厚い壁
そうして僕は中学一年生を終え、きっかり二週間の春休みに入った。宿題もなく、本当ならのびのびできるはずが、陰気に鋭い同居人のせいで気が休まらない。
四月には学校にも行くのだから、という両親の説得で、遥は部屋に閉じこもる時間を削ってきていた。結果、僕が部屋にこもって、空の写真やゲームで気晴らしすることが増えている。
僕と遥のあいだには、少し変化があった。改善ではなく、悪化だ。遥は今まで、僕が笑みや言葉で関わっても無表情だった。顰眉や皮肉を返しても、かすかだった。ところが最近、その厭わしげな反応がはっきりとしつつある。
両親には依然として無関心だが、僕には敵意を強めている。なぜかは分からない。見え透いた愛想咲いが癪なのか。空々しさは自覚していても、黙殺の疎外よりいいだろうかと接してきた。彼にしたら、儀礼で友好的にされるくらいなら、無視されるほうがいいのだろうか。
そういう意思表示なら僕も無視するけれど、きっぱり口をきいてくれないのは相変わらずで、真意は読めない。僕は遥の断片的な悪感情にとまどい、一応、笑みを作ったり声をかけたりするのをひかえるようになった。
春休みが始まって、三日が経っていた。三学期のあいだ、遥はかあさんに連れられて、学校に顔を出しにいったり、制服の発注をしにいったりしていたらしい。その制服ができたとかで、その日、かあさんは商店街の洋裁店に出かけていた。
僕と遥は、留守番だ。寸法合わせるためについていかなくていいのかな、と思ったけど、まあ遥が行きたくないと言えばかあさんは強要しないと思う。
遥が壁一枚向こうにいる威圧に押され、僕は部屋を出て一階に逃げていた。ダイニングのガラス戸に立って、冷えたガラスにこつんと額を当て、しとしとと続く雨に憂鬱な息をつく。
吐息に曇ったガラスを細い指で拭う。くすんだ雲のうごめきが見取れる。雨音は心細い陰りを奏で、芝生を生き生きさせている。
今日の物干し竿はからっぽだ。洗濯物が溜まってきた、とかあさんもぶつぶつしていた。そろそろ雨脚も弱まってきたし、明日かあさってには晴れるだろう。
そしたら、春だ。春なんて一瞬だ。気づくとまたこんな雨が来て、色彩をもいで緑一色の初夏になる。そうしたら、僕は十四歳だ。バイトができるようになるのは十六だが、自分が高校生で自活していくとは思えない。
自活はせいぜい高校卒業後の十九歳で、五年も先だ。それは遥にも言えることで、つまり、僕は五年もこうして彼の存在に肩身狭く過ごすのか。げっそり落ちこんだ気分を霖雨があおり、僕は身を返してガラス戸にもたれる。
遥に、どう対処したらいいのだろう。希摘に言った通り、賢そうなことはひと通り考えても、考えたぶんの答えは出ない。
遥にたやすく同情したくない。彼の傷が、僕に何だというのだ。遥の悲劇の観客になる気はない。僕は遥を可哀想だと思えない。可哀想だと彼の心情を察するほど、僕は遥を知らない。
だから、彼を憐れむのは愛想咲い以上にうわべの対応になる。ここは、やや無茶をしても話をして、彼の心に触れてみないと何も始まらないのだろうか。
僕が心を開けば遥は心を開き返す、とは思わない。その可能性があれば、そもそもこんなに悩まない。一方的に心を開かれても、遥にはきっと重荷だ。彼が心を開いたとき、こちらも開き返すのが適切だろう。
遥次第と希摘は言った。本当にそうだ。いくら考えたって、僕は答えを見つけられない。遥が僕とどうつきあいたいと思っているか、それが僕と遥の鍵だ。かといって、僕にどう接してほしいか、遥に訊いてみるのか? それもなあ、とレースを抜けてガラス戸を離れ、ダイニングのとうさんの席に腰かけ、テーブルクロスにぐったりとする。
遥は両親には淡白を保っている。僕は遥に、両親はしていない受け流せないと思わせる何かをしているのだろう。
自然な態度、だろうか。とうさんとかあさんは、けっこう遥に自然に接している。どう接するべきかという困惑は隠し、とりあえず、さしつかえなくつきあっている。
僕は遥に対して不器用だ。ぎこちなさも引き攣りも、やろうと思えば隠蔽できるはずだ。ひとまずそうしておいて、分かるまで外面的につきあおうか──
