに頬を流れたから、それに親父はまたげらげら笑って、何度も唾を飛ばしてきた。
 俺はその唾が口元に流れこんできた嫌悪感に、その饐えた酒の味に、一気に嘔吐したくなったが、今はこらえる。親父はやっと俺を投げ捨てると、DVDをかきあつめて部屋を出ていった。
 テンションがおかしいと思ったら、複製作業が一段落したのか。DVD吟味するからしばらく帰ってこないな、とよろよろと立ち上がった俺は、洗面台で口をゆすいで、まだ残る臭みに指を喉に突っこんで吐いた。ろくに吐くものなんてなかったけど。もう一度うがいをして、唾も洗面台に吐き捨てたときだった。
「このくそったれ、いるんだろっ。今日は金よこすまで帰らねえからなっ!」
 どんどんとドアを殴る不穏な音と共に、そんな声が聞こえた。また、隣の部屋だ。最近、本当に多い。
 春夜と秋陽大丈夫かな、と俺はドアでなく、裏手に面する窓から草地を覗いた。月明かりだけのそこで、春夜と秋陽が身を寄せ合っていた。ふたりはすぐ俺に気づき、泣きそうな顔を向けてくる。
「春夜──」
「お……おとうさん、……すごく、切ってて。どうしよう……」
「すぐそっち行く」
 俺は急いで玄関から外に出た。一瞬、怒鳴り散らしていた奴らがこちらをぎろりと見た。俺はかたくなに見返してから、すぐ身を返して裏手にまわった。
「春夜。秋陽」
 ふたりは俺を見上げる。秋陽は涙目だった。おじさんがそうとう切っているらしい。俺はふたりのかたわらにひざまずいて、「大丈夫」と言った。
「でも、お金出すまで帰らないって言ってたよ。あの人たちがいるあいだは、ずっと切ってるんだよ」
「死ぬほど切れるなら、もう死んでるだろ」
「……そうだけど」
「大丈夫だよ、どうせあいつらもそのうち──」
 そのとき、秋陽がびくっと肩をおののかせて春夜にしがみついた。春夜は俺の背後に目をやって目を開き、俺も振り返る。そして思わず息を飲みこんだ。
 怪訝そうにこちらを窺う男が、ひとり立っていた。黒髪、鋭い眼、軆つきもしっかりしている。二十代半ばくらいだろうか。服装はざっくりしているが、表のチンピラみたいなのとは格が違うのが何となく分かった。
 男はいったん、手元のケータイを何やら覗いてから、「ひとり多いな」とつぶやいて俺に目を留めた。
「あ、お前は今、隣の部屋から出てきてたガキか」
 耳に心地よい低音の声だった。表の騒々しさとは対照的に、男は落ち着いている。俺と春夜と秋陽は顔を見交わす。
「奥のふたりが、あの部屋の子供だな?」
 春夜が俺の手をつかんだ。俺は黙って握り返した。男はスニーカーの足でこちらに歩み寄ってくる。
 男は痣だらけの俺を眺めて、それから春夜と秋陽も見た。男はぱたんとケータイを閉じて、俺たちと同じ目線にしゃがんだ。それから肩にかけていたリュックを下ろし、中から板チョコを取り出した。
「三枚もねえから、三人で分けて食え」
 とまどっていると、「ろくに食ってないんだろ」と男は板チョコをさしだす。敏感な嗅覚で、その甘い香りが分かる。春夜も秋陽も震えているので、俺が受け取った。
「よし」と男は微笑んだ。大人が優しく咲うところを俺は初めて見た。
「いいか、部屋に戻るのは俺たちが帰ってからにしろ。それまでは、絶対ここにいろよ」
 春夜がおろおろしながら、かぼそく「おとうさんを殺さないで」と言った。男は苦笑して、「金出せばすぐ帰るよ」と立ち上がった。夜風に男の艶やかな髪が揺れた。すごい美形なのが、暗がりでも見取れた。
「じゃあな。なるべく静かにもしてろ」
 男は身をひるがえし、表に戻っていった。俺たちはまた顔を合わせた。しばらくふたりの震えは収まらなかったけど、ふと、秋陽がそろそろとチョコに手を伸ばす。
 俺はアルミに包まれたチョコをみっつに割り、春夜と秋陽に渡した。春夜は食べるのを躊躇っても、秋陽はかじりついて、表情を少し綻ばせた。チョコなんて、めったに食べたことはない。俺も口にして、その強い甘味をめまいがしそうにおいしいと思った。「うまいよ」と俺が言うと、やっと春夜もそっと歯を立て、「甘い」とつぶやいた。
