つながった先で
陽桜を歩く綺麗な女に気軽に声をかけると、娼婦だったりしてぼったくられることもある。
けれど、彩雪ではそういう危険は少し減少する。だから、悠紗のライヴを観るために、少しずつ垢抜けながら彩雪を歩くあたしは、男から声をかけられたりした。あたしは邪慳に無視して通り過ぎるけれど、しつこい男もいる。
パパにナンパをされたらどうするのかを訊いたら、「僕に気安く声かける男いないから」と謎の自慢をされた。深読みすれば、あたしがまだ乳臭いと言いたいのだろうが。
でも、いつのまにか、あたしはもう十三歳になっていた。外の世界では、中学一年生になるだろうか。
昔、パパに学校に行きたいかと訊かれたことがある。まともに暮らしたいなら学校は行っておけと。ただし、よその子になれとも言われた。
パパと縁が切れるのはどうだっていいけど、外の世界で迎えてくれる家庭があるとも思えなかった。娼婦にはなりたくない。でも、そろそろ仕事はしないといけない。
どうしたらいいのかな、とぼんやり考えながら、悠紗と出逢って三年目の夏、あたしはこの日も、彩雪に来ている彼に会いに行っていた。
腰までの栗色のストレートをなびかせて、夕焼けが緩やかにネオンに移ろう中を歩く。今日も暑い。まとわりつく熱気に皮膚が息づまって、水分が絞り取られていく。気だるい大気は、重力があるみたいにどっと軆にのしかかってくる。
ライヴハウス着いたら何かドリンク飲まなきゃ、と思ってると、ふと「ねえねえ」と声がして肩に手を置かれた。あたしはぱっと反射的にそれを振りはらい、きっと一瞥だけくれる。
「一万円でいい?」
ずんぐりした中年男は真っ先にそう言って、あたしは眉を寄せた。無視して立ち去ろうとしたら、「ねえ、話聞いてよ」と手首をつかまれて、嫌悪感にぞわっと虫唾が走る。
「一万円だよ? 一万円出すよ」
あたしは売りの相場なんかよく知らないけど、一万円がかなりナメているのは分かる。というか、一万円で何なのかをこいつは明言しないから、ますます怪しい。
「あたし、今から用事あるんで」
「えー、すぐだから。ほんのちょっと」
「……悪いけど、」
「君みたいのが一万円なんて、すごいんだよ?」
あたしは舌打ちした。確かにあたしは、パパみたいな上質な色香はまとっていないけど……
「今から彼氏と会うから、彼と話つける?」
「え」
「それなら勝手にすれば。見逃してあげようとしたあたしと違って、彼はとっととあんたを殴ると思うけどね」
完全なはったりだったけど、堂々と言うから男がすくんだときだった。「毬音!」と突然背後から名前を呼ばれたから、どきりとした顔を見せそうになったけど、それは抑えて振り返る。すると、そこにはXENONの四人と一緒にいる悠紗がいた。
悠紗はXENONに何か言ってから、すぐこちらに駆け寄ってきた。ギターを背負った彼は男をじろじろとして、それからあたしの男につかまれた手首に気づき、「彼女に触んないでくれる?」と切れるよりも静かに言った。
男は何か言い返そうとしたものの、悠紗はもちろん、冷ややかにこちらにガンをつけているXENONも気になるようで手を離した。あたしはぱっと手を引っこめて、触られていたところが気持ち悪くて露骨に舌打ちする。
「彼女に何しようとしたの?」
悠紗に訊かれると、「何でもいいだろっ。くそっ」と男は吐き捨ててきびすを返そうとした。が、悠紗はそいつの腕をがしっとつかんで、慇懃無礼ににっこりとしてみせる。
「俺の大事な女の子に、ふざけた真似はしないほうがいいよ」
「っ……」
「二度と近づかないでね? どうせ、一億用意したって足りないんだから」
「っ、分かったっ。離せ、このっ……」
この、のあとが続かないまま、男は悠紗に腕を放されると、早足で人波に混じっていった。
あたしは悠紗を見て、大事な女の子、という言葉を思い返してどきどきしそうになる。悠紗はあたしを覗きこむと、「大丈夫?」と男につかまれた手首に優しく触れた。
「あ、……うん」
「ちゃんと、彼氏役できてたかな」
「え」
「いや、これから彼氏と会うとか言ってたし」
聞こえていたのか。というか──あたしははっと悠紗を見て、「あれはぜんぜん、そう言っただけだから」と慌てて釈明した。あたしに彼氏がいるなんて、そんな勘違いはされたくない。
「そうなの?」
「そうだよっ。いるわけないじゃん」
「でも──」
「いないよ、彼氏なんて。ほんとに」
悠紗の澄んだ黒い瞳はあたしをじっと見つめ、「そっか」とほっとしたように微笑んだ。
「じゃあ、俺、まだ頑張ってもいいんだね」
「えっ」
「毬音の彼氏になれるように」
悠紗を見上げる。あたしの、彼氏に──。次第に、動揺が視線に現れて、どぎまぎしながらあたしはまばたきをする。
「あたしの……彼氏になってくれるの?」
