Koromo Tsukinoha Novels
小さい頃、僕はおかあさんとふたりだった。
おとうさんはあんまり帰ってこなくて、たまに家にいても、僕は慣れなくて懐かないくらいだった。おかあさんの後ろに隠れて、近づこうともしない。おとうさんからときどきかすかに嗅ぎ取れる、吸わないはずの煙草のにおいが好きじゃなかった。
おかあさんも、僕を無理におとうさんと遊ばせたりしなかった。ますますおとうさんは家庭を遠のいて、やがて、好きな人ができたと残して手荷物と共に家を出ていった。
おとうさんが置いていった、『離婚届』という幼い僕には読めない字がある紙切れを、おかあさんは長いこと見つめていた。
「もうおとうさんに会えなくてもいい?」
ふとおかあさんがそう尋ねてきて、積み木で遊んでいた僕は顔をあげて、べつだん躊躇うこともなくこくりとした。
「僕、おかあさんがいればいい」
僕がそう言うと、おかあさんは小さく微笑んで、「ありがとう」と言ってから『離婚届』に何か書きこみはじめた。
晴れ上がった夏の空の下、おかあさんは僕の手を引いて役所におもむき、『離婚届』を提出していた。おとうさんとは二度と会わなかった。
マンションからアパートに引っ越して、おかあさんが働きはじめたので、僕は保育園に行くようになった。あまりなじめなくて、朝はぐずってしまうことが多かった。そんな僕に、「夕方にはお迎えにくるからね」とおかあさんは指切りをしてくれて、僕は保育園の門で、おかあさんの背中が見えなくなるまで見送った。
おかあさんは約束通り、十七時頃にいつも迎えにきて、手をつないだ僕に、夕飯は何がいいかを訊いた。僕は偏食なところがあったので、「ハンバーグ」か「グラタン」か「オムライス」ばかり言っていた。
ほとんど他人は混じることはない、おかあさんとふたりだけの生活だったけど、穏やかで幸せだった。ずっとこのままでもよかった。
けれど、来年には小学校に上がるのをひかえた、吐く息が白くなる冬の頃から、ときおりおかあさんのお迎えが遅くなった。
お正月、おかあさんは部屋に男の人を連れてきた。男の人がやってくる頻度は次第に増え、僕とふたりきりになることもあった。
「笑わねえガキだよなあ」
男の人はそんなことを言って、僕の頬をつねってきた。思わず嫌がってその手をはらうと、「俺に反抗すんじゃねえよ」と男の人は僕の頭をひっぱたいて、思いがけない暴力に僕はびっくりしてすくんだ。
その僕の表情がおかしかったのか、男の人はげらげらと下品に笑って、そのとき買い物に行っていたおかあさんが帰ってきた。「どうしたの」とまばたきをしたおかあさんに、「ちょっと遊んでただけだよ、なあ?」と男の人は僕を見て、僕はぎこちなくうなずくほかなかった。
男の人は、おかあさんには見えないところで、僕をたたいたり足蹴にしたりするようになった。ベランダのコンクリートにじかに正座させる。お風呂に一緒に入って、顔に強い水圧のシャワーを浴びせる。
おかあさんに言おうとはした。でも、「あの人が、新しいおとうさんになってくれるかもしれないから」とおかあさんは嬉しそうに語る。そんなのは嫌だよ、あの人僕をぶつんだよ、と言って、おかあさんに信じてもらえないのも、嫌われるのも怖かった。
小学生になった。もうこれからは、行きも帰りもひとりだ。とぼとぼと帰宅すると、男の人が部屋でごろごろしてることがある。この人は、おかあさんと同じ職場の人らしいから、さすがに毎日ではなかったけれど、それでもなまけるときはここに来るみたいだ。
僕の帰宅に気づくと、男の人はうざったそうな舌打ちをして、「お前いると、辛気臭いんだよなあ」と昼から飲んでいる缶ビールをあおった。ランドセルをおろした僕は、黙ってワンルームの真ん中にある卓袱台に宿題を広げた。すると、男の人は空になった缶を僕に投げつけ、立ち上がると髪の毛を鷲掴みにしてきた。
「っとに、鈍いガキだなっ。お前がいると、俺がくつろげないっつってんだよ」
つかんだ髪の毛で頭皮から軆を引っ張り、男の人は僕をベランダに投げ出した。五月になって気温は急速に上昇し、水分補給を忘れないようにと学校でも言われはじめている。でも、もちろん水分なんて恵まれず、宿題のプリントと鉛筆だけ投げつけられたら、ガラス戸の鍵をかけられてしまった。
顔をあげると、青空で太陽が白くぎらぎらしている。頭がぼんやりして、緩やかに痛みはじめ、吐き気も覚えた。意識がくらついて、宿題どころではなかった。細い手足をだらんとさせて、ぐったりガラス戸にもたれていた。
水分を絞られて汗さえかかなくなって、やがて、内臓が逆流してくるような不快感にくずおれて硬いコンクリートに横たわってしまった。砂とホコリが混じったにおい。風もなく、息切れしてくるほどに暑かった。
男の人はおかあさんが帰宅する前に僕を部屋に連れ戻し、「このくそ暑いのに、外走りまわってたらしいわ」とおかあさんには説明していた。おかあさんはそれを疑ったりせず、「水分は摂らないと」と僕の頭を撫でた。僕はもはや男の人を責める余裕もなく、小さくうなずき、「ごめんなさい」とつぶやいた。
おかあさんと男の人が結婚したのは、僕が小学一年生の秋だった。おかあさんが妊娠したのだ。生まれたのは妹だった。
男の人は、妹のことは溺愛と言えるほどにかわいがった。おかあさんももちろん、白くてふにふにした赤ん坊に夢中だった。僕は主張も、発言すらはばかられ、ただ、いたたまれない窮屈に閉じこもった。
「俺はさ、お前とこいつ、三人で暮らしていきたいんだよな」
桜が散りはじめる頃の春の夜中、僕はふとんに入っている部屋で、男の人がおかあさんにそんな提案をしているのが聞こえた。
「でも、この子はまだ小学二年生で──」
「環境に柔軟性があるうちのほうがいいだろ」
「………、」
「お前の実家とかは?」
「預かってくれるとは思うけど」
「じゃあ、請け合ってみろよ。とにかく、俺はこれからは三人で暮らすほうがいいと思ってる」
心臓が、不穏に黒い脈を吐きはじめた。三人。含まれていないのは、明らかに僕だ。
僕は切り捨てられるの? この家族のいらない子なの?
