空に手が届かないなら-4

 長いことそこでぼんやりとしていて、やがて日が暮れてきた。気づけばまた軆が汗を流したぶん、からからになっている。何か飲も、と立ち上がって、増えてきた人通りの中に自販機を探した。
 通りの向こうに自販機の並びを見つけて、人をよけてそこまで歩いた。何飲もうかなあ、とジュースやお茶やコーヒーを目でたどっていると、「琉羽くん」ととんと肩をたたかれた。
 振り返ると、緩やかな夕暮れの中で、瑶伊が相変わらず胡散臭くにこにこしていた。
「飲み物くらい、勝手に冷蔵庫の飲んでいいのに」
「いや、帰るから」
「早いね」
「そっちこそ」
「仕事早く終わったからね」
「……ふうん」
 俺は自販機に向き直り、炭酸オレンジを押した。がこっと缶が取り出し口に落ちてくる。腰をかがめて手のひらにひやりとしたそれを取り上げると、ため息をついてしまい、瑶伊がくすりと咲う。
「落ちこんでるね」
 俺は瑶伊を横目で見て、「紗依に話聞いた」とぷしゅっとタブを抜く。
「話」
「かごめのこと」
「何て?」
「ほんとだって」
「そっか」
「……何なんだよ。ありえないだろ、動機が」
「僕は動機知らないけど、そんなにすごい?」
「知らないのかよ」
「知らないね」
「……知らねえほうがいいよ。身内は」
 俺は缶に口をつけて、舌の上ではじける刺激をごくんと飲みこむ。
「俺、もう紗依に会いにくるのやめるわ」
「あきらめるの?」
「あいつには、俺は過去形みたいだしな。それを俺だけが引き延ばそうとしたって迷惑だろ」
「寂しくなるな」
「ゲイバーじゃなかったらまた飲もうぜ」
「はは。琉羽くんが良ければいつでも」
「紗依のことよろしく」
「大事にするよ」
 俺は缶を空っぽにすると、ゴミ箱に放りこんだ。「じゃあ」と俺は身を返して人波に混ざっていく。
 これで俺の初恋は終わったし、紗依の罪には知らないふりをするつもりだった。夏休みももうすぐ終わってしまう。二学期からはまじめに授業出るかな、とか思って、残りの日々だけは街をふらついて遊んでいた。
 ここのところはいつも瑶伊の部屋に直行していたから、俺が顔を出すと「久しぶり」と言ってくれる奴が多かった。
 その中の何人かに、俺は先月この街で人が死んだかを訊いてみた。「こんな街だから人はいつでも死んでるよ」と全員に言われたが、その話が耳に入ったらしい知らない男が、「先月は自殺騒ぎで騒々しかったよね」と言ってきた。俺はそいつを見て首をかたむける。
「自殺騒ぎ」
「そう。行方不明になってた男の子だったんだけど、えらい美少年だったらしいよおー」
 美少年。俺はカルピスを飲み、いやまさかな、と思った。思ったけど、気になったのでその美少年の自殺について、知っている店で軽く聞いてまわった。
 他人に無関心な街だが、実際騒ぎになったようで「ああ」とみんなうなずいて知っていることを教えてくれた。その美少年の名前を知ることができたとき、俺はさすがに固まってしまった。
 かごめ。それが、ビルを飛び降りて自殺した少年の名前だった。
 ──夏休みが終わる八月最後の日、俺はあともう一度だけと思って瑶伊の部屋に向かった。
 かごめのことを、みんな自殺だと話す。そういえば、瑶伊も一応自殺になっていると言っていた。だとしたら、本当に紗依はかごめを殺したのか? かごめの自殺を何かの理由で「殺した」と言っているだけではないのか? そんな猜疑心が錯綜して、考えるのに疲れた。
「よう」と現れた俺を出迎えた紗依は、「来たんだ」と驚きのない表情でちょっと笑った。
「瑶くんは夜まで帰らないと思うけど」
「紗依ともう一度話がしたくて」
「あたし」
「かごめのことで」
 俺がそう言うと、紗依は軽くあきれて息をつく。
「別にさ、琉羽が熱心に調べなくても──」
「紗依に嘘つかれたくないだけだよ」
「嘘なんかついてない」
「ほんとのこと話してくれたら、もう来ないから」
「だから、」
「かごめのこと、このへんではわりと騒ぎになったんだろ。で、訊いたらみんな、自殺だったって言うんだ」
 紗依は俺を見上げ、とりあえず部屋に招いた。俺は紗依に続いて、スニーカーを脱いで部屋に踏みこむ。ベッドサイドに腰かけると、紗依は冷蔵庫からグラスに麦茶をそそいた。
「別に──」
 冷房の風に、紗依の長い髪はなびいて脚に縺れている。
「ただ単に、自殺に見せかけただけだよ。かごめくんのことは、ほんとにあたしが殺したの」
 俺は紗依の壊れそうな背中を見つめ、口を開く。
「何のために、自殺に見せかけたんだよ」
「そんなの、ばれたら豚箱じゃない」
「じゃあ、みんな自殺って信じてるんだぜ」
「大成功だね」
「そうだな。なのに、それで何で、ここにかくまってもらってんのかが分からない。誰も紗依を疑ってないんだ。よく知りもしねえ野郎の部屋に引きこもる必要はないだろ」