「なりたいと思ってるよ」
「そ、そうなんだ」
「毬音に振られるまで、俺、彼女作らないし」
「振る……なんて、しないよ」
今度は悠紗がまばたきをして、「じゃあ、今、告ったらいけるの?」と問うてくる。今、悠紗に告白されたら。あたしはぎこちなくうなずき、「断らないよ」とも言い添えた。悠紗はなおもまっすぐあたしの瞳を見つめ、「じゃあ」と口を開く。
「俺とつきあってくれる?」
あたしも悠紗を見つめ返し、頬に微熱を覚えながら、こくりとした。途端、悠紗はぱあっと明るい笑顔になって、あたしの肩をぐいっと抱きしめた。悠紗の体温と匂いが触れて、心臓がどくんと大きく脈打つ。
「今度から、変な声かけられたら俺を呼んでよね」
「……どうやって」
「ケータイまだ?」
「まだ」
「マジか……。俺は持ったんだけどね」
「前から持ってなかった?」
「あれはXENONの奴。俺個人の奴は今年の初めに持ったよ」
「じゃあ、あたしも持ったら一番に教える」
「うん。俺の連絡先、渡しておくね。あ、紙がないや。ちょっともらってくる」
軆を離した悠紗は、こちらを観察していたXENONの元に戻り、何やら要さんと葉月さんに頭をくしゃくしゃにされたり、肩をたたかれたりしている。ノートの切れ端とペンは、紫苑さんが渡していた。悠紗はそれにさらさらと書きこむ。
あたしの元に戻ると、「ん」とメモを渡してきた。電話番号とメールアドレス。「ありがと」とあたしは受け取ると、大事に財布にしまった。
「毬音、今夜のライヴ来てくれるの?」
「うん。この近くだよね」
「そう。ちょっとコンビニ行ってたんだ。一緒に戻ろうか」
「一緒にいいの?」
「彼女は特別ー」
そう言って悠紗はにっとして、彼女、の語にあたしは気恥ずかしくなりつつもうなずいた。そんなわけで、あたしたちはXENONの四人に追いついて、今夜のライヴハウスに向かった。
「今日は喫茶店行けなかったね、ごめん」
「ううん。余裕ないかもって手紙にも書いてたし」
「今、夏だから冷たいデザートおいしいのかなあ」
「桃とかマンゴーだよ。桃のトライフルとかおいしい」
「食べたかったなー。次こっち来るのは九月だし、終わってるよなあ」
「あ、悠は来月誕生日だよね」
「そお。十四歳かあ」
「もう働いてるのと同じだからすごいよね」
「真っ当な人生は投げてると思うけど」
「あたしも働きたいな。こないだ、パパにもちょっとそのことで当たられたし」
「何かされたの?」
「口喧嘩だよ。殴るまではされなかった」
「そっか……ならよかった」
「まあ、あたしなんか殴られても仕方ないんだけどね」
そう苦笑いすると、悠紗はむうっと頬をふくらませてから、あたしの頬を軽くつねってきた。
「『あたしなんか』って言っちゃダメ」
「え」
「『なんか』じゃないよ、毬音は。もっと自分を大切にしなさい」
「……大切に、してもらえないのに」
「だからー、それは今日から俺が大事にするの!」
あたしは悠紗を見た。それから、「うん」とうなずくみたいにうつむいた。
自分を大切にする──か。もしそうするなら、あたしが真っ先にやらなくてはならないことは決まっている。
「悠」
「ん?」
「あたし、家を出なきゃ無理だと思う」
「え」
「あの家を出ないと、自分を大切にするなんて分かんないよ」
「………、」
「だから……働かないといけないよね」
「……うん」
「何の仕事ができるのかなあ。雇ってくれるところって、どうやって見つかるんだろう」
「十三歳だよね」
「うん」
「普通は中学生だもんなあ」
「そのへん、この街はルールはないけど。親があんなだから、あたし、職業って売りしか知らないんだよね」
「それはしないで」
「うん」
「仕事かあ。あ、あの人ってそのへん詳しいんじゃないの?」
「あの人」
「紗月さんの恋人の──弓弦さん、だっけ」
「あー……」とあたしは声をもらす。
弓弦。確かに。何といっても、あいつは周旋屋だ。紹介料はいるかもしれないけど、そのぶん、希望にかなった仕事は紹介してくれる気がする。
それに、弓弦はだいぶん昔から、あたしとパパと引き離したいと思っている人でもある。
「悠」
「ん」
「あたし、子供の頃に家出したことあってね。真似事みたいなもんだけど」
「うん」
「そのとき、弓弦に保護されたの。で、パパとママと暮らすのがつらかったら、面倒見てくれる別の場所を見つけてやるって言ってくれた」
「じゃあ、仕事したいって言えば、聞いてくれそうじゃん」
「そうだよね。訊いてみようかな」
そんな話をしていると、ライヴハウスの前に到着していた。階段を降りて、地下一階にあったライヴハウスはカウンターとホールが別になっていて、いつもより広い印象があった。
