コンパスをつかんで-3

つながっていく

 六年前、僕の名字は『鈴城』ではなかった。父親も別の人だった。住んでいる場所もここではなかった。あの頃の僕は、無数の男からの蹂躙に絶望していた。修学旅行で訪れた街で、ついに耐えかねてホテルを逃げ出した。夜の街から人気のない住宅街に迷いこみ、危ないところを助けて、保護してくれたのが聖樹さんだった。
 保護とはいっても、警察には届け出ずに部屋にいさせてくれたのであって、当時十四歳だった僕をかくまっていたのは当然犯罪だ。それでも、聖樹さんは罪になっても僕を尊重したいと言ってくれた。昔、自分はそうしてもらえなかったから。居場所がない僕に「ここにいていいんだよ」と言ってくれた。無能力者の僕に、「帰らなくていいんだよ」と言ってくれた。
 そう言って抱きしめてくれた聖樹さんに、僕はどれだけ救われただろうか。でも、そのまま雲隠れしているのは、やっぱり犯罪だった。僕には、頭のおかしいおとうさんや陵辱してくる同級生のほうがよほど犯罪的でも、未成年はどうしても法に縛られていて、あんな行為から逃げる権利すらなかった。
 それでも、僕たちは本当の家族になるために闘った。聖樹さんが相談した自助団体が理解を示し、役所や家庭裁判所で強いパイプになってくれた。何度も何度も記憶をえぐり、これまでのことを人に話した。つらくて吐いてしまう日もあった。
 けれど、ついに報われ、五月に十五歳になる少し前、桜が舞う頃、僕は元の戸籍を除籍して聖樹さんの養子になり、悠紗にとっては歳の離れた義兄になった。今でも、半年に一度は手続きの更新をして、当時の知り合いに今の生活が絶対に明かされないように守られている。
 そのあと、現在住むこの町に引っ越してきて、通信制高校にも通うようになった。そこで千羽ちゃんと知りあった。千羽ちゃんが描く絵を通して、僕たちは自然と親しくなり、彼氏彼女としてつきあうようになった。
 そしてそのあと、悠紗の母親である女の人と失敗して恋愛を遠ざけていた聖樹さんも、商店街のソフトクリーム屋の娘さんである聖乃さんと交際を始めた。
 その頃、悠紗はXENONにくっついて全国をまわりはじめて、穏やかに時間は過ぎて、この町で生活できるのを僕たちはとても楽しく感じている。
「悠紗、芽留さんに会ったんだって」
 ぱたんとケータイを閉じた僕は、冷やし中華を平らげた沙霧に言った。「はっ?」と案の定沙霧は目を開く。
「芽留さんって、えっ、天海? 『ハンドメイド』の脚本家?」
「昨日のライヴ来てたらしくて、メアド交換したんだって」
「うわっ、悠……マジで何なんだよ。末恐ろしいな」
「あと、来月EPILEPSYだよね。みんな帰ってくる」
「あ、そうなのか? よかったじゃん」
「うん」と僕は笑みを噛んでしまう。悠紗はもちろん、XENONの四人に会えるのも嬉しい。
 僕のことは、聖樹さんたちが救ってくれた。そんな聖樹さんを救ったのは、XENONの四人だ。札つきで悪評しかなかった四人と友達になって、後ろ盾が何をするか分からないと、聖樹さんに手を出す人は高校生くらいでいなくなったそうだ。
「沙霧って、悠紗には話してみないの?」
「え、何を」
「カミングアウトというか」
「………、もう、同性愛の存在は知ってるだろうな」
「芽留さんと話したりしてるわけだし。ゲイだよね、この人」
「そうだよなあ。悠には時機見て言いたいし、兄貴にも知ってもらってていいかなと思う」
「おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「そこは、まだ無理。恋人ができたときは、紹介できたらいいけど」
「僕は沙霧に恋愛してほしいなって思うよ。そのネットの人でも、そうじゃなくても。沙霧のパートナーになれる人は幸せだよ」
「そ、そうか?」
「うん。だから、僕は──その人が信頼できるなら、前向きに考えていいと思う」
 沙霧は僕を見つめ、「そっか」と安堵のようなものを混ぜてうなずいた。「えらそうにごめん」と照れ笑いしてしまうと、沙霧は首を振って「ありがとう」と言った。
「向こうは会いたいって言ってくれてるわけだし、せめて、それにはちゃんと返事したいと思う」
 僕はこくんとして、残っている冷やし中華を食べた。ちょうど沙霧のケータイに着信がついて、「ちょっとメールする」と沙霧はケータイをいじる。そのうち僕も食事を終え、「出るか」とうながした沙霧にお勘定をしてもらい、「ごちそうさま」と伝えながらラーメン屋を出た。