 紗依は俺に歩み寄って、麦茶のグラスをさしだした。ガラス玉の瞳が少し揺れている。それを射抜くように見ていると、紗依は長いため息をついた。
「そこまで考えましたか」
「考えるよ」
「琉羽はあたしが好きなんだなあ」
「ほんとのこと知ったらあきらめる」
 俺はグラスを受け取り、冷たい麦茶を喉に流した。紗依は肩をすくめ、自分のグラスに口をつけながら隣に座る。
「『殺してほしい』って言われたの」
「え……」
「かごめくんに。だから殺した」
「かごめは自殺なんだろ」
「自殺だけど、自殺じゃない。かごめくんとビルの屋上にまで行って、あたしが突き落としてあげたの」
「それ……って、かごめに自分で死ぬ勇気がなかったから?」
「そう」
「そんなのっ──」
「かごめくん、死ぬしかなかったんだよ」
「勝手に死ねばいいだろっ。何で紗依を巻きこんだんだ」
「あたしが好きだって告白して、三日間一緒に過ごしたの。それは話したか。モーテルで缶詰。あたしはかごめくんに生きてほしかった。でも、あたしといてもかごめくんは咲うことすらなかった。咲わせたら生きてみるって言われたのに、何も助けてあげられなかったの。かごめくんは、それにかえって絶望した。だから、あたしに『殺してほしい』って」
 紗依はごくんと麦茶を飲み干し、空中にひと息つく。
「かごめくんは誘拐されたんだ」
「え」
「誘拐されて、閉じこめられて……たまに一緒に街に出たけど、部屋にいるあいだは脅されて犯されてたんだよ」
「……え、何──父親?」
「瑶くん」
「はっ?」
「かごめくんは、瑶くんに誘拐されてこの部屋にいたんだよ」
 どくん、と心臓が黒い血を吐いた気がした。
 瑶伊がかごめを誘拐した? いや、瑶伊はかごめは父親から逃げてきたと──
「嘘、だろ。だって、」
「あたしだってそうだよ」
「え?」
「あたしも瑶くんにさらわれてここにいるの。瑶くんはあたしを殺すつもりだよ。かごめくんを自殺させたあたしに、復讐する気。だからあたしはこの部屋にいるんだ」
「いるんだ……って、待てよ、わけ分かんねえ。え? 瑶伊……って、あの瑶伊?」
「そうだよ。あのゲス野郎」
「………、かごめはここに逃げてきたって」
「あいつのほうがよっぽど琉羽に嘘ついてると思うよ? 全部でたらめだよ」
「そんな──」
「そこまであいつを信じてた? 何を根拠に? あいつの何を知ってるか言える?」
 俺は紗依と至近距離で見つめあう。瑶伊の何を──何も、知らない。そうだ。俺は、瑶伊のことは瑶伊の口からしか知らない。
 俺は唇を噛んで視線を一瞬伏せてから、顔を上げると紗依に詰め寄った。
「じゃあ、逃げればいいじゃないか。今だって逃げられるだろ。縛られてるわけでもないし。ここにいたら──」
「殺されていいの」
「は?」
「殺されたら、死んだら、かごめくんが行ったところに行けるでしょ」
「ふざけんなっ。逃げよう。俺が一緒に、」
「やだ」
「死ぬんだぞ。死ぬって分かってんのか?」
「かごめくんにまた会えるってことだよ」
 紗依を見つめた。何、なんだよ。もう紗依は発狂しているのか? 死ぬつもりでおとなしく瑶伊に囚われているのか。そんなの──
 紗依は俺の頬を優しくたたいて、「早く帰んなよ」とグラスを奪った。
「そして、ここに来るのはほんとにやめな」
「……俺は、」
「琉羽は少しかごめくんに似てるから、危ないよ」
「紗依」
「琉羽は生きて」
 目頭がぎゅうっと絞られる。俺は耐えきれずに紗依の腕を引いて、床に転がったグラスも広がった麦茶を無視して、きつく抱きしめた。
 ちくしょう。このかぼそい軆と、俺は確かに愛し合ったはずなのに。行き違いで、もう、守ることもできない。
「紗依」
「うん」
「俺のこと、好きだった?」
「好きだった」
「今はかごめが好き?」
「うん」
「死んでも、殺しても、好きか」
「うん」
「………、分かった」
 紗依のこと。瑶伊のこと。かごめのこと。
 警察にでも駆けこめば、全部解決するのかもしれない。でも俺は、この真実を誰にも言わないと思う。どのみち紗依に俺は手が届かない。紗依もかごめに手が届かなかったけど、瑶伊にいつか殺されることで、死んでまでしてそばに行こうとしている。遠い空にまで手を伸ばそうとしている。
 終わった男の俺が、そこまでの覚悟を邪魔できるかよ。
 夏休み、通いつめた部屋を出て、焼けつく日射しの下を駅まで歩いた。
 明日からは普通の高校生になろう。そんなことを思った。悪ぶるのはやめて、大人になる。死んで空に行くのはごめんだ。俺は生きていくのだから。
 空に手が届かないなら、俺はこの気持ちを踏み潰して、下を向いて歩いていくよ。

 FIN

error: