音楽は好きじゃない。興味もない。でもそれは、きっと瑞輝のことを思い出すせいで。
もしあの頃、瑞輝を受け入れられていたら、私にはあの音を毎日聴くようになっていたのかもしれない。
「ママ、真優奈、絵本見てくるねっ」
五月晴れの日曜日、スーパーの隣の本屋に踏みこむと、まだ幼い娘の真優奈は嬉しそうにつないだ手をほどいて、絵本コーナーに駆けていった。「走っちゃダメよ」と私はそれを追いかけようとして、ふと入口で平積みになっている雑誌に気づく。
表紙には四人組のバンドがいて、大きくこんな見出しがあった。
『Bazillus Private Interview~to be continued~』
……ああ、玲くんが言っていたのはこれか。
表紙の四人の中には、昔の面影が残る瑞輝もいる。私は一冊手に取ったものの、梱包されていて中身はめくれなかった。
私の話が出ていることは聞いている。気になったけど、読んだらまたつらくなりそうだから、買わずに平積みに戻した。
真優奈に絵本を一冊買ってあげたあと、夕食の材料を買って帰宅した。出迎えてくれた夫の尚志は、私の手からエコバッグを奪って、「お疲れ。俺がしまっておくよ」なんて言ってくれる。かわいい娘。優しい夫。もうこれ以上、望むものなんてない。
なのに、あのバンドが活動を地元から全国へ、いずれは海外まで伸びるんじゃないかと思うほど活躍していると、私は瑞輝を分かってあげられなかったんだと息が苦しくなる。
瑞輝とは、高校時代の同級生だった。当時から落ち着いて紳士的で、惹かれたのも告白したのも私からだった。
告白を受けたとき、瑞輝はややとまどったように「君ならもっといい奴いるかもしれないよ」と言った。断られてるのかなと思いつつ、「私が好きなのはあなただから」と言うと、瑞輝は困ったような嬉しいような笑みを見せて、「じゃあ、俺でよければ」と瑞輝は私と握手してくれた。
瑞輝はギターを弾くのが趣味だった。私にも聴かせてくれた。なめらかに動く指や、優しくギターを抱く腕を見ていて、最初は素敵だなあと思っていた。
けれど、瑞輝の生活はギターを中心にまわっていた。食べるのも眠るのも惜しんで、良かった成績が下がっても気にせず──もちろん、私とこまめにデートもしてくれない。いつからだろう。瑞輝の「一番」であるギターに私は嫉妬して、私を愛しているというなら、ギターをやめてほしいと願うようになった。
そう思っていたのは、私だけではなかった。瑞輝のご両親、先生たち、瑞輝の親友の玲くんすら、瑞輝にとってギターは良くないものだと思っていた。ギターにのめりこむ前は、瑞輝は優秀な息子、品行方正な生徒、穏やかな親友だった。
みんな、あれこれと説得していた。私はよく玲くんに相談を持ちかけ、たくさん愚痴を聞いてもらった。
瑞輝は私よりギターが好きなのかな。ギターを弾いてるほうが幸せなのかな。瑞輝にとって私って何なのだろう。
玲くんは私のそんな気持ちを瑞輝に伝えてくれた。瑞輝もさすがにまずいと思ったのか、「少し話そう」と言ってきて、私たちは話し合いになった。私はうつむいたまま、瑞輝のギターが憎いと言った。
「瑞輝のギターが嫌い。ギター弾いてる瑞輝も嫌い。瑞輝が弾くギターの音も、私は大嫌い!」
瑞輝は怒らなかった。視線を落とし、「そっか」とつぶやいた。じゃあ別れよう。そう言われるのも覚悟していたし、いっそそう言われるほうが楽だと思いつめていた。瑞輝は何とも答えなくて──翌日になり、「もう受験生だもんな」と瑞輝は私に力なく咲いかけた。
「そろそろ、やめなきゃいけなかったんだ」
そうして、瑞輝はやっとギターを手離した。私だけじゃなく、みんな喜んでいた。だから、これが正しかったのだと私も思った。瑞輝はまた、優等生の生活に戻った。これで私は瑞輝の「一番」だ、幸せになれるんだ。そう思っていた──のに。
夏の日、その放送は私も聞いた。後輩の音楽をやっている子が、自分たちの音源を放送室をジャックして流した。先生に見つかるまでの、ほんの少しのあいだだった。
なのに、その未完成な音は、瑞輝の心を深く刺してしまった。彼らと音を重ねるたび、「弾きたい」と思ってしまうと瑞輝は私に伝えた。
「やっぱり、俺はギターをしたい。あいつらとバンドがやりたいんだ」
私は唇を噛みしめ、バカなんだ、と思った。そう、この人はバカなんだ。
ギターを続けてどうするの? バンド? そんなものが成功する確率は? そんなことしなくても、あなたは頭がよくて、何にだってなれるのに。なんでわざわざ、音楽なんていう不安定な道に進むの?
