ちゃんと自分で
パパが気紛れにくれるお金は、五百円のときもあれば、一万円のときもある。定期的にもらえるものでなく、本当に気が向いたときに渡されるから、お札は何枚か貯金している。
ただ、そういうお金をくれる代わりに、日用品や洋服は自分で買いに行かされるようになった。その日もシャンプーやボディソープを買うためにドラッグストアをうろうろしたあと、顔を出そうと思って喫茶店に向かった。
〈POOL〉という街の東にある喫茶店で、部屋からはだいぶ遠いのだけど、ひとりで外出できるようになってからは、あたしはここをよく訪ねている。
「あら、毬音ちゃん。いらっしゃい」
クーラーがよく効いた店内にあたしが現れると、オーナーのミキさんが微笑んで出迎えてくれる。すごく美人で、初めは緊張する。けれど、気さくに対応してくれるので、だいぶ気を許せるようになった。
「ん、毬音?」
カウンター席に一番近い、いつものテーブルには、弓弦と紗月さんのすがたがあった。ぞっとしそうに秀麗な容姿をした弓弦は、以前パパの仕事を切りまわしていた周旋屋で、現在二十二歳。ほっそりしていても男の人である紗月さんはその恋人で、ちょうど二十歳だったと思う。
「毬音ちゃん、こんにちは」
紗月さんも振り向いてそう言ってくれて、「こんにちは」とあたしは返す。
「何かあったか?」
まず心配する弓弦に、「何にもないよ。買い物のついで」とあたしは答えたあと、荷物は足元に置いてカウンターの席によじのぼる。メニューを開くと、デザートページの冷菓を吟味して、オレンジシャーベットをミキさんに注文した。
紗月さんは今日も原稿用紙を広げて、書き物をしている。〔こもりうた〕の原稿だろう。あたしは以前、字を書くことも読むこともできなかったのだけど、紗月さんが丁寧に教えてくれた。
ずうっと前は、弓弦の陰でびくびくしている人だなぐらいに思っていたけど、今のあたしは紗月さんに懐いているほうだと思う。
あたしにお冷やが運ばれてくるのを眺めていた弓弦が、「水鳥が引退して三ヵ月か」とふとつぶやく。水鳥、というのはパパの源氏名だ。
「いまだに問い合わせがあるんだよなあ、あいつ」
「問い合わせがあったらどうするの?」
ひとまずお冷やで熱気にあてられた軆を冷ましつつ、あたしがそう訊くと、「飛んだわけじゃないから」と弓弦は肩をすくめる。
「今の店を教えるけど、くれぐれも本番は会員になってからって釘を刺すのが大変だな」
「どうせ会員にさせて本番やるなら、男娼続ければよかったのに」
「あいつ、プロ意識は強かったからな。体力とかいろいろ感じたんじゃね」
「……ふうん」
パパのプロ意識はあたしも感じていたけど、そもそも売春という仕事をそこまで誇れること自体が分からない。
「あいつ、毬音とはうまくいってるのか」
「別に。普通」
「お前らの普通って、物騒だからな……」
ぼやいた弓弦にあたしはちょっとだけ咲って、「こないだ、一緒に光樹くんのライヴに行った」と言った。
「幼なじみの奴?」
「うん。ライヴはときどき行く。ひとりで行くときもある」
「ひとりで彩雪まで行くのか?」
「行くよ」
「まあ、夕町からここまでも来てるもんな。水鳥より行動範囲広くなってないか?」
「分かんない。でも、パパはこの店には来ないよね」
「だな。外層寄りだし。毬音は、そういう……外の空気とか気にならないのか」
「パパほどではないと思う」
「水鳥の嫌悪の仕方はすごいもんな」と弓弦は苦笑する。
弓弦があたしと話しているので、紗月さんは作業に入っている。紗月さんが手持ち無沙汰にしていたら、もちろんあたしは引っこんでおくけど、遠慮しなくてよさそうなので、そのまま弓弦と話した。
あたしのオレンジシャーベットが来たら、弓弦はさりげなく話題を切り上げて、紗月さんに向き直る。あたしは冷えた銀のスプーンでシャーベットをすくい、ほどよい酸味の混じった甘味を口にふくむ。舌から胃、そして軆がひんやりするのを感じつつ、横目で弓弦と紗月さんのテーブルを盗み見る。