 まだまだ軆に絡みつく空気はむっとしていて、すぐさま軆に汗が滲む。まだ夕方の買い物時ではなくて、わりと静かな商店街を駅まで歩きながら、「つきあうことになったら紹介してね」と僕は言った。沙霧は照れた様子で首肯し、「萌梨に聞いてもらえて、けっこうすっきりした」と背伸びをした。
 ゲイかあ、と思った。ハンドメイドの主人公のモデル。同性に性的虐待を受けたゲイ。きっと僕より傷口が入り組んでいる。どんな人なのだろう。悠紗が会ってみたいと言ったのは分かる気がする。僕もちょっと会ってみたいから。
 改札で沙霧と別れると、スーパーに立ち寄って夕食の材料を買いこんだ。夏休みの平日は、主に僕が夕食の献立を考える。
 昨日は赤羽太の煮つけだったから、今日は肉がいいだろうか。精肉コーナーに行くと、冷しゃぶをしっとり食べるコツというレシピが置いてあって、試してみようとレシピのプリントをもらって材料をかごに揃えていった。
 そして買い物ぶくろを提げて、やっぱり騒がしい蝉の声の中、直射日光のめまいに何度か立ち止まりながら帰宅した。
 食材はいったん冷蔵庫や戸棚にしまい、リビングにクーラーをかけると、フローリングに寝転がってクッションに頭を乗せて涼んだ。太陽に当てられた肌がちょっとひりひりする。
 ベランダに頭を向けると、レースカーテンを通して熱っぽい光がたたずんでいた。もう洗濯物取りこんでいいなあ、と思っても、まぶたに日射しが残像していてまだ休んでいたい。
 ようやく身を起こして洗濯物を取りこんだのは十六時前で、服やタオルはひなたの匂いでふんわりしていた。それをたたんでそれぞれの場所にしまうと、朝の食器も棚に片づけて、夕食の支度を始める。
 冷しゃぶはレシピを見ながら、いつもよりとろ火で、豚肉の色が変わるのをじっくり待って作った。けっこう時間をかけて肉が仕上がると、このまま常温で置いておく。わかめや豆腐を皿に盛って、あとは食べるときに乗せた肉にポン酢をかければ完成でも、これだけでは寂しい。きゅうりとトマト、揚げたナスをお酢で和えたサラダを冷蔵庫で冷やし、それと、たまご焼きを作っておろしを乗せて食べることにする。それともちろん、白いごはんと味噌汁。
 できあがった夕食に納得すると、のんびりとリビングでケータイを見ていた。聖樹さんは、残業がなければ二十時頃に帰宅する。今日もそれぐらいに帰ってきて、「おかえりなさい」と僕がケータイから顔を上げると、「ただいま」といつもの穏やかな瞳で微笑んでくれた。
 六年前に知り合ったとき、聖樹さんは眼鏡をかけていた。伊達眼鏡だった。人に瞳を覗かれるのが怖かったのだ。僕も似たような理由で昔は下ろした前髪が長かった。心を許した人の前では外せる眼鏡だったけど、外出するときは手放せなかった。でも、現在ようやく聖樹さんは、裸眼で過ごせるようになった。
 聖乃さんがそうしてくれたと聞いている。でも聖樹さんの仕事はIT関係でPCと向かい合うから、最近はPCをあつかうときだけ、ブルーライトカットの眼鏡をかけている。
「クーラー涼しい。暑かったね、今日も。ほんと外まわりの仕事してなくてよかった」
「はは。シャワー浴びてきてていいよ。ごはん用意しとく」
「ありがとう。あ、そういえば帰りの電車で悠のメールに気づいたんだけど。来月会えるね」
「うん、楽しみ。あ、芽留さんのことは?」
「『ハンドメイド』の脚本の人だよね」
「すごいよね、そんな人と話したって」
「あの子は友達作れるのかなあって心配だったけど、どんどん広がっていくね。昔、保育園行くのを泣いて嫌がってたのに」
「懐かしい」と笑ってしまうと、聖樹さんも笑って荷物を置く。
「そういえば、朝までジュースだったって書いてたけど、ほんとかなあ。要と葉月がそんな配慮してくれるとは思えないし」
「梨羽さんと紫苑さんがちゃんとしてくれてるよ。たぶん」
「だといいけど。はあ、悠も再来月には十二歳か。もう要たちにあれこれ吹きこまれてるのかなあ」
「何言われても、悠紗はギターが一番だから大丈夫だよ」
「そうだね。ふう、離れて暮らしてても心配は尽きないみたい」
 僕はまた笑って、「まあシャワーでさっぱりしておいでよ」と立ち上がった。聖樹さんはうなずいてネクタイを緩め、寝室から着替えを取って浴室に向かう。
 僕はサラダを冷蔵庫から取り出したり、大根をおろしたり、冷しゃぶを盛りつけたりした。ほんとにしっとりしてるかな、と肉を一枚食べてみたら、今までの冷しゃぶよりは柔らかい気がした。でもしっとりできているかは分からない。むずかしいな、と思いつつ、まずくはないのでリビングの座卓に持っていく。
 支度が済んだとき、ちょうど私服になった聖樹さんも戻ってきて、僕たちは腰をおろして「いただきます」と夕食を始めた。
「『ハンドメイド』にモデルがいたって話は、悠紗のメールに書いてた?」
 ほどよい酸味のサラダを食べながら僕が訊くと、「天海芽留くんの親友だっけ」と聖樹さんは味噌汁をすする。
「聖樹さんも言ってたよね、『ハンドメイド』初めて観たときに。モデルいるかもって」
「経験してるような生々しさがあったから」
「ほんとにいたんだね。すごいなあ」
「恋人もほんとにいるのかな。それは書いてなかった」
「あ、僕のメールにも。どうなんだろ」
「悠、モデルの人に会いたいって言ったみたいだけど、会ってもらえるかな」
「うん……」
 ポン酢をつけた冷しゃぶを口に運び、一枚もぐもぐと食べた僕は、聖樹さんには本音を言ってみることにする。
「僕も、会ってみたいなって思う」
「えっ」
「その、モデルの人」
 聖樹さんがこちらを見つめる。言いながら何だか僭越な気がして頬が染まった僕は、急いで言葉を継ぎ足す。
「話が合うかとかは、分からないけど。向こうも、僕なんて迷惑かもしれないし」
 僕の様子を見取って微笑んだ聖樹さんは、「そんなことないと思うよ」と味噌汁のお椀を置く。
「悠に言ってみたら?」
「えっ、いや、……いいのかな」
「いいと思うよ」
「でも、よく考えたらどんな人か知らないんだよね」
「『ハンドメイド』の主人公みたいな人なんじゃない? だったら、萌梨くんとタイプ似てるかも」
「そ、そうかな」
「うん」
 首をかしげる僕に聖樹さんはくすりとして、箸の先で裂いたたまご焼きを頬張って、噛んでから飲みこむ。
「悠が会ってみて、感じ良かったって言ったら会うのは?」
「あ、……それなら、うん。少し安心。いくつぐらいの人かな?」
「天海芽留くんがいくつだっけ」
「僕と同い年。二十歳だったと思う」
「じゃあ、その人も変わらないんじゃない?」
「そっか」
「萌梨くんの友達にもなってくれるかもしれないよ」
 僕は聖樹さんを見つめ、まばたきをしながら食卓を向いた。友達。無意識にXENONといるときの聖樹さんを思い出し、友達かあ、と何だかどきどきした。
 友達にはずっと憧れてきた。でも、今のところ、聖樹さんを通して以外で、そこまでつなぎとめられた人は僕にはいない。ゆいいつ、僕が自分で捕まえたのは千羽ちゃんだ。恋人がいるだけで、じゅうぶん贅沢なのかもしれないけれど。自分で見つけた友達ができたら、やっぱりすごく嬉しい。
「あ、えっと──じゃあ、聖樹さんは悠紗がその人に僕たちのこと話すのはOKなの?」
「僕はいいかなと思う。同じ経験がある人間は、その人にとっても救われるものがあるかもしれないしね」
「そう、だよね。僕も話していいから、あとで悠紗には僕が返信しておくね」
「僕も『萌梨くんから伝えてもらう』とは言っておく」
「うん。そういえば、今日昼間に沙霧に会ったよ。こっちまで来てくれて」
「ほんと? って、平日の昼間って。あの子、まだ就職しないのかな」
 いったん麦茶に口をつけて、聖樹さんは息をつく。
「やりたいことが見つかれば、けっこう頑張りそうだよ」
「そう、だね。見守ってあげないといけないけど、心配しちゃう」
「………、僕も、やりたいことって分かんない」
「萌梨くんも焦らなくていいんだよ。僕があれこれ杞憂言い出したら、止めていいから」
「ううん。心配してもらえるのは、嬉しいよ。でも、『大丈夫だから』って安心させてあげられないのが哀しい」
 聖樹さんは僕を見つめ、不意に物柔らかに笑むと、僕の頭をぽんぽんとした。「恥ずかしいよ」と僕が噴き出すと、「萌梨くんには好きな道に進んでほしい」と聖樹さんも咲って冷しゃぶをポン酢に浸す。
「僕の夢は、萌梨くんが自由に生きていくことだから」
「僕は聖樹さんにも、これからたくさん幸せになってほしい」
 僕と聖樹さんは、少しはにかんだ笑みを交わす。その願いは、僕たちにとってお互い様だ。
 それから僕と聖樹さんはゆったりと夕食を楽しんだ。昔から、聖樹さんと食べる食事は温かくておいしい。
 僕のやりたいこと。単純に言ってしまえば、それは彼女の千羽ちゃんを幸せにすることだけど。幸せにする手段は、まだ何も思いつかない。悠紗には音楽があって、芽留さんには脚本があって、じゃあ、例のモデルの人は今どんなふうに生きているのだろう。会って話したら、僕も見つかるものがあるかもしれない。
 早く悠紗にメールしたい。僕もその人に会ってみたいと。そう思うと、何だかわくわくする感じがした。

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