コンパスをつかんで-8

新しい出会い

 そう言い聞かせながら、十五分くらい待った。不意に玄関のドアが開く音がして、「どうぞー」という悠紗の声に「お邪魔します」と耳慣れないふたつの声が続いた。
 つい聖樹さんを見上げてしまった。聖樹さんは優しく微笑むと、「僕が出迎えるね」と玄関に行ってしまった。僕も、と言うべきなのだろうが、どこまで積極的がよくて、どこから引っこんでおいたほうがいいのか分からない。
「初めまして。息子も友人も、お世話になってるみたいで」
 聖樹さんの挨拶が聞こえて、「初めまして」とふたつの声が答える。
「えっとお……息子? 悠紗くんのパパですか?」
「そうです」
「えっ、すごい若い! おいくつですか」
「いや、もう三十ですよ」
「ええー、でも悠紗くんのパパって言われるとびっくり……」
「悠紗くん、大人びてるもんね。しっかりしてるし」
「外ではしっかりしてますか、この子」
 聖樹さんが笑いながら言うと、「はい」と返事がはずむようなころころした声から、落ち着いたややひかえめな声に移る。
「僕はいろんな人と話す機会があるんですけど、その中でも悠紗くんはすごく礼儀正しいです」
「そうですか。ほら悠、褒めてくれてるよ」
「あ、ありがとうございます。っていうか──そう、暑いからリビング行きましょう」
 そんな悠紗の声がして、足音が近づいてくる。心臓がいっぱいにふくれて脈打つ。でも、顔を伏せたままじゃダメだ。そう思った僕は、最後の深呼吸をしてから、ぱっと顔を上げた。
「あ……、」
 真っ先に、出逢った瞳があった。おとなしい、傷痕を秘めた、臆病な瞳。ぱっと見直すと、その瞳が勝気に見えたけど、やっぱり眉の描きがなだらかなせいか気弱に見える。
 そんな不思議な瞳も、僕の瞳を捕らえて、同時にまばたきをしてしまう。ついで、瞳を好奇心でくるくるさせる男の子も現れて、「おにーさん?」とその人は僕をしめして悠紗を向く。悠紗はこくんとして「萌梨くん」と僕を呼んだ。
 はっとした僕は、「あ、」とかどうでもいい声をこぼす。鍵をかけてきたらしい聖樹さんも来て、僕はもう一度、何か感じる瞳の人のほうを見る。「初めまして」とその人は軽く頭を下げた。僕も慌ててそうしてから、「えっと」と悠紗を見る。
「紗月さんだよ。萌梨くんは、紗月さんに会いたかったんだよね」
 僕はぎこちなくうなずき、言葉に迷ったのち、「来てくれてありがとうございます」と言った。紗月さんははにかんで微笑み、「僕は芽留のおまけです」と遠慮する。すると、芽留さんは「今回のおまけは僕だよー」とにっこりした。
 そしてふたりは、千羽ちゃんと聖乃さんにも挨拶した。「どっちがどっちの彼女さんですか?」と芽留さんはけっこうぐいぐい質問して、紗月さんはそんな芽留さんを見守っている。「芽留さんも昔は引きこもりだったんだよ」と僕のそばに来た悠紗は言う。
「そうなの?」
「カミングアウトしたいって言ったら、イジメになるからって教師に言われて、じゃあそんなとこ行かなくていいって両親が言ったんだって。いい両親だよねー」
「芽留くんの両親は、天海智生と春日かすが麻里香まりかだっけ?」
 聖樹さんが言うと、「知ってるの?」と悠紗がしばたく。
「子供のときにテレビで観た気がする。芸能ニュース特に観てたわけじゃないけど、それでも話題だったなあ」
「そうなんだ。で、芽留さんは脚本やりたいって夢も決まってたから、学校いらないやって引きこもりになってたんだって。何か、俺と似てるでしょ」
「そうだね。すごい。あ、紗月さんは今はどんなふうに暮らしてるの?」
「紗月さんは、恋人と暮らしてるんですよね」
 芽留さんの背後にいた紗月さんは、こちらを向いて「うん」と肯定する。芽留さんは女の子ふたりの目の高さにしゃがんで、にこにこと話をしている。「僕は」と紗月さんはやや躊躇ってから、切り出した。
「十四歳のときに家は飛び出したんです」