おかあさん。僕はおかあさんとは一緒にいたいよ。そのためなら、男の人の嫌がらせだって我慢するよ。妹に嫉妬したりもしないよ。
だから、僕を捨てないで──
祈るように思って、僕はふとんの中で硬く縮んだ。男の人はなおもおかあさんを説得していて、おかあさんは結局、きっぱり男の人の提案をはねつけることはしてくれなかった。
いつ、いらないって言われるんだろう。
いつ、この家から追い出されるんだろう。
びくびくしながら毎日を過ごし、夏が近づいてきた。蝉が鳴きはじめて、古いエアコンが必死に部屋を冷ますために唸る。今年初めての台風が過ぎ去って、夏休みが近づいてきた。帰り道では、蒸された道草の匂いが立ちのぼっていた。
帰宅すると、育休中のおかあさんが僕を出迎えてくれる。あの男の人も、自分の娘のためならまともに働くらしく、部屋でなまけていることは減った。それでも、僕は相変わらず、陰で煙草の火で皮膚を焼いたりされている。おかあさんは僕の名前を呼ぶと、「相談したいことがあるんだけど」と卓袱台に濃厚そうなぶどうジュースのグラスを置いた。
あの人と結婚しようと思う、って言ったときもそうだった。こんなふうに、卓袱台で向かい合って。ちょっと贅沢な百パーセントのジュースを出されて。
……ああ、言われるんだ。
「おかあさんの田舎の、おじいちゃんとおばあちゃん、いるでしょう?」
僕はグラスに手をつけず、うつむいたまま「うん」とかぼそく答えた。喉元がざわざわと黒雲で詰まっていく。
「あの家、けっこう広いでしょう。だから、ふたりだけだと寂しいって言っててね。よかったら、そばに行ってあげてくれないかな」
僕は膝の上で手を握り、手のひらにぎゅっと爪を食いこませる。
「一学期まではこっちで過ごして、夏休みから向こうで暮らしてくれたらいいかなあって。自然が多くていいところだしね。きっと、向こうの学校ですぐ友達もできるよ」
唇もぎゅっと噛んだ。
「どうかな。おじいちゃんとおばあちゃんも、喜んでくれると思うんだけど……」
──必死に、泣かないように。
「でも、ずっとおかあさんと一緒だったもんね。やっぱり、おかあさんと離れるのは寂しい、かな?」
目をつむる。
寂しいって言えばいいの?
寂しいって言っていいの?
寂しいよ。おかあさんと離れるのは寂しいよ。あの男の人に何をされても耐えられたのは、おかあさんのためだったくらいだよ。
いつも嘘をついてきた。何をされても、何でもないって。痛くても、平気だって。……嫌いだけど、いい人だねって。
じゃあ、これが最後の嘘だ。心が膿んで、腫れあがる嘘も最後だ。
僕はまぶたを開き、白々しく咲って、祈るような想いで嘘をついた。
「寂しく、ないよ。大丈夫」
ねえ、この悪あがきを見破ってよ! 嘘だって気づいてよ! せめて、そんなことを言われるとおかあさんが寂しいなとか、そういう──
……ああ、どうして、ほっとしたように咲うの?
口の中がからからで、ぶどうジュースを飲み、胃にその甘い香りを浴びせた。吐き気がした。
積み重なった嘘は腫れあがり、ひりひりに神経を剥き出している。涙も出ない、虚ろに乾燥した目をジュースの水面に落とす。
このジュースに毒が入っていて、今ここで殺されてしまったほうがマシだと思った。
おかあさん。ずっと一緒だと思ってた。離れるのは寂しいよ。なのに、おかあさんには僕はもういらない子なんだね。
妹がベビーベッドでぐずって、おかあさんはそちらに行ってしまう。ここからいなくなったら、僕のことなどきっと忘れ去られるはずで、何だかそれは生かされながら死んじゃうみたいだと思った。
レースカーテンの向こうの晴れすぎている夏空を見つめる。とりわけ騒々しかった蝉の声が、急に止まる。どこかに飛んだのか、あるいは命尽きたのか、そのまま、再びその蝉が鳴きはじめることはなかった。
FIN