ゼンマイジカケ-8

人間として

 喉にむかむかと重みがまとわりついて、その吐きそうな感覚に目が覚めた。
 まぶたが重い。うめいて身動きしたら、信じられない柔らかい感触が軆を包んでいることに気づいた。え、と目をこすって目を開くと、俺は白いベッドにふとんをかけられて寝ていた。
 慌てて起き上がって、喉の痛みに眉を顰める。何でこんな──そこまで思って、はっと思い出した。
 そうだ。春夜。秋陽。弓弦さんとの約束。部屋を見まわすと、どこかの一室のようだった。ホテルだろうか。ホテルなんて来たことがないから分からないけど。どうなったんだ、と狼狽えていると、「翼」と落ち着いた低音の声で呼ばれた。
 声のしたほうを見ると、テレビと向かい合ったソファに弓弦さんが座っていて、立ち上がっているのに気づいた。「あ」と一応声は出る。
 弓弦さんは俺のかたわらに来ると、苦しげな瞳で俺を見つめる。その中の俺は、痣や血痕でぼろぼろのままだ。
「ハルとアキが殺した」
 はっと顔を上げる。
 え。何。殺した?
「お前を殺そうとしてる背中を、ふたりで刺しまくったらしい」
「………、」
「お前を守りたかった、って」
 俺はぱっくりと目を開ける。春夜と秋陽──
「俺……」
「ごめん」
「えっ」
「俺のせいだ」
 弓弦さんは顔をうつむける。
 違う。そうじゃない。俺のせいだ。俺が、任せられた仕事に失敗したから──
「さ、紗月、さん……」
 俺が震えた声で言うと、「無事だった」と弓弦さんは答えた。それにはひどくほっとした。
「ほんとに、何か……事件とかではなかったんですか」
「ああ。借金を踏み倒せるなら、何でもやろうと思ったみたいだな」
「……今、紗月さんひとりですか」
「紗月の友達に来てもらってる」
「ゆ、弓弦さんがそばにいないと」
「お前のことも放っておけないだろ」
「俺なんかより、紗月さんじゃないですかっ。何か、拉致とか、よく分かんないけど、すげえ怖かったと思うし」
 弓弦さんは俺を見つめて、ちょっと困ったように咲った。俺は顔を伏せ、そのまま頭を下げた。
「すみません」
「翼──」
「俺が、弓弦さんに任された仕事、できなかったから。は……春夜と、秋陽には、会っていいですか?」
「……隣の部屋にいる」
「じゃあ、俺、ちょっと行ってきます。それから、帰ります」
「帰るって──」
「弓弦さんは、紗月さんのそばにいてあげてください」
 俺はベッドを降り、もう一度頭を下げた。
 涙が出そうになった。唇を噛んで息を殺した。情けなかった。顔を上げたら、一気に泣き出してしまいそうで、そのまま動けない。
 ふと、その頭に弓弦さんが手を置いた。
「ハルとアキに、聞いてる」
 俺は何とか涙が落ちないようにしながら、顔を上げる。
「もう帰るな」
「……え」
「そんな家、帰らなくていいんだ」
「……でも」
「仕事は面倒見てやるから」
 俺は眉を寄せて、うつむいた。それから、首を横に振った。
「もう、いいです」
「いいって」
「俺、やりたいと思った仕事、できなかったし。なのに、やりたくない仕事なんか、もっとできないに決まってます」
「……翼」
「チャンスをくれてありがとうございました。……なのに、できなくてすみませんでした」
 俺は弓弦さんの脇をすりぬけ、すれちがった。途端、涙があふれてきた。
 できそこない。木偶人形。俺はやっぱり、役立たずのがらくただ。そのへんにゴミみたい転がっておけばいい。死ぬまで死んでいればいい。俺には、生きていく価値も、資格も、理由もない──
「簡単に信用しないぜ」
 俺は足を止めた。ふうっと息を吐く音がして、煙草の匂いがした。
「とりあえずこき使うけど、まだ認めねえ」
 何……? 何を、言われて──
「まずは、ほんとにパシリだからな。俺だって、初めはそうだったんだ」
 その言葉の先が分かりかけて、肩がこらえきれずに震える。
「自分ができることを考えて、俺の信頼を勝ち取ってみろ」
 俺は振り返った。視界がゆがんでいて、弓弦さんの表情ははっきりと見取れない。でも、分かる。
 咲いかけてくれている。
「弓弦、さん──」
「それが次の仕事だ、翼」
 俺はその場にくずおれて泣き出していた。弓弦さんは俺の頭をくしゃくしゃにして、「紗月のとこ行かせてくれるんじゃないのかよ」と苦笑する。
 分かっている。分かっているけど。やっと、背中のぜんまいがきしんでいるのだ。巻いてもらったのだ。生まれたまま、ほったらかしにされていた心が動く。
 この人に尽くそう。絶対についていこう。どんなことがあっても信じよう。
 そんな誓いが灯って、俺の軆が冷たい人形から暖かい人形になっていく。
 生きていける。やっと俺は息をしていくのだ。この人のために、何だってやってやる。そのために生きていく。俺はもう、堂々と生きていっていいのだ。
 そう、ひとりの人間として、俺はやっと、自分の道を歩んでいける──。

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