 三人とも味わってちびちびチョコを齧っていたが、突然、春夜と秋陽の部屋の中から、ばたんっと激しい音がしてまたびくっとなった。
「うえっ、何だこの臭い」
「血か、これ──くそっ、手首切ってやがる。おいおっさんっ」
「てめえ、自殺なんかでばっくれるなら俺らが殺すぞっ」
 その言葉に、春夜も秋陽もぱっと顔を上げた。春夜がメーターに取りついて部屋を覗こうとして、俺はそれを止める。
「翼──」
「あの人が、静かにしろって言ってただろ」
「でも」
「大丈夫だよ」
「殺すって」
「あの人の声じゃなかった」
「あ、あの人も仲間なんでしょ、どうせ」
「仲間……ではない気がする。何となく。だから、その──そうだ、俺が様子見てくるから」
「え」
「少し見てくる。春夜と秋陽はここで待ってろ」
「危ないよ」
「平気だって。じっとしてろよ。すぐ戻ってくるから」
 俺はチョコを食べ終えて、春夜を秋陽の隣に戻らせた。秋陽が春夜にしがみつき、春夜は秋陽を見下ろしてその頭を抱く。
 俺はふうっと息をついて、それでちょっと肋骨に痛みを覚えたものの、ふたりには気丈にうなずくとその場を踏み出した。
 表を覗くと、さっきの男がひとりで煙草を吸っていた。ほかの奴らは部屋に雪崩れこんだみたいだ。俺の視線に男は素早く気づいて、一瞥をくれてから煙草をふかす。
「隠れてろ」
「春夜と秋陽の親父、殺すのか」
「ただの取り立てで殺すか」
「取り立て……」
「最近、支払いがだらしないんだ。前はきっちりはらってくれてたんだけどな」
「あんたは、その……売人なのか」
「売人が大家から合鍵脅し取れるか?」
 男は手の中の鍵を見せた。どうやら、春夜と秋陽の部屋の鍵らしい。部屋の中では乱雑な音がしている。おじさんの怯えた声が混ざるときもある。そのとき、閉まっていたドアが開いて、「弓弦さん」と引き締まった男の声がした。
「ん? あったか?」
「弓弦さんが来てるって言ったら、とりあえず万札何枚か出しました。全部持っていきますか」
「余分はいらねえ。三枚でいい」
「分かりました」
 その声が引くと、何やら今度は意外に明るい声が聞こえてきた。
「やっぱ弓弦さんが来ると違いますねっ」
「いちいち来てるヒマはねえんだけどなー。この人はしばらく様子見しないといけないな」
「助かるっす」
「これ以上滞納が増えるなら、取り引き見直すよ。悪いな、嫌な仕事させて」
「弓弦さんから仕事もらえるのは光栄っすよ」
 物々しく見えていたチンピラは、よく見ると二十歳前くらいの若い奴らだった。弓弦と呼んでいる男には、無邪気に咲っている。
 弓弦という男は万札を三枚受け取ると、その中の一枚をチンピラに返した。二枚は自分の財布にしまって、それから、また俺に目をやった。
「親か?」
「えっ」
「その痣」
「……あ、まあ」
「食えるようになったら早く逃げろよ」
「………、春夜と秋陽を置いていけない」
 弓弦という男は少し目を開いてから、やや考え、「ハルとアキか」と何やら小さくつぶやいた。そして、俺に目を戻す。
「お前、名前は?」
「え、……つ、翼」
「翼。ふたりの心配はしなくていい。俺も考えていくから」
「え」
「お前はまず自分の心配してろ。いいか、ちゃんと生きていけよ」
 そう言って手を掲げると、男はチンピラを引き連れてアパートを離れていった。急にあたりは静かになる。
 何か──何か、かっこよかった、な。生きていけ。なぜ生きている? 親すら俺にそんなことを言うのに。ちゃんと生きていけ。そんなことを言われたのは初めてだ。
 俺は無意識に自分の呼吸を意識し、生きていっていいのか、とぽつりと思った。

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