いや、正直そんな態度を取っていたら、それに甘え続け、遥との仲を悟れる日は永遠に来ない気がする。
遥とつきあう上で、ゆいいつ判明しているのは、生半可な関わりは避けるべきだ、ということだ。彼に対するには、深入りか無視か──責任を取るか取らないかなのだ。
上体を起こして、頬杖をついた。雨音に冷蔵庫の低い機械音が混じっている。迷彩柄のベストに身を縮め、短い小さな息を吐いた。
いろいろ考えた結果、遥がこの家に来なければ、とはまとめなくなっている。遥の到来を受け入れたのではなく、そんな望みは無駄なあがきだと分かった。
掛け時計によると、時刻は十三時だ。お腹空いたな、ととりとめなく思い、立ち上がるとキッチンにまわった。
焜炉のかたわらに、かあさんが作っていったナポリタンが二皿ある。遥のぶんは──まあ、遥が勝手に食べるか。
自分のぶんだけ電子レンジで温め、食器乾燥機のフォークを取って紅茶を作った。冷えているとなかった匂いが、加熱と共によみがえり、ティーバッグを捨てたところでベルが鳴る。
水蒸気でラップを真っ白にした皿を取り出すと、ダイニングの自分の席に置いた。紅茶も連れてきて、いそいそと椅子に座ると、「いただきます」とラップを剥いで芳しい湯気を解放する。
ピーマンの苦みやたまねぎの甘みを味わい、レース越しの雨を眺めやる。どこかに行きたい。家にいなければ、この回流の思索に悩むのも減るはずだ。こんな腐った思考に始終つきまとわれるのは、たまったものではない。
具がもつれた熱いナポリタンを口に運んでいると、リビングで物音がして僕はそちらを覗いた。
ちょっと身を硬くした。遥だった。今日も暗色の格好で、黒いフリーツの上着に、ブルージーンズを穿いている。匂いか視線かで遥もこちらを向き、前髪の奥で瞳に嫌悪のような結石を作った。
が、こちらにはやってきて、僕のナポリタンを一瞥し、キッチンに残される自分のナポリタンにも気づく。僕はフォークの先で輪切りのウィンナーをつつき、「あっためたほうがいいよ」と言ってみた。遥は無言で皿を取ると電子レンジに突っ込む。僕はフォークをかじり、隣の椅子に腰を預け、レンジを待つ遥を盗み見た。
やっぱり、美形だと思う。四月に学校に行きはじめたら、女子がうるさそうだ。でも、その端麗より、傲慢に陰鬱な雰囲気が勝っている。女の子は影のある男が好きだとか言うし、それはそれで、遥をモテさせるだろうか。
同性にはどう思われるだろう。ひとまず、僕はできれば近づきたくない──
「何」
視線に気づいて遥は僕を横目で見下ろし、僕はどきりと視線を正した。僕を見るとき、遥の野生動物の瞳は獲物を定めたように鋭敏に冷えこむ。「別に」と僕は内心畏縮して紅茶を口をつけ、遥は眇目をする。
「お前、俺が来なきゃよかったと思ってるだろ」
「えっ」
「その態度で、気づかない奴いるかよ」
「………、思ってない、よ。もうあきらめた」
遥は僕を向いた。僕は遥を向かず、フォークに柔らかいナポリタンを巻きつける。
「君のほうこそ、僕が嫌いなんだよね」
「愛想咲いされるなら、唾吐かれたほうがマシだ」
「じゃあ、そうする。僕は君にどう接したらいいのか分かんなかっただけだよ」
「簡単じゃないか」
「同情だったらね」
ベルが鳴った。遥は僕に何か言おうとしたものの、やめて、レンジに手を伸ばす。同じ匂いが混ざり、ダイニングは香辛料に包まれた。遥も食器乾燥機のフォークを取り、隣には腰かけずに、リビングへと歩き出す。
「俺は義理なんかいらない。いらつくんだよ」
僕は手を止めて、遥の黒い背中を見た。遥はリビングを横切り、去ってしまった。部屋で食べるのだろう。
義理なんかいらない──「そうですか」と僕は独白し、息で湯気を追いやると、フォークに絡まるナポリタンを口に運ぶ。
だったら、遥に愛想を使うのはやめよう。遥がそうしてほしいのなら、それが一番、彼を逆撫でない。僕だって、好きで遥ににこにこしていたわけではない。この場合、見切ったほうが僕の心の悩みは晴れて得だ。
そうしよ、とひとりうなずくと、ナポリタンを飲みこみ、トマトケチャップの香りで胃を満たしていった。
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