「えっ」と思わず声を上げると、きょとんとされて、僕は頬を染めてうつむく。「萌梨くんと同じだね」と聖樹さんが僕の驚きを察してくれる。
「同じ?」
「僕も、家を飛び出したのって十四歳のときで」
「えっ。あ、そっか。悠紗くんが修学旅行のときとは言ってましたけど」
「中学の修学旅行です。その……僕も、そういうことをされてて。親も、何かダメだったから」
「そうなんですか。何か、思ってた以上に似てるのかな」
「かもしれない……です」
 僕は紗月さんを見て、紗月さんも僕を見る。すると、自然と笑みが綻んできた。何だろう。この人となら、もっとたくさん話せそうだ。ううん、話してみたい。
 僕が安心したと見取れたのか、「飲み物は僕が用意するから」と聖樹さんは僕の肩をぽんとしてくれる。僕は「ありがとう」と言って、紗月さんに腰を下ろすのを勧めた。悠紗は芽留さんのほうに行き、同じく「座ってください」と言っている。みんな落ち着いていく中で僕も床に座りながら、紗月さんの華奢な腕や細い軆を見て、映画より儚げな人だなあと思う。
「『ハンドメイド』、何度も観たんですけど、ほんとの話だって」
「違う設定もあるんですけど、ベースはそうです」
「紗月さんの恋人も、先輩みたいな感じなんですか?」
「あ、それは──僕が言うとおかしくても、もっとかっこいいです。あ、呼び方は紗月くんとかでいいですよ」
「紗月、くん。……えと、かっこいいんですか」
「僕が言ってものろけかな。会ったら分かると思います。彼も来たがってたんですけど、仕事で生活がめまぐるしい人で。何というか、堅気ではないので」
「はあ。紗月くんは働いてるんですか?」
「僕はぜんぜん。完全に恋人に食べさせてもらってます」
「悠紗が小説とか言ってた気が」
「あれは──何て言ったらいいのかな。小説は、書いてます。自分で話を考えるんじゃなくて、小説にしてほしいって手紙をくれた人の体験なんです」
「体験」
 僕がまばたきをすると、紗月くんはうなずく。
「僕は、恋人──弓弦っていうんですけど、彼に会うまでどんなにつらくてもそのどろどろを話せる人がいなかったんです。苦しいとき、何でも話せる相手がいるのってすごいなって弓弦に出逢って感じて。でも、そんなに信頼できる相手って、簡単に見つかるものじゃないとも思うんです」
「そう、ですね」
「だから、吐きたくても吐く相手がいない人のために、僕が手紙を読んで、客観的な小説にして、読者に聞いてもらうっていう。それで、少しでも楽になってもらう手伝い、みたいな」
「すごい。全国から来るんですか?」
「まさか。僕が暮らしてる街限定です。あの地域でしか知られてないし、知られなくていいと思ってます。僕が今暮らしてる街は、つらいことがあって、行く宛てもない人たちが流れつく街で。弓弦の仕事もそうだし、正直治安とか悪いんですけど、居場所になってくれるんです」
 紗月くんの話を聞いていると、自分がとても幸運だったことを感じた。僕が出逢ったのは聖樹さんで、逃げこんだのは優しい家庭だった。しかし紗月くんがたどりついたのは、僕には想像もつかない危ない環境だった。
 同時に、そんな環境だからこそ恋人の弓弦さんがかけがえがなくて、強く結ばれているのが伝わってきた。『ハンドメイド』では、主人公と先輩はラスト近くで肉体的につながる。紗月くんも弓弦さんと関係はあるそうだ。でもやっぱり、混乱したり、吐いたり、うまくできないときもある。
 飲み物とお菓子を持ってきたあと、僕の隣に座っていた聖樹さんは、昔、悠紗の母親と行為でひどい気分になっていたから、紗月くんが話した「できない」苦しみがよく分かるようだった。僕も自分のことを話して、聖樹さんも少し話した。「今はすごく幸せな親子に見えますよ」と紗月くんは聖樹さんと僕に微笑んでくれて、僕は何だか改めて聖樹さんの息子になれたことが嬉しくなった。
 やっと飲み物に手をつけはじめながら、芽留さんとも話した。紗月くん同様、「芽留くんでいいですよー」と言われつつ、僕は現在千羽ちゃんと同じ通信制高校に行っていると話した。すると、「僕の幼なじみも通信行ってましたよー」と芽留くんはクッキーをぱくぱくと食べる。「もう卒業されたんですか?」と訊くと、「サボってるまま、華麗に退学しそうなところです」と芽留くんはひとり静かにうなずいた。そして、通信制高校に通い続けることはむずかしい中、こつこつ卒業に向かっている僕と千羽ちゃんは、すごいと言ってくれた。
「みんな自由に生きてていいなあ」と聖乃さんが肩をすくめると、「きよ姉も自由じゃん」と悠紗が言う。「自営業と自由業は違うの」と聖乃さんが神妙に言い返すと、「自営業?」と芽留くんが首をかしげ、「きよ姉んちはソフトクリーム屋なんですよ」と悠紗が解説する。すると、「何それ、食べにいく!」と甘いものが好きらしい芽留くんが食らいつき、みんな笑ってしまった。
 そんなふうに過ごしていると夕方になっていた。「明日はXENONのライヴだー!」と芽留くんが腕を掲げ、「チケ取れました?」と悠紗が心配すると、サイトで取り置きできたそうだ。
「萌梨くんたちも来るんですか?」と紗月くんが訊いてきて、みんなうなずく中、「私は親の実家に帰省するので」と千羽ちゃんだけは来れないようだ。「何か疎外感」と千羽ちゃんがふてくされると、「また萌くんと行きなよ」と聖乃さんが千羽ちゃんの頭を撫でていた。
 かくして、明日もほとんどこの面々で会えるので、紗月くんと芽留くんは市内のビジネスホテルに向かうことになった。時刻は十八時で、ふたりは再び悠紗の案内で駅前のパーキングに向かうことになる。
「お邪魔しました」と紗月くんは頭を下げ、「楽しかったですー」と芽留くんは屈託なく咲う。千羽ちゃんと聖乃さんも一緒に帰るそうだ。「帰る前にソフトクリーム!」と芽留くんはしっかり言っていた。
 わいわいとみんなが去っていくと、急に家の中は静かになり、僕と聖樹さんは顔を合わせた。
「楽しかった?」
 聖樹さんが訊いてきて、僕は充実を噛みしめてうなずく。
「紗月くん、優しい人だった」
「実際の話のほうがすごかったね」
「映画はまだ観やすいようにされてたんだね」
「恋人の子にも会ってみたかったね。弓弦くんだっけ」
「いつか機会あるといいね」
「今度は、萌梨くんが紗月くんのところに行ってみる?」
「えっ、行っていいのかな」
「土地柄は危険そうだけど。悠がそこに滞在してるときとか」
「そっか。行けるなら行ってみたい。紗月くんの小説も読んでみたい」
「配布はその街に限定してるんだっけ。広く知られてもいいと思うけど、頼られすぎて紗月くんの負担になったら大変だもんね」
 僕はうなずき、それでもすごいなあ、と思った。僕も聖樹さんに出逢って人に寄りかかれる温かさを初めて知った。でも、そんな自分のようにできない人がいる、なんて考えもしなかった。自分に寄りかかってもらうことは、少しは考えられるけど──聖樹さんとか、千羽ちゃんとか。
 紗月くんはけして、自分に寄りかかってもらっているわけではない。寄りかかる木陰を提供しているだけだ。紗月くん自身に寄りかかっているのは、弓弦さんだけなのだろう。紗月くんの特別はあくまで弓弦さんひとりで、八方美人に人のはけ口になっているわけではない。それがすごいと思った。
 紗月くんはそれで収入を得ているわけではなく、生活の面倒は弓弦さんに見てもらっていると語っていた。しかし、食べていくのと同じくらい、小説を書くことで自分を生かしている。やりたいことを実行していて、僕はそれが何よりうらやましいと思った。
 紗月くんだけじゃない。芽留くんも。話で聞いた弓弦さんも。みんな、しっかりやりたいことを見据え、光に向かって生きている。
 僕にはそれがない。高校卒業がせいぜいの目標で、その先は何もない。僕はまた迷って、暗闇に取りこまれたりしないだろうか?

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