弓弦は作業する紗月さんを優しく見守っていたけど、その視線に紗月さんが顔を上げると、「順調?」と尋ねる。「ちょっと、どう表現するかむずかしい」と紗月さんが答えると、「すらすら書けてるように見えるけどなー」と弓弦は首をかしげる。
「とりあえず書いて、あとで直すから」
そう言う紗月さんに、「そういうのは、やっぱPCでやったほうがよくね」と弓弦はコーヒーを飲む。
「そうだけど、買うなら自分で買うよ」
「えー、俺が買ってあげたらダメなのか」
「弓弦、平気で高いの買ってきちゃうもん。僕は文章の作業ができればいいから」
「でも、普通に部屋にPCは一台欲しくないか」
「それは──あってもいいかもしれないけど」
「今度、電気屋行くか」
「僕のは自分で買うからね」
「はいはい」
弓弦はくすくす咲うと、紗月さんの頭をぽんとする。それにはにかんで咲ってから、紗月さんは再び原稿に目を落とした。弓弦は原稿の中身は見ていないようだけど、紗月さんのことを愛おしそうに見つめる。
あたしはいがみあうパパとママしか見たことがなくて、弓弦と紗月さんが慈しむように互いを想っているのを見るのは、初めは不思議な感じだった。
あたしはいつか、あの部屋を捨てて自分の温かい家庭を持ちたいと思っている。そんなのってできるのかなと不安になるときもある。でも、弓弦と紗月さんを見ると、そういう絆は本当にあるんだなと勝手に安堵することができた。
温かい家庭を持って、あたしの話を聞いてくれる人に出逢いたい。そういう人が、今はいないわけではない。弓弦や紗月さんもそうだし、このふたりを通して知り合った人もいるし、ミキさんだってあたしを受け入れてくれている。
少なくともあたしはもうひとりぼっちではなくなった。ひとりで部屋にこもって、イカれた赤い落書きを続けている子供ではなくなった。
その赤い落書きは、五歳くらいまでやっていた。パパがゆいいつ、あたしにきちんと買い与えた落書き帳とクレヨン。あたしはほぼ赤いクレヨンしか使わなかった。黒のクレヨンで、白い紙に人のかたちを取る。ジンジャーマンクッキーみたいに。そのあと、赤いクレヨンで人型を傷つけ続ける。頭を、喉を、お腹を、腕も脚も全身、赤いクレヨンで塗りつぶす。
たまに、人型には少しだけ描き足されるところもあった。左胸に鳥のシルエット。それはパパのタトゥー。頭から茶色のウェーブ。それはママの髪。
あたしは、パパのこともママのことも、何度も何度も赤いクレヨンで殺した。でも、ママがいなくなって、外を歩きまわるようになって、人と話すようにもなって、いつのまにかあの憎しみをぶつける落書きはしなくなった。
──八月が終わって九月になっても、日中はまだまだ蒸し暑い。日が落ちるのは早くなって、深夜から早朝にかけては少し涼しくなった。
外が暗くなってカーテンを引いたあたしは、そろそろ夕食でも食べようと、インスタントの焼きそばに沸かしたお湯を入れた。ちなみにパパは今日はオフで、部屋の中で寝ている。起こさないように、それには気をつけながら、あたしは香ばしいソース焼きそばを黙々と食べた。
そのあと、シャワーを浴びてほかほかになって、髪をタオルで包んで部屋に戻ると、パパがふとんを起き上がって電話をしていた。あたしに気づくと、「あー、戻ってきた」とパパは言って、「ん」とあたしにケータイをさしだす。「何」とあたしが眉を寄せると、「光樹」と言われたので、おとなしく受け取ってケータイを耳に当てた。
「光樹くん?」
一応確認すると、『毬音ちゃん?』と確かに光樹くんの声が返ってくる。
「どうしたの」
『今、ちょっと話せる?』
「うん」
『よかった。実はね、今度XENONがこっちでライヴあるらしいんだ』
「え、光樹くんも出るの?」
『僕たちは出ないけど、行こうかなと思ってて。で、毬音ちゃん、一緒に来ない?』
「あたし? パパじゃなくて?」
『碧織には、僕たち出ないなら興味ないって言われた』
「ああ……」
『毬音ちゃんは、興味あるかなと思って。ほら、悠紗くんも来るし』
「悠紗、ってあの男の子?」
『そうそう。碧織がいないなら、それはそれで話しやすいでしょ』
察している様子でくすりと咲った光樹くんに、確かに、とあたしはあくびをするパパを盗み見る。
『もし毬音ちゃん来るなら、チケ二枚取り置き頼んでおくから』
「分かった。行く」
『お金ある? ないなら僕が出すよ』
「ないことはない」
『そっか。じゃあ、チケ代は二千円でドリンク五百円ね。まあドリンク代はおごるから、二千円持っておいで』
「うん」
『今度の土曜日、十三日だったかな。夕方くらいに、僕が部屋まで迎えに行く』
「いいの? ひとりでもそっち行けるよ?」
『僕から誘ったんだから、迎えに行くよ。じゃあ、週末に』
「うん。ありがとう」
勝手に電話を切っていいのか分からなかったので、「パパに戻すね」と言ってケータイをパパに返した。パパはケータイを耳に当て、「世話させてごめんね」とか言っている。
先月のXENONのライヴを思い出し、あのギターの男の子も思い出した。あの子もあたしを気にかけていてくれたのだっけ。話してみたかったな、とはあのときあたしも思ったものの、何を話せばいいのだろう。とりあえず、ギターすごいねとは言えるけど。
電話を切ったパパは、まだ眠たそうに頭を掻きむしってから、あたしをじろりとした。あたしがそれに、ふてぶてしいと言われそうな目を返すと、パパは「妊娠はまだやめろよな」と言って、ばさっとふとんをかぶった。
妊娠。あたしはむすっとして、どうして何でもそういう下品なことに結びつけるのかな、と内心でぶつぶつする。しかし、無論声には出さず、ドライヤーを手にした。
次の日、パパが出勤したあと、あたしの洋服ケースにしまっているお金から、ライヴに持っていくお金を用意しておいた。二千円とは言われたけれど、ドリンクをお代わりしたいときのために、財布には三千円入れておく。
そわそわしそうなのをパパの手前こらえて過ごし、土曜日の十六時半くらい、光樹くんがあたしを迎えにきた。パパはちょうど三十分前に出勤していったところだ。「碧織、風俗続いてるね」と光樹くんは言って、「会員にさせて、同じことしてるみたいだよ」とあたしは留守になる部屋のドアに鍵をかける。
「でも、ただの会員じゃないでしょ」
「そうなの?」
「VIP会員とかじゃないのかな」
「分かんないけど、してるときはあるみたい」
「太客だったなら、VIP会員になるなんて楽勝なのかな。僕もそのへんの仕組みはよく分かんないや」
「光樹くんは、そういうお店には行かないの?」
「え、いや……彼女いないのが続いたら、まあ、うん。友達とかと」
「ふうん……」
「常連になるほど、はまったことはないよ」
「そっか」とあたしがこくりとすると、「自分で白状してて恥ずかしい……」と光樹くんは恥じ入るように手で顔をおおった。「普通だと思うよ」とあたしが言うと、「そうかなあ」と光樹くんは息をついて、階段を降りはじめる。あたしはそれに続く。
「パパは、ぜんぜん女の人買ったりしないみたい」
「碧織はねえ。確かにゲイではないと思うんだけど、男になじんだとか言ってるからなー」
「いつか、男と結婚するのかな」
「結婚というか、金持ちの愛人とかに落ち着きそうだよね」
「そうなったら、あたし、どうなるのかな」
「旦那次第だよね。旦那が連れてくるなって言ったら、一緒には暮らさないんじゃないかな。生活費くれるだけになるとか」
「……じゃあ、そっちのほうがいい」
「毬音ちゃん、十歳だっけ」
「うん」
「できる仕事あるかなあ。淫売は嫌なんだっけ」
「したくない」
「いい職場が見つかれば、この街なら十歳にもなれば働けると思うんだけど」
そうなのか。それなら、あたしは働きたい。パパのお金で生きていく生活なんか、なるべく早く抜け出したい。ライヴだって、自分で稼いだお金で行きたいし。
光樹くんにそれを言うと、「もうすぐだよ」と頭を撫でられた。あたしはうなずきながらも、働く宛てなんて何も浮かばない自分に、ほんとにいつか働けるのかな、とわずかに未来を案じた。
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