つくりあめ

 ドアを開けると、目のくらむような南中の太陽が、青空も空気も焼いていた。
 タンクトップとショートパンツだけの肌に、ねっとりと熱気がまとわりつく。蝉の声が発狂してわめく中、オレンジのアイスキャンディをくわえるあたしは、何でこんなことしなきゃいけないの、と陽射しに焦げる庭に出る。
 芝生なんて植えたのは親なんだから、おとうさんかおかあさんがやればいいのに──裏手の蛇口を捻って、つながるホースからめいっぱい噴き出した水を緑にまきちらす。
 一分もせずに、汗がこめかみを伝いはじめる。視界そのものが陽炎になったようにくらくらする。これ百円で請け合う手伝いじゃなかった、と舌打ちしながら、視覚が痛みそうに鮮やかな芝生を潤していると、「すみませーん」と男の子の声が垣根の向こうから聞こえた。
 振り返ると、家の前をうるさく雑談する集団が通りかかっている。
「何ですか」
 猛暑で愛想も体裁も何もない。アイスキャンディから口を離したあたしに、声は臆さずに質問を続けた。
江月えつきって家、このへんにないですか」
「……江月はうちですが」
「えっ、じゃあ秋乃あきのの家ってここですか」
「弟は部屋で寝てます」
「うおっ、秋乃のねえちゃんだよ!」
「マジで? くそっ、葉っぱで見えねえ」
「つか、あいつ寝てんのかよ。確かに電話出ねえけど」
「あ、俺たち、秋乃の家でゲームする約束してて──」
 そのとき、あたしも聴き憶えのあるアーティストの着うたが流れた。「もしもし」という電話に出た声の相手は、案の定、弟の秋乃だったみたいだ。
「家の前いるぜ」とざわざわしながら集団はうちの玄関先に移動し、そのとき、ドアの開く音と「わりっ、寝落ちしてた!」と弟の声がした。
「何だよ、約束忘れてたのかよ」
「忘れてねえって。スマホしてたらいつのまにか寝るじゃん」
「あ、俺、今、お前のねえちゃんと話したぜー」
「は? 何で?」
「庭にいるぞ。何してるか知らんが」
 どういう言い草だよ、といらっとしつつ、何となくそちらは見ずにまたアイスキャンディを頬張り、ホースを引っ張る。
 何となく、ガキ共の視線を感じる。
「あれは──百円で釣られたんだろ。姉貴、百円で動くから」
 殺すぞ秋乃。ガキ共もくすくす笑いやがって。何かもう、まとめて死ね。
「こんな暑いのにすごいじゃん」
 前言撤回、今そう言った君だけ助かってよろしい。
「んなことねえって。あいつほんとバカだから」
 秋乃、そのぶんお前が二回死ね。
「部屋行こうぜ。クーラーかけっぱなしで寝てたから涼しいし」
「クーラーある部屋とかうらやましすぎる」
「っとに今年暑いよなー、何なんだよ」
川原かわらもよく部活とか出てるよな、夏休みなのに」
「バスケ自体は楽しいんだよ。体育館が嫌だけど」
 がやがやとガキ共は家の中に入っていた。あたしはホースを握りしめ、がりっとアイスキャンディを噛んだ。甘ったるいオレンジ味が広がる。
 くっそ……秋乃、ほんとにどんどんかわいくなくなる。中学生になって二年目、いよいよ生意気になった。三歳も年上のあたしのことをナメきっているのがムカつく。
 芝生に水をやり終える頃には熱中症になりかけて、ふらふらと家に避難してリビングのクーラーを全開にした。冷気が唸る風下に寝転ぶと、鬱陶しい汗がすうっと引いていく。
「風邪引くよ」と言ったおかあさんに、「明日から水やりしない」と言うと、「はいはい」と百円玉を渡された。いらないからやらない、と突き返せばいいのに、今日はやったぶんは惜しくてポケットに入れてしまう。
 汗のにおいに、シャワー浴びたいと思っても、弟の友人共がいる最中に入る気にはなれない。早く帰れガキ共、と天井を睨んでも、とうぶん解散しないのだろう。
 まだまだ日の落ちない十八時、本日二本目のアイスキャンディ、グレープ味を噛みしめていると、階段を降りてくる複数の足音が聞こえてきた。テレビはいっせいにニュースを流しはじめている。
