見守られながら
聖樹さんと鶏肉のソテーやポテトサラダといった夕食を作りながら、そんな不安にぼんやりしそうになった。「少し疲れた?」と聖樹さんに心配されて首を横に振っていると、「ただいまー」と悠紗が帰ってきた。「おかえり」と聖樹さんと声を揃えると、「何か来てたよー」と悠紗がはがきをさしだしてくる。
僕が受け取ったその宛名は手書きで、聖樹さんと僕宛てになっている。裏返すと、『暑中お見舞い申し上げます』──僕の手元を覗きこんだ聖樹さんが、「あ、今年も来たんだ」と言ったので顔を上げた。
「これ──」
「憶えてない? 花丘さんだよ」
「………、あっ、施設の?」
「そう。毎年くれてるんだよ、年賀状と暑中見舞い」
僕はもう一度はがきに目を落とした。印刷の暑中見舞いだけど、短く手書きの文章がある。
『もうじき六年でしょうか。鈴城さんの元で、萌梨くんもきっと立派な青年に育ったでしょう。変わらずに素晴らしいご家族であることを祈っております。』
六年。そう、もう六年も前になる──
僕のことを、養子として、本物の家族として、迎え入れようとしたとき、聖樹さんは警察にも役所にも行かなかった。一番にそんなところに行ったら、たぶん説明も聞いてもらえずに僕は強制帰宅させられ、聖樹さんも誘拐罪で捕まっていた。
僕のことを知ったおじいちゃんとおばあちゃんも、聖樹さんとそう考え、まずは児童養護施設と連携しているあまり大きくないけど、信頼できそうな自助グループを探し出した。聖樹さんはそことコンタクトを取り、自分の過去を打ち明け、それから家にかくまっている僕を正式に引き取りたいことを伝えた。
初めは当然、実の両親と和解させるほうが僕のためではないかと言われた。一度帰宅した聖樹さんは、僕に訊いた──『鈴城』になって家族にならないかと。僕は叶うなら家族になりたいと答えた。
今度は、僕も話合いの席にいた。児童養護施設の部屋のひとつで、庭では子供たちがにぎやかに遊んでいた。うまく混じれず、隅っこにいるような子もいた。「まずはおとうさんとおかあさんに、鈴城さんに話せたみたいに話してみないかな?」と言われた。僕はこみあげてくる吐き気をこらえて、真冬なのに脂汗を感じながら、震えそうな息に揺れそうな声で言った。
「お、おかあさんは、……男の人と出ていったから、もう、いません」
膝の上で手を握った。肩が震えている。聖樹さんが僕のこぶしをそっと包んでくれた。
「おとうさん、は」
まばたきが増え、でもそれでもはらいきれずに涙がこみあげ、頬をすべっていった。舌がひりひりするほど塩辛かった。
「おかあさんがいなくなってからは、僕で、……全部、する、……から」
心臓が腫れあがっておののく嗚咽がこぼれた。「萌梨くん」と聖樹さんがすぐ僕の肩を抱いてくれて、それでも僕は一瞬にして脳内によみがえった父親からの行為に、泣き出してしまった。「大丈夫」と聖樹さんは僕の背中をさすってくれながら、「だから、この子を親御さんの元には返したくありません」と相手の人に言った。
僕の反応に茫然としていたその人は、聖樹さんの言葉にはっとして、ゆっくり息を吐いて「分かりました」と言った。そして丁重に僕の名前を呼んだ。
「ごめんなさいね、萌梨くん。分かったわ、あなたがとてもつらい想いをしてきたって、私はもう分かった。考えなくていいよ。家に帰らなきゃなんて、二度と考えなくていいのよ」
聖樹さんの腕に支えられてがくがくと震えながらも、その人を見た。四十前後だろうか。おかあさんがまだ家にいたら、そのくらいの歳の女の人だった。僕の瞳を受け、その人はつらそうだったものの、精一杯咲ってくれた。
「一緒に、鈴城さんにおとうさんになってもらえるように頑張りましょう。私もそれが一番だと思う。おばさん、ひどいこと言ってしまってごめんなさいね。協力する。約束する。あなたがもう傷つかなくていいように、私は、何でもやるって決めたわ」
その人が、花丘さんだった。花丘さんは僕の許可を取ってから、その場で施設の上層部に僕のことを相談した。職員の人は、すぐ僕の住んでいた街の児童養護施設に確認を取った。修学旅行ですがたを消した僕は、知らなかったけど、少しマスコミに取り上げられたりしたらしく、身元はあっさり確認された。
僕は聖樹さんと一緒に街に戻り、改めて、自分を受けてきたことを話した。思い出し、言葉に換え、口にする。それの繰り返しなのだけど、手首を切るよりつらかった。頭の中がむごい光景に切り刻まれ、締めつめられる心は麻痺寸前で、何度も汚物や胃液を吐く。
隣にいてくれる聖樹さんだけが救いだった。違う。もう違う。僕には聖樹さんがいる。帰らなくていいとも言われた。話して、理解さえ得られたら、やっと悪夢は終わる。つらいけど、苦しいけど、きっと分かってもらえる──……
気づくと施設の人も泣いていて、「思い出させてごめんね」と僕の頭を撫でてくれた。
