殻を破るために
こんな家庭をバカにできる、温かい家庭を持ちたい。
子供の頃からそう夢見て、強く願ってきた。けど、実現できるのかなと幼いあたしは赤いクレヨンを握りしめていた。
暴力をまきちらす男娼のパパ。わがままで男ったらしな娼婦のママ。ふたりに模した人型を、赤いクレヨンで塗りたくる。
「どうせお前も、軆売って生きていくようになるさ」
パパにそう言われて、あたしはそれを睨み返していた。虚勢だったけど、「うん、そうだよね」なんて絶対に従いたくなかった。
やがてあたしにできた男のことは、パパには言わなかった。バンドをやりたい男の子なんて、パパは──もういなくなっていたママだって、皮肉に嗤って、ろくでもない男をつかんだと言うだろうと思ったから。
けれど、悠紗はそんな男の子じゃない。パパだって、ゆいいつの親友はバンドマンの光樹くんだ。そして、悠紗は光樹くんのことだって超えるような男だ。
──悠紗のセックスは、わりと激しくて獣みたいだ。意地悪をするとか、妙なS気質があるわけではない。むしろ、迷子だった子供が見つけた母親にしがみついて泣き出すような、必死に求める感じがする。
「それって、俺がマザコンみたいじゃん」
終わったあとは優しい。同じふとんにくるまって、あたしの髪や顔を撫でて、何度もキスをしてくれる。それは、絶頂を迎えたあとの蕩けそうな痺れをゆったり癒してくれる。
普段はギターを抱く悠紗の腕の中で、あたしが彼のセックスのことを言うと、悠紗は噴き出してそう答えた。悠紗の母親は、彼を捨てた。それは知っているので、「言い方悪くてごめん」と謝ると、悠紗は首を横に振り、あたしを抱きしめる。
一月になったばかりの真冬だった。常夜燈だけの暗い部屋。エアコンがあるのはリビングだから、ベッドを置いた寝室は冷える。それをなぐさめるように、あたしたちはふとんの中の熱の名残に甘えている。
「まあ、あんま優しくないのは自覚してるけど」
悠紗はそう言って、いつもは後ろで束ねている長髪をさらりと流す。
「優しいのしたい?」
「……ううん。あたししか知らない悠で嬉しい」
「はは。そうだな、マジで毬音しか知らないよ」
あたしも咲って、悠紗の胸板にしがみついた。気持ちよく張りつめていた軆の芯が、ほどよい疲れにほぐれていく。あったかい、と感じながら、あたしの意識はゆらゆら揺れはじめる。
「眠いね」
あたしの揺蕩う睫毛を見たのか、悠紗もあくびをした。あたしがこくんとすると、「寝よっか」と悠紗はオレンジ色の常夜燈も消す。
「おやすみ、毬音」
あたしは目を閉じてしまったまま、「おやすみ」と半分寝ぼけて答えた。
悠紗の心音が聴こえる。あたしの愛する人が生きてくれている音。すき、と思って、でもそれを口にする前に、あたしは眠りに溶けていた。
翌朝、目を覚ますと、あたしはふとんの中にひとりで丸くなっていた。無意識に悠紗の名前をつぶやくと、「ん、起きた?」とくしゃっと頭を撫でられる。
あたしは目をこすって、声のしたほうに首を捻じった。まばゆい朝陽に目を細めてしまう。
悠紗は隣で身を起こし、何やらスマホをいじっていた。
あたしも軆を起こした。ふたりとも、昨日の夜のまま服は着ていない。毛布をたぐりよせて頭にかぶると、「俺も」と悠紗も毛布の中に入ってくる。
「何か来たの?」
「とうさんからね。来週、休み取れたこと言ってなかった」
「ああ……帰るんだよね」
「EPILEPSYもあるしなー」
あたしが悠紗にくっついて体温をもらうと、悠紗もあたしを抱き寄せる。悠紗の腕に、あたしの焦げ茶の髪が絡みつく。
悠紗のロックバンド、enfant terribleは彼が二十歳のときにメジャーデビューした。結成して二年ぐらいでのデビューだ。だいぶんのスピードに感じるけど、メンバーはみんな幼い頃から音楽をやってきたから、驚異的にその音楽は熟練されている。
悠紗は今、二十四歳で、デビューも四年前になるけれど、同期デビューのバンドの中で貫禄が違う。ただ、そういうアンバランス的なイメージがついてきたので、「逆に十年後に後悔する若さはじける曲も作りたい」とかバンドメンバーと話しているときもある。「その曲、迷走って言われそう」と偶然それを聞いていたあたしがぽつりと述べると、メンバー全員、変な顔をした。
ヴォーカルの夏椰くんとドラムスの漣くんは幼なじみで、Bazillusという大物バンドのそばで育った。子供の頃から、メジャーデビューを見据えてしごかれてきたそうだ。ちなみに、Bazillusのほうは今や世界的に有名なバンドに成長している。