この日、瑞輝とは別れた。周りの大人も、いよいよ瑞輝にあきれた。玲くんも怒っていたものの、しばらくののち、『瑞輝のライヴに行ってきた。』というメールが来た。
『俺は瑞輝を分かってなかったんだと思った。
あんなに楽しそうな瑞輝を、ずっと否定してたんだな。
真優里ちゃんも、ライヴに行けばたぶん瑞輝を許せるよ。』
私は行かなかった。一度も。
活動などダメになって、落ちぶれてしまえばいいと思っていた。後悔したって、私はよりなんて戻さない。恋人も大切にできない瑞輝のことなんか、誰も愛するはずがない。
しかし、瑞輝が在籍するバンドは落ちぶれるどころか、どんどん力をつけて精力的に活動した。やがて、メジャーデビューまで決まったという話も耳に入った。それから、Bazillusというそのバンドは、一発屋で終わることもなく、全国ツアーやアルバムリリースで多忙を極めるバンドに成長した。
私はといえば、大学を卒業して、職場で知り合った尚志と結婚して、真優奈という娘も授かった。私だって、幸せになったはずなのに、Bazillusの話題がネットやテレビで流れると、まるで私を切ったのが正しかったことかのように、成功している瑞輝に心をかきむしられた。
──尚志と真優奈と三人で夕食を食べたあと、尚志は食器洗いをしてくれて、真優奈は買ってもらったばかりの絵本に夢中になっていた。
私はスマホでネットニュースを見ていて、普段は覗かないようにしている音楽ニュースを開いた。スワイプして目を通していると、『最新号でBazillusの四ヵ月連続プライベートインタビュー』という見出しを見つけた。
躊躇って、そっとタップしてみる。
『今月号は瑞輝(g.)へのインタビュー。ギターとの出逢い、周囲に理解されず音楽を離れたブランクに対するコンプレックス、そんな自分を受け入れたメンバーや現在の恋人について語っている。』
玲くんが、言っていた。私にも、玲くんにも、いろんな人にギターを弾くことを否定されて。自分の音は誰にも響かない、と瑞輝は感じ、音楽を絶つことを決めたのだそうだ。
結局、私は愛されて瑞輝に選ばれたわけではなかった。傷つけて瑞輝につけこんだだけだった。
読めば不愉快になるのは分かっていても、数日後、私は例の音楽雑誌を買ってしまった。ソファに腰かけて雑誌を開くと、「ママ、何読むの?」と幼稚園から帰ってきたばかりの真優奈も、隣から不思議そうに私の手元を覗きこむ。
私のことは、案の定あんまり良いふうに書かれていかなかった。でも、もし私がギターを理解してくれたら、今度こそ大切にしたかったとあった。その後、瑞輝は現在の恋人に出逢って、こう言われたらしい。
『瑞輝くんのギターが聴こえて、初めて、生きてることが幸せだって感じられた』
何で、私はそう言ってあげられなかったのだろう。バカなのは、私だ。自分よりギターのほうが愛されているなんて嫉妬して。『ギターは俺の一部なんだ』という瑞輝の言葉が載っていて、確かにそうなのだろうと感じた。
私は瑞輝自身を理解してあげることができなかったのだ。
「ママ? 泣いてるの?」
真優奈が心配そうに私を見つめる。私はその瞳に瞳を重ねると、「大丈夫」と微笑みかけた。
私が今、無条件に愛しているのは真優奈と尚志で。そんな存在が、私にはあるのだからいい。
瑞輝のことなんて、過去だ。やり直したいわけでもない。私には家族がいる。瑞輝には仲間や恋人がいる。それでお互い幸せなのだから、どうせすれちがう運命だった。
「真優奈」
「うん?」
「ママ、真優奈が大好きだからね」
「真優奈もママ大好き! パパも!」
「ふふ、そうだね。ママもパパ大好き」
私は真優奈の頭を撫で、その軆を抱き寄せて雑誌は閉じた。真優奈の甘い香りと、柔らかな体温が腕に流れこむ。
ガラス戸のレースカーテン越しに、静かなリビングには初夏の白い陽光が射しこんでいる。
あんなふうに心が真っ白になったら、CDでも買って、瑞輝のギターを聴こう。瑞輝の音は、届かなかったわけじゃない。私が聴こうとしなかっただけ。今度はその爪弾く音にちゃんと耳を澄ます。
その日がいつになってもいいように、どうか、もうあなたがギターをその身から離さないことを祈っている。
FIN
