握りしめたナイフ
思わず黙ってしまうと、弓弦さんは「俺につきまとったのは全部はったりか?」と目を眇める。俺は慌てて首を横に振った。
「で、でも、ほんとに、……守る、とか」
「できないかもしれなくてもやれ。それがお前がやりたいって言った、俺の仕事だ」
「弓弦さんの──」
「そうだ。もしハルとアキを守ってみせたら、お前は仕事ができるってことだ。俺のパシリも考えてやるよ」
目を開いた。弓弦さんに使ってもらえる。取りつくところもなかった。でも、もしここで春夜と秋陽を守ったら──
俺はぱっと身を返して、春夜と秋陽の手を強引につかんだ。「翼」とよろけた春夜のとまどった声がしたけど、答えずにユニットバスのドアを開けた。ここなら内側からの鍵がついている。
俺はふたりをユニットバスに追い立てた。「どうするの」と秋陽を腕の中にかばう春夜が言ったけど、返事せずに「鍵かけて絶対出てくるなよ」とドアを閉める。
五秒ぐらいかかってから、かちゃっと鍵の音がした。俺は弓弦さんを振り返り、「よし」と弓弦さんはまっすぐ立ち上がって、こちらに大股で歩み寄ってきた。
「なるべく使うな」
言いながら、弓弦さんは俺にナイフを握らせた。どきん、と不穏に心臓がこわばる。それには構わず、弓弦さんはそのまま部屋を出ていってしまった。
ふー、ふー、という苦しげな息遣いが残って、見ると、抑えつけられていたおじさんがゆっくり身を起こしている。
「う、動くなよっ。もうあんたは薬はできないんだ」
「別にいいんだ……」
「は……っ?」
「あいつが子供を買ってくれないなら、ほかの奴がいくらでも買ってくれる」
「ふ、ふざけんなっ。そんなことしたら──」
「そういう街なんだ……そうだ、いくらでも代わりがあるんだ。薬だって、ほかの奴から買えばいい」
「バカだなっ。弓弦さんが売らないって決めたあんたには、きっと誰も薬なんか売ってくれないよ」
「それでも売ってくるバカがいる! 絶対いる、僕は探す……探す、薬が手に入るまで」
「黙れ……っ! おとなしくしてろ、そのまま動かずに──」
おじさんは、ぐにゃりと気味悪く俺に首を捻じった。そして嗤った。
「お前なんか、怖くないぞ?」
ほんとは、近づきたい。近づいて、窓際の包丁をこちらに持っておきたい。でも、近づくには、このナイフを使ってしまうかもしれない。
「お前のことも、まとめて売ったっていいんだ。売れるようにばらばらにしてやろうか」
「うるさいっ、妙なことしたら──」
「お前がうるさいんだよ殺してやろうか刺しまくって黙らせてやるおとなしくさせてやる抵抗するな僕に逆らうなばらばらだ売れるように持っていけるように連れていけるようにばらばらだ売れば薬だお前らを売れば薬が手に入る薬ができる薬なんだ全部薬なんだよ薬があればいいんだ薬があれば薬があれば薬があればああああああああああああっ」
どんどん声を絶叫にしたおじさんが、血生臭い腕を伸ばして、包丁を手にしようとした。俺は一歩踏み出して、踏み出したら重かった足がふっと軽くなって、俺はおじさんに突進した。
ナイフに、柔らかい手応えが走る。吐き気がした。
刺した? 刺さった?
そう思ったが、突然壊れた笑い声がはじけて、びくっと手元を見る。確かに、赤いものが飛び散っていたけど、思ったより──
「そんなところ、いつも切ってるから何にもないんだよっ」
はっと見ると、俺はおじさんの二の腕を刺していた。ナイフがぐっさり刺さっている。俺がやったと思うと、吐きそうになった。
おじさんはそのまま腕を振りまわす。それが俺の顎にがつっと当たった。俺は舌からあふれた血の味に唇を噛んで、ナイフを引き抜くよりおじさんを突き飛ばした。そして、素早くおじさんの包丁を手にして、今度は腹に刺そうとした。
もう殺すつもりだった。が、おじさんは異常にハイになっていて、血走った目を剥いて笑って俺の攻撃をかわす。むきになって追いかけているうち、ひらひら踊っているみたいなおじさんを、ユニットバスの前に行かせてしまう。
「おい春夜あ、秋陽い、お前の友達がおとうさんを殺そうとしてるぞお」
そんなことを言いながら、がんがんと狂ったようにドアを連打しはじめた。その拍子に、腕に刺さったままのナイフが転がり落ち、鮮紅の血が大げさに噴出した。俺はその血を浴びながら、包丁を振り上げて叫ぶ。
「春夜と秋陽には手を出すな、絶対手え出すなっ!」
包丁を振り下ろした。だが、よけられてしまい、ざくっと血が飛んだ白い壁が破ける。俺はきっとおじさんを見上げ、今度こそ腹にもぐりこんで内臓に突き刺そうとした。
だが、おじさんは本当に感覚がないのか、ぼたぼたと血を流す腕の肘を、がつんと俺の頭に突き落とした。がらんっ、と包丁がフローリングに転がる。おじさんの血が、伝って汗のように俺のこめかみを流れる。
「知ってるぞ」
おじさんは、思わずうずくまった俺を覗きこんでくる。
「可哀想なんだよなあ」
脳裏にちりっと静電気が走った。
「可哀想な子なんだよなあ」
「……さい」
「おとうさんにいっつも殴られてなあ」
「うるさい、」
「おとうさんにいつも殺そうとされてなあ!」
「うるさい、黙れっ!」
「生きてる価値がないよなあ! もう死にたいよなあ! こんな痣つけて、」
突然、おじさんの腕が俺の喉を捕らえた。痛みが走る。さっき親父に絞められたばかりだ。痣にもなっているだろう。
「お前、どうして生きてるんだろうなあ!?」
刺された腕とは思えない力で、ぎゅうっと首を絞められる。視界が反転して、白黒になる。手をつかんで剥がそうとするけど、爪に力が入らない。
息ができない。苦しい。息が吸えない。吐けない。熱い。腫れる。脳みそがずきずき茹だる。
やばい。死ぬ。これは殺される。
力は緩まない。さらにぐいっと首が締まる。力がめりめりと骨にまで食いこむ。
くそっ。守らなきゃいけないのに。やっと来たチャンスだ。いや、それ以上に大切な幼なじみだ。
春夜。
秋陽。
俺が守らないと。俺しかいない。俺がやらないと。
振りはらえ。振りはらえ。血の臭いの手が喉をつぶす。こんな生ゴミみたいな手。振りはらえ。
そして目を開かないと、ふたりを守る前に、生きていく前に、俺が──……
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