ベースの初生くんは、fetiageというバンドのギターである春海さんの弟だ。ベースに限らず、いろいろな楽器に触れることが多かった。fetiageは、ヴォーカルの聖衣さんの心身不良で活動休止期間が長く、さらに多いのだけど、憑りつかれたような信者はいるインディーズバンドだ。
そして、ギターである悠紗は、インディーズ界で絶大な支持を誇るXENONのメンバーに鍛えられてきた。悠紗のおとうさんが、XENONメンバーと友人だったおかげだ。XENONのメンバーは、あたしも会ったことがあるけれど、あの人たちは良くも悪くも変人だと思う。
XENONは、普段は全国各地の小さいライヴハウスを飛びまわっている。大規模なライヴハウスには、ほとんど出ない。十三日の金曜日には地元に帰ってきて、EPILEPSYという三日間のワンマンイベントを開催する。長い活動歴で、EPILEPSYを開催できなかった場合もあるようだけど、活動休止したことはないので、ほぼ確実に会えるイベントではある。
悠紗も子供の頃からよく参戦していたイベントだ。自分のバンド活動が始まってからも、ときに顔を出している。悠紗はその地元を離れ、あたしとアパートに暮らしていたけど、去年一緒にマンションに引っ越した。セキュリティ面を考慮したのだけど、相変わらず、天鈴町という治安の良くない場所ではある。
あたしはこの天鈴町で生まれ育ち、二十三歳になった。汚水のようなこの町で育ったあたしは、消毒された街の外に出るのが怖い。悠紗もそれを分かって、一応芸能人になったのに、この街に住むのを続けることにしてくれている。
来週末は金曜日が十三日なので、悠紗は帰郷も兼ねてEPILEPSYに参戦する予定なのだ。でも、わざわざオフを取ってまで参戦することは、ちょっとめずらしい。たとえ、お正月の時期でもあるとしても。マネージャーさんにも、渋い顔をされたと悠紗は語っていた。
「悠」
「ん?」
「訊きたかったんだけど」
「うん」
「今回地元に帰るの、EPILEPSY以外に理由がある?」
毛布の中で、悠紗はあたしに顔を向けると、なぜか嬉しそうに咲った。そして、「毬音は俺が好きだなー」なんて言う。急に言われると恥ずかしくて、間違いないくせに「何、いきなり」とあたしは仏頂面を作ってしまう。
「俺をよく見てるから」
あたしはまだ悠紗をじろりとしたあと、息をついてから、「理由があるんだね」と改めて確かめた。
「そう。妹のことで」
「妹?」
「とうさんと、そのこと話したいかなって」
「悠の兄弟は、おにいさんだけじゃなかった? 萌梨さん……だっけ」
「そだね」
「どういうこと?」
「妹、もういないから」
「えっ」
「死んだ。殺された」
あたしが動揺したまばたきをすると、悠紗はベッドスタンドにスマホを置いて、あたしと向き合った。
「あのさ、毬音も来ない?」
「え」
「俺の実家」
「えっ……で、でも」
「街の外だけど、俺がそばにいるから」
あたしがうつむくと、悠紗はあたしの手を取って握りしめた。
「俺の家族に会ってほしいんだ」
「……あたし、なんか……反対されるよ」
「え、何で?」
「あたしは、……外の人たちとは違うし。ダメだよ……」
「萌梨くんは会ったことあるじゃん。そんな感じだった?」
「そうじゃないけど……」
「毬音なら大丈夫だよ」
「軆売ってた人たちの子供だよ?」
「毬音は、もう親とは関係ない」
「………」
「今の毬音は、enfant terribleのギタリスト、鈴城悠紗の恋人だよ」
あたしは目を開き、悠紗の黒い瞳を見た。その瞳がとても優しいから、思わず泣きそうになる。
「それじゃ、毬音の自信にはならない?」
あたしは、ぶんぶんとかぶりを振った。その拍子に、ぽろぽろと涙が落ちてしまう。悠紗の指が、その涙をすくい、ぬぐってくれる。
「……自慢、だよ」
「うん」
「悠紗が恋人なのは、あたしの一番の自慢」
「うん」
「あたしで、よければ──会ってもらえるなら」
悠紗はにっこりして、「とっくに、みんな『会いたい』って言ってるよ」と言った。あたしはうなずき、悠紗の手を握り返す。「へへ」と悠紗は照れたみたいに咲って、朝の光の中で、恋人つなぎを遊ぶように揺らした。
そんなわけで、ついにあたしも一緒に、悠紗の実家にお邪魔することになった。あたしはその日のうちに、職場のオーナーである実樹さんに一週間のオフを相談してみた。急だから通るかなあと心配したけど、一緒に話を聞いていた妹分の結音が、「あたしが代わりにお店手伝うならいいよねっ?」と挙手をしてくれた。