XENONのメンバーは楽屋に向かったけど、悠紗はホールであたしと立ち話をしてくれた。「変な仕事は、マジでしないでよね」と悠紗に釘を刺されて、あたしは苦笑しながら了承した。
XENONのライヴで悠紗を見守って過ごした夜の後日、あたしは〈POOL〉に向かって弓弦を訪ねた。いなかったらミキさんに伝言していこうと思ったけれど、夕方まで粘ったら、これから紗月さんとの部屋に帰るという弓弦に会うことができた。
「もうこんな時間だぞ」と言われて、「弓弦に相談があったから」と答えると、弓弦は意外そうにまじろいてから、いつものテーブルをしめしてくれた。
「お前が俺を頼るなんてめずらしいな」
「そうかな」
「水鳥みたいに嫌ってるとは思ってないけど」
「パパは、豹さんのことで弓弦に嫉妬してるんだよ」
「今は水鳥と豹さん、たまに食事してるみたいだけどなあ」
「………、パパは豹さんと結婚したいのかな」
「あのふたりのことは、俺にはよく分からないけど──特別な感じはあるよな」
豹さん、というのはパパの保護者というか後見人というか、そんな感じの人だ。無論、実の父親ではない。そして、パパがかわいがっていないあたしのことを、豹さんもあまりよく思っていない様子だった。
弓弦にはアイスコーヒー、あたしにはアイスティーが運ばれてくる。あたしはシロップもミルクも入れて、ストローで混ぜてからころと氷を響かせた。
「こないだね」
「ん」
「パパと喧嘩になったの」
「喧嘩」
「あたし、もうお金を化粧品とかにも使うから。そういうのは、自分で稼ぐか盗むかしろって」
「……そう、か。まあ──あいつにしては、親らしい理由かもしれないな」
「うん──。あたしも、働きたいとは思ってる。十三歳になったし、この歳にはパパは働いてたんでしょ」
「そうだな」
「だけど、あたし売りはしたくない。だとしたら、何ができるのかな。自分では分かんないから、弓弦なら分かるかなって」
「仕事紹介してほしいって話?」
「お金は持ってきた。足りないかもしれないけど」
弓弦はちょっと咲って、「仕事がないって言ってる奴から、即金で取ることはしないけど」とアイスコーヒーをひと口飲む。
「堅気の仕事がしたいのか? 売りじゃなくても、裏稼業はいろいあるぜ」
あたしはいったん視線を下げ、悠紗を想うと、「できれば堅気のほうがいい」とつぶやいた。
「そしたらやっぱり、学校に行ってなきゃいけないのかな」
「そんなことはないけど。堅気の仕事か。街の外まで働きには出れるか?」
「それ、は……」
「この街でもすぐ受け入れてくれるのは、個人の飲食とかかな。外とつながりもあるチェーン店だと、年齢が引っかかるかも」
やはり、この街であろうと、堅気の仕事に十三歳はネックなのか。しかし、無収入で十六歳を待っていたら、パパがまた頻繁に切れるようになるかもしれない。あたしがみすぼらしく、お金は生活以外に使わなかったらいいのだけど──それは、嫌だ。
「毬音ちゃん、今の生活は昼夜反転してないの?」
ふと、カウンターのほうからそんなミキさんの声がして、あたしは振り返ると「今は夜に寝てますけど……」と首をかたむけた。「じゃあ、二十二時からっていうのは大変ね」と肩をすくめたミキさんに、「今、ここのスタッフは足りてるんじゃないですか?」と弓弦が言ったので、その意味にあたしはつい顔を上げる。
「今はね。深夜勤に、九月いっぱいで辞める子がひとりいるのよ。ホールもキッチンも任せてる子だったから、抜けるのは痛いんだけど」
「そうなんですか。じゃあ、毬音がここに入ったら助かる感じですか?」
「そうね。毬音ちゃんなら、このお店の空気も知ってるから。まずキッチンに入ってもらって、十六歳になったらホールも任せるようらしたらいいかしらって思ったんだけど」
弓弦とミキさんのやりとりをまばたきしながら見つめていたけど、「どうだ?」と弓弦に訊かれて、あたしは考える必要もなく「働きたい」と応じた。部屋からは遠くても、〈POOL〉ならあたしも安心だ。昼夜反転に戻るのも問題ない。
「よし」と弓弦はうなずくと、「じゃあ、この先はミキさんに面接してもらえ」とアイスコーヒーを飲み干した。
そんなわけで、弓弦が帰ったあと〈POOL〉のバックヤードに招かれたあたしは、軽くミキさんに面接をしてもらって、即採用となった。十月からの勤務だけど、とにかく働き口が決まったのはほっとした。これで、貯金のペースも上がるし、パパとの部屋も出ていけるかもしれない。
悠紗に報告したいな、と思った。こちらから連絡する手段がないのがもどかしい。次会ったら真っ先に言おう。〈POOL〉の勤務なら、悠紗もきっと理解してくれる。
早く会いたいな、なんて思いながらあたしは帰途に着いて、きらきら降ってくるネオンの下、熱帯夜でも変わらない人混みの合間を揚々と縫っていった。
【第九章へ】
