ゼンマイジカケ-4

追いかけたい

 それから、その弓弦という男は、ときおりアパートに訪れるようになった。そして、考えていくと言っていた通り、春夜と秋陽の面倒を見るようになった。
 ふたりをどこかに連れていき、身綺麗にしてからアパートに帰す。いつも草地で薄汚れて怯えていた春夜と秋陽は、良くしてくれる男にあっという間に懐いた。話をして、話をしてもらって、頭を撫でられたり、咲いかけてもらったり、そうしているうちにふたりは少しずつ明るくなった。
 そんな変化をふたりに起こした男に、俺はどんどん興味が湧いてきた。少しでもその男に関する話を聞くために、俺はまだ薄汚いまま、草地に寝転がってふたりが戻ってくるのを待った。
 銭湯でゆっくり軆を流して、買ってもらった服を着る春夜は、あの男──弓弦さんのことを、俺が訊くままいろいろ教えてくれた。天鈴町というこの街の陽桜という区で、弓弦さんは絶大な権力を持っているらしい。
 仕事は周旋屋で、春夜と秋陽のおじさんとは、やはり薬を流すことでつながっている。怖くないかと訊くと、「すごく優しいよ」と春夜は言って、秋陽もしゃべらないけどうなずいた。ちなみに、弓弦さんに世話をされていることについて、おじさんは何も言わないらしかった。
 いいな、と正直思った。俺も弓弦さんにそんなふうに関われたらいいのに。しかし、弓弦さんは俺との所縁はないから、特に声はかけてこない。
 それどころか、俺は相変わらず親父に殴られてばかりで、その日も空腹と打撲でふらつきながら、倒れこむように玄関から外に出た。
「何してんだ、翼」
 そのまま玄関先で突っ伏していると、ふとそんな声がして慌てて顔を上げた。流れた風に煙草の匂いがした。いたのは、やっぱり弓弦さんだった。
 俺は弓弦さんをじっと見つめた。黒い瞳の中の俺は、痣と傷でどろどろだ。生きていけ。生きていきたい。でもこの部屋では生きていけない。春夜と秋陽はうらやましいけど、ただ面倒を見られるだけではダメだ。
 俺が望むのは、この人みたいにしっかり自分の足で立つこと──
「弓弦、さん」
「ん。てか、起きろよ」
 俺は間抜けに突っ伏していた自分にちょっと頬を染め、ごそごそと立ち上がった。
「ハルとアキは裏か?」
「たぶん。あ、あの」
「うん」
 俺はやや言いよどんだものの、この人がそんなにヒマじゃないのは話に聞いているから、急いで顔を上げた。
「俺も、なれないですか」
「は?」
「いや、春夜と秋陽みたいに、面倒見てもらうんじゃなくて。俺は、もう自分で生きていきたい」
「賢明だ」
「だから、その、俺を使ってくれませんか」
「使う?」
「何でもします。だから、何か、仕事……を、させてくれませんか」
「仕事の紹介か? 別にいいけど──」
「紹介じゃなくてっ。その、弓弦さんの仕事を手伝わせてくれませんか」
 俺がまっすぐ向ける目に、「あー」と弓弦さんは頭をかいた。
「悪い。何つーか、俺、手下はいらねえから」
「何でもいいんです。パシリでいいから」
「いや、いらん。まあ、働くのはいいんじゃないか。何か仕事探しといてやるから、それを──」
「弓弦さんを手伝いたいんです。ただの仕事なんか、こんなのしてまで生きてもよく分からないとか思うし。でも、」
「よく分からなくても、与えられた仕事ならやれ」
「っ……」
「お前いくつ?」
「……五か、六です。誕生日知らないから」
「ずいぶん歳食ってる面してんな。痩せてるせいか。うん、五歳な。憶えとく」
「ほんとに、俺のこと……使えないですか」
「使えないんじゃない、使わないんだ。俺の仕事は、そもそもあんまり人に預けられない」
 うつむいた。そうだよな、と思う。俺がそこまで信頼に値するかと訊かれたら、怪しいに決まっている。決まっているけど──
「お、俺は、いつでも使ってもらっていいですから。それを憶えててください」
 弓弦さんは俺を見下ろし、肩をすくめて答えず、俺の頭に手を置いた。そして、きっと春夜と秋陽がいる裏手にまわっていく。
 俺は座りこんで、ドアにもたれた。今夜も曇って星の光は薄い。軆がまだ踏まれているような錯覚で痛い。
 まもなく、春夜と秋陽が弓弦さんとやってきた。ぐったりした俺を見つけた春夜はぱっと立ち止まり、「翼」と心配そうに駆け寄ってくる。
「大丈夫? また──」
「大丈夫だよ、平気」
「けど……」
「春夜はどっか行くのか?」
「う、うん。今から弓弦さんとごはん食べにいくんだ。あ、弓弦さん、翼は一緒じゃダメですか?」
 問われた弓弦さんが煙草を離して口を開きかけ、俺は慌てて言葉をさえぎった。
「いっ、いいよっ。俺、その……服とかぜんぜん着替えてないしさ。汚いし」
「でも」
「大丈夫。うまいもん食ってこいよ」
 弓弦さんは煙草に口をつけ、俺と春夜を眺める。秋陽は弓弦さんと手をつないでいる。俺は顔を伏せ、「大丈夫」と繰り返した。やがて春夜も「……そっか」とあきらめ、「帰ってきたら手当てするよ」と残し、三人でアパートを遠ざかっていった。
 弓弦さんの広い背中を見つめ、俺はこれまでになく唇を引き締めた。
 ──それでも、なってやる。強くそう思った。
 俺なんか、胡散臭くて、使い道もないガキだろうけど。それでも俺は、弓弦さんについて働きたい。それならきっと頑張れる。何としてでもあの人の手下になって、それで俺は生きていってやる。

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