「そしたら、ついでに翼もついてくるし!」
結音が自慢げに笑うと、「はあ?」と翼くんは露骨に聞いていないという顔をした。が、彼のボスである弓弦さえ敵わない人物である実樹さんの手前、「すみません」と表情は正す。
結音は、天鈴町の顔役の周旋屋である弓弦の娘だ。出逢ったときは五歳だったのに、もう十二歳にもなってびっくりする。そして、結音の身の安全を弓弦に任され、いつも隣にいる翼くんは十六歳になった。
いくつになってもしっとり美しい実樹さんは、翼くんの謝罪にくすりとしたあと、「いいわよ、結音ちゃんが手伝ってくれるなら」とあたしに言ってくれた。
「結音ちゃんは、ときどきキッチンを手伝ってくれてるから。安心していってらっしゃい」
「え、普通に翼も使おうよ、実樹さん」
「翼くんには、翼くんのお仕事があるでしょう?」
「あたしについてきてるだけじゃん」
「あら、そうかしら」
「……少なくとも、ついていってるだけではないですね」
「結音、あんまりわがまま言ってると、そろそろ弓弦も翼くんを自分の仕事に使うようになるよ」
あたしの言葉に、結音はぱちぱちとまばたきをしたあと、「むー」と観念したように首をすくめた。現金な姫君に、翼くんはため息をついたあと、あたしを見る。
「毬音さん、外に行くこと自体は大丈夫なんですか」
翼くん、そして結音も、あたし同様にこの町で生まれ育った。街の外に対する恐怖感や嫌悪感は分かってくれる。
「ちょっと、出てみないと分からない」
「悠ちゃんも一緒なら大丈夫だよっ。あたしも、紗月くんとなら芽留さんちとか行けるもん」
「そっか、結音はわりと外にも行ってるね」
「最初は怖かったけど、そのときは紗月くんが手を握ってくれてたの。だから、悠ちゃんが『そばにいる』って言ってくれたのは大正解だよ」
紗月さんというのは、弓弦のパートナーだ。男同士のふたりのあいだに結音がいる理由は、何かと事情があるらしい。
「ていうか、悠ちゃんかっこいいなー。『そばにいる』とかさらっと言っちゃうんだもんなー」
黙って必ずそばにいる翼くんも、なかなかに渋いと思うけど。その良さは、まだ結音にはなかなか通じないようだ。
「ネットでチケット予約できたから、初めて新幹線に乗るんだけど、あれって本当に酔うの?」
「酔う人もいるよねー」
「結音は、電車で人の多さで酔ってたって言ってました」
「え、電車くらい余裕だよ」
「紗月さんが言ってたんだよ。まだお前が、五歳とかそのくらいのとき」
「憶えてない……。でも確かに、電車でラッシュにいきなり当たるとやばいかもしれない。まあ、新幹線ならそれはないか」
「ラッシュ……?」
「電車の中の中で人がぎゅうぎゅうになるの」
「それは、モッシュではないの?」
あたしが本気で言うと、実樹さんが噴き出して、結音も翼くんも何かをこらえた。自分は変なことを言ったのかとあたしが思っていると、「さすがバンドマンの恋人ね」と実樹さんは笑いを抑える。
「まあ、悠紗くんはきちんと守ってくれる子だろうから、そこは安心していいと思うわよ」
「……そうですね。ご家族に会うのは緊張します」
「毬音ちゃん、それってやっぱ結婚の挨拶なの?」
「えっ? どう、なのかな」
「それはもちろん見据えてるから、悠紗くんは家族にも会ってほしいんじゃないかしら」
結婚。そうなのか。悠紗とそういう話をしたことをないわけでもないけど、本当に考えてくれているのは、どきどきしてくるくらい嬉しい。
悠紗となら、あたしは夢をかなえられると思うから。
あたしは、オフの穴を埋める申し出をしてくれた結音に改めてお礼を言うと、夕方になる前に帰宅した。
悠紗は鼻歌をしながら、暖房が入ったリビングで帰省の準備を始めていた。あたしは「ただいま」と声をかけて、オフが取れたのを伝える。「よかった!」と悠紗もほっとした様子で、「毬音も持ってくものとか準備しよ」とさっそく支度に誘ってきた。
そんな土日を過ごして、一月九日の月曜日の朝、あたしは悠紗と家を出発した。さいわい、この一週間の天気は崩れないようだ。今日も冷えた空が澄み渡っている。
しっかり戸締まりしたあと、まだどこかで不安なあたしに、荷物を背負った悠紗は手をつないでくれる。あたしが見上げると、悠紗は柔らかく微笑み、「めちゃくちゃ歓迎されるから、覚悟しててね」と言った。
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