僕は緊急保護というかたちで数日間施設にいたけど、聖樹さんも一緒にその施設に寝泊まりしていてくれたから、多少は落ち着いていた。そのあいだに、僕のことは初めて警察や役所に伝えられた。そのときに、聖樹さんを逮捕するとか父親に引き渡すとか、法に則るのは間違いだと花丘さんも施設の職員さんも強調してくれた。
そんな訴えにいい顔はされなかったけど、実際に僕に対面し、限界になりながら記憶を語るさまと接した人は、ほとんど理解をしめした。それだけぼろぼろに見えたのかもしれない。
父親から引き離し、できれば、聖樹さんの姓に入る。みんな尽力してくれた。病院にも行った。裁判所にも行った。どこに行っても、痛ましい記憶を息を切らしながら打ち明けなくてはならなかった。
どれだけ話した? いつこの自傷行為は終わる? もう思い出したくない。朦朧としてきて、いくら話しても話しても果てがなかった。ちゃんと進んでいるのか分からない。本当に僕の話なんて生きてくる? 結局聖樹さんとは引き離されるんじゃないか? そして、おとうさんがいるあの家に閉じこめられ、学校で辱められ、自殺だけが望みになって……
ゆらゆらする意識で、混濁状態になりつつあった。不安定になる一方で、わけもなくわっと泣き出したりする。
つらい。やっぱり分かってくれないんだ。誰も僕の味方なんてしてくれない。聖樹さんと家族になれるなんて、都合がよすぎる。嫌だ。話したくない。また話せと言われたら、今度こそ何も言わずに、その夜に死んでしまおう。
そこまで思い至っていたとき、光は不意に舞いこんだ。僕は裁判所の小さな個室にいた。目の前に座るおじさんに、捺印がされたその用紙を渡された。
『鈴城聖樹戸籍入籍により除籍』
僕はまばたきをして、指先が震えるのを感じた。どんどん、大袈裟なくらいに手が震えてきた。
「よかったですね。本当に、よく頑張りましたよ」
おじさんが感慨深くそう言って、僕はつくえに伏せて泣き出してしまった。「萌梨くん」と廊下で待っていた聖樹さんが入ってきて、「無事終わりましたよ」というおじさんの言葉に、聖樹さんも涙をこらえられなくなって、それでも僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
ああ、やっと。やっとここが、僕の帰る居場所になった。あんな人たちとはもう関わらなくていい。ようやく見つけた優しい人たちのそばにいていい。
終わった。僕の悪夢は、終わったんだ──
「萌梨くん?」
聖樹さんの声がして、はっと僕は我に返った。暑中見舞いのはがきに見入ったまま、止まってしまっていた。僕は聖樹さんに笑みを作り、「大丈夫」と言ってからはがきを見直した。
「ちゃんと、挨拶したいな」
ぽつりと言うと、聖樹さんは首をかたむけてから、「花丘さん?」と確かめてくる。僕はうなずいた。
「あのときお世話になった人、みんなって言ってたらキリがないけど。一番最初にあの人が『もう傷つかないように約束する』って頑張ってくれたから、そのあとのことも全部あったんだし」
「……うん。そうだね。僕も言えるならお礼伝えたい」
「暑中お見舞いくれるってことは、気にかけてくれてるのかもしれないし」
「そうだろうね。じゃあ、お盆のあいだは僕も仕事休みだし、行ってみる?」
「いいの?」
「萌梨くんがそうしたいと思ったなら、そうしていいんだよ。悪いことでもないんだから」
「うん。ありがとう。ちょっと恥ずかしいね。すごく泣いたりしたから」
「今度はいっぱい咲って見せないとね。念のため、連絡入れてみるよ」
僕がうなずいたとき、「腹減ったよお」と悠紗がキッチンにやってきた。そのタイミングは、何気ないようでいて見計らってくれたのだろう。「はいはい」と聖樹さんはソテーにかける玉葱のソースが沸騰しているので火を止め、常温にしておいた鳥のモモ肉をパックから取り出す。僕はその隣で、ポテトサラダに使うじゃがいもの皮を剥くことにする。
その前に悠紗にはがきを預け、リビングに置いておくように頼んだ。「はあい」と悠紗ははがきを受け取って、目を通し、「もう俺は小学校終わるんだもんなあ」と言ってリビングに引き返す。「悠紗の制服すがたって想像つかないね」なんて言ってみると、聖樹さんは「確かに」と噴き出し、「みんな同じ服装とか嫌じゃんっ」と悠紗はふくれっ面になる。
あの頃、僕は絶望的にひとりぼっちだった。なのに今、こんなに温かい家族がいる。まだ何かを成しているわけではなくても、確かに進んでいる。何かをすることになったとき、報告を聞いてくれる人はゆっくり増えている。
僕には家族がいて、恋人がいて、これからきっと、紗月くんや芽留くんが友達になってくれる。そう思うと、とても心強かった。
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