憧れるよりも
翌朝起きると、美束からメールが来ていた。『また会えるよね?』と最後の一行に書いてあった。俺は寝ぼけ眼でそのメールを見つめて、すぐには返事せずに顔を洗ったり朝食を取ったりした。
また会う──けど。何かもう紗月さんと思うのはしんどいなあ、と感じた。美束がしんどいというわけではなくて、何というか、紗月さんのことを、もううじうじと考えたくないのだ。
『今日、少し紗月さんと会ってくる。』
食器を洗ったあと、俺はそんなメールを美束に送った。そして、上着を着こんで時刻を確認した。午前十一時。紗月さんはおそらく喫茶店にいるだろう。俺も今日は仕事をオフにしておいたので、時間の心配はない。よし、とドアを開けて冬の青が透ける空を見上げると、アスファルトを歩き出した。
紗月さんと何を話すのかはよく分からない。最後にする、と言いたいのかもしれない。宣言なんてしなくてもいいことかもしれないが、俺の中で区切りをつけたい。このまま紗月さんを想っていても何も実らないし、美束を励ますこともできない。美束のことを、代用にしたくないと思うのだ。美束が俺を代用にするのは構わないけど、俺は──
喫茶店のショウウィンドウから店内を見ると、紗月さんはやっぱり店内にいて、原稿用紙と向かい合っていた。次号の〔こもりうた〕に載せる小説を書いているのだろう。俺は深呼吸してから、店に入った。「いらっしゃいませ」とオーナーの美人のおねえさんが声をかけてきて、俺はそれに頭を下げると、紗月さんのかたわらまで歩み寄った。
気配を感じたのか紗月さんは顔を上げ、「あ、」と声をもらす。「こんにちは」と俺が頭を下げると、「こんにちは」と紗月さんは微笑んで、「久しぶりだね」と続けた。
「来ないほうがよかったかもしれないですけど」
「そんなことないよ。何か、話したい?」
「………、たぶん、話したい、です」
「じゃあ、どこか席に座ってて。僕、この席片づけて移動するから」
俺はこくんとして、カウンター沿いの席に座った。ウェイトレスにはホットカフェオレを注文し、おとなしく紗月さんを待っていると、荷物は元の席に置いたまま紗月さんが向かいの席にやってきた。きちんと向かい合って話すのは、〔こもりうた〕の制作中の相談のとき以来かもしれない。
「何かあったの?」
紗月さんは持ってきたミルクティーをひと口飲んでから、俺のことをうかがってきた。その声とか瞳とかが目の前に来ると、やっぱりどきどきしてしまう。
「俺……その」
「うん」
「ちゃんと、紗月さんをあきらめないと、って……思って」
「……うん」
「紗月さんをこと好きになっても、迷惑かけるだけで、申し訳なくて」
「迷惑、ではないけど。僕が断ってるせいだしね」
「どうしても、俺はダメなんですよね」
「そう、だね」
「弓弦さんしか、……無理なんですね」
紗月さんはしばしうつむいていたけれど、「桃李くんはゲイってことでたくさん偏見されて傷ついたよね」とふと切り出した。
「……はい」
「僕も、外にいた頃にゲイってことでひどいことをされたんだ。何をされたっていうのはいちいち言わなくていいと思うけど、ただ、ひどいこと。それから助けてくれたのが弓弦だった」
「弓弦、さん」
「だからね、極端な話、弓弦以外の人が怖いんだ。最近は友達とか持てるようになってきたし、こんなふうに〔こもりうた〕関係で人と話せるようにもなってきたけど。やっぱり、恋愛対象として見れるのは弓弦だけ」
「俺は、紗月さんを傷つけることはしないですよ……?」
「分かってるけど。やっぱり、弓弦じゃないと、触れられたりとかはできない」
「………、」
「ごめんね。桃李くんなら、ほんとに、もっといい人がいると思うんだ」
「……ひとり、」
「うん?」
「ひとり、気になってるのがいて」
「そうなの?」
「好きとかは分からないけど、ただ、一緒にいると楽しいんです。そいつと、紗月さんと弓弦さんみたいになれたらなあとか考えて」
「気持ちは伝えないの?」
「……そいつ、には、そいつで好きな人がいるから。そいつも、俺が好きなのは紗月さんと思ってるし」
「違う、って言えない?」
「自分でも分かんなくて。紗月さんのことが好きで、つきあえるならつきあいたくて。その状態で、そいつのことどう見たらいいのかな。二股とかは嫌だし」
「僕とのことは、その、言い方悪いけどありえないから、その人が好きでもいいんじゃないかな?」
「……いいんでしょうか」
「うん」
俺が小さく息を吐いたとき、「紗月」と声がかかって紗月さんは振り返った。俺も顔を上げると、弓弦さんが店に入ってきて近寄ってきていた。「弓弦」と紗月さんは嬉しそうな笑顔になって、やはりその表情は弓弦さんの前でしか出ないんだなあと思う。
「仕事、ひと息ついたの?」
「ああ。ここで飯食ったら帰って寝る」
「じゃあ、僕も一緒に帰るよ。ごはんのあいだ、まだもう少し、彼と話してるね」
「ん、分かった」
弓弦さんは紗月さんの頭を撫でて、俺には軽く会釈すると、紗月さんが作業をしていた席に行ってしまった。かっこいいよなあ、と改めて感じ、勝てないなと思う。それどころか、俺が躍起になるのは、紗月さんには過去をかきむしられることなのだ。
「紗月さん」
「うん?」
「俺、紗月さんのこと、もう期待はしないですけど」
「……うん」
「やっぱり、紗月さんのこと──」
そこまで言いかけたときだった。ばたばたと店内に誰かが駆けこんできて、「桃李!」と叫んだから、俺は驚いて入口に顔を向けた。そしてまばたきをしてしまう。そこにいたのは、急いで走ってきた様子の息切れする美束だった。
店内を見まわし、俺を見つけた美束は駆け寄ってきて、俺の腕を引っ張った。「おい、」と俺が焦った声で体勢を崩すと、美束はきっと紗月さんを見て「こいつは俺のだから!」と言い切った。紗月さんはきょとんと美束を見て、俺も美束が何を言ったのかに混乱して、沈黙ののちに、「おい」と弓弦さんがあきれた声で割って入ってくる。
「お前、何言って──」
「こいつは俺のなの! 弓弦と違って俺の話聞いてくれるし、デートもしてくれるんだぜ! だから弓弦はもうやめたの、言い寄ってもしょうがないし」
「美束、」と俺が言いかけると美束はこちらに向き直り、俺をまた引っ張って腕にしがみつく。
「なのに、何で紗月ちゃんと会うんだよ。何話してたんだよ。こんなのやめればいいじゃん、俺にしとけばいいじゃんっ」
「美束、俺、」
「お前が好きなのかなって気づいた途端、どうしてほかの男と会ってくるとかメールするんだよおっ……」
俺は泣き出しそうに咲ってしまい、美束を引き寄せて抱きしめた。紗月さんと弓弦さんは呆気に取られていて、「すみません」と俺が言うとはっとして、「その人が話してた人?」と紗月さんが問うてくる。
「まあ、はい。そうですね」
「そっか。よかった」
「何、紗月、俺よく分かんね」
「あとで説明するよ」
「紗月さん」
「ん?」
「俺、やっぱり紗月さんが憧れなんですよね。だから──これからは、紗月さんと弓弦さんを憧れにしていいですか」
「僕と弓弦……?」
「紗月さんと弓弦さんみたいに、こいつと幸せになりたいです」
紗月さんは睫毛をぱたぱたとさせてから、照れ咲いして、「桃李くんならなれるよ」と言った。俺はうなずいて、「これからは、何かあれば、こいつと話していきます」とたくさん話を聞いてくれた紗月さんに感謝をこめて残し、美束の手を引くと、カフェオレ代をはらって喫茶店を出た。
しばらく通りを歩いていると、「あーあ!」と背後をついてきていた美束が声を上げたので、俺は振り返る。
「くっそ、失恋したなー!」
美束は空を仰いで白い息をついたあと、俺を見てにっとする。
「とっくにしてんだけど」
「……うん」
「桃李も失恋したの?」
「ん。俺も吹っ切る」
「そっかー」
歩調が緩んで、「じゃあ」と美束は俺の手を握りなおす。
「ほんとに、つきあおっか」
「えっ」
「あっ、いや、桃李が嫌ならぜんぜん──」
「じゃなくて、え、つきあわないのか?」
「……だって、俺の片想いじゃない?」
「俺は美束のこと好きだよ」
美束が俺をまばたいて見つめ、「ノリで合わせてくれたんじゃないの?」と首をかたむける。
「ほんとに、弓弦と紗月ちゃんみたいに──」
「俺は、なりたいと思うよ」
俺がまっすぐ見つめると、美束は表情に喜びを満たして、「両想いだっ」と抱きついてきた。俺は咲ってその軆を受け止め、ぎゅっと美束を抱きしめる。冷え切った二月の空の下でも、こんなふうに好きな人と抱き合えば温かい。
紗月さんは、憧れの人だった。紗月さんと弓弦さんの絆の深さも、うらやましかった。それに立ち入れないのがずっともどかしかったけど、今、美束と抱きしめあって気づいた。
こいつとその絆と同じくらいの深いつながりを持てば、俺も幸せになれる。
だから、あの憧れた人のように。俺は美束と愛し愛されて、負けないぐらいにきつく結ばれよう。
FIN