「帰るのかしらね」とおかあさんが玄関に向かうので、チャンネルをまわしていたあたしも振り返った。開いたドアに、野郎ばっかりの集団が見える。
「あ、お邪魔しましたー」
「ごめんねえ、秋乃から聞いてたら、おやつくらい用意してたんだけど」
「いっすよ、自分らで持ってきてたんで」
「また来るかもしれないんですけど、いいですか?」
「もちろん。いつでも来てちょうだいね」
 いや、もう来るな。あたしの部屋は秋乃の部屋の隣だから、壁一枚、のんびり部屋にも帰れない。
 おかあさんはガキ共を見送りに玄関に行ってしまい、舌打ちを殺しながら、あたしはテレビに向き直ろうとした。が、リビングのドアにひとつ影が立ち止まっている。
「秋乃のおねえさんですよね」
 この声──
「さっきはすみませんでした」
 この声、あれだ。すごいじゃん、って言った、ガキ共の中でゆいいつ生き延びていいと思った子だ。
 あたしはその子を見た。背の高い子だった。まじめな黒髪、涼しげな大人びた目元、まだ幼さの残る顎や肩の線──
 目が合った。その子は屈託なくにこっと咲った。
 あたしは何か言おうとした。でも、何を言うのか。迷ってグレープ味をくわえたままでいるうちに、「帰るぜー」という声に、彼は玄関へと走っていってしまった。
 やば、とぱっと玄関に背を向けて顔をうつむける。ちょっと、かっこよかった。いちいち気にして声をかけてくれるとか、さらにポイント高い。
 いや、でも、あのガキ共の一派だし。秋乃なんかとつるんでいるわけだし。本当は、ろくでもない子なのかもしれない……けど。
「あ? あれは川原だよ」
 ようやく暗くなった二十時頃、おとうさんも帰宅して、家族四人で夕食を取っていた。秋乃の友達は礼儀正しかった、とかおかあさんはおとうさんに話している。確かに、あたしの友達のほうが挨拶とかちゃんとしないかもしれないけど。
有夏ありかにも挨拶してる子がいたねえ」とおかあさんが言ってどきんとすると、肉じゃがをかきこんでいた秋乃が顔を上げた。
「あいつは部活でバスケやってるから。上下関係とか気にするだけだろ」
「確かにあんたみたいにチビじゃなかった」
「っせえな、百均女」
「ああ!? ふざけんなよっ」
「有夏の友達は来ないのか」
「おとうさん、女子高生見たいだけでしょ」
「そうかもしれん」
 あたしとおとうさんがそんなことを話している隣で、おかあさんと秋乃はその川原くんとやらについて話している。
 二年で同じクラスになって仲良くなったこと。バスケ部でレギュラーをしていること。夏休みも練習や交流試合に励んでいること。
「今度の日曜も、朝から学校で試合だって言ってた」
「応援行かないの?」
「見られると緊張するから来るなって。まあ暑いんで、行くか微妙だったしな」
「……薄情」
 あたしがぼそりとすると、「来るなって言われてんだよ」と秋乃はすかさず言い返す。
 あたしはお味噌汁に口をつけ、日曜に試合、と思った。特に予定はなかったけど──ないからって何だ。まさか、行きたいとか思ってる?
 バスケなんか興味もない。今日だって、ちょっと挨拶されたぐらいだ。実際どんな子かなんて分からない。というか、友達も行かない試合に、その姉が行くとか不自然すぎる。
 ダメだ。落ち着け。そんな試合、見にいったってどうしようもない。
 日曜日も異常なほど晴れていた。朝遅く起きて、カーテンを開けたら、しばらく窓からそのまばゆい夏の空を見ていた。
 今日、試合があることは確実で。今日なら、あの子を見ることはできる。また秋乃を訪ねて家に来るとは思うけど、そんなの、来たときと帰るときの一瞬だ。試合ならどんなに目で追っていてもおかしくはない。
 話せるかは分からないし、声をかけられるかも分からない。それでもあたしは──レースカーテンをおろすと、シャワーを浴びるために着替えをあさった。
 だって、あの日から妙にあの子のことばかり考えている。年下。弟の友達。ほぼ他人。なのに、気になる気持ちは抑えられない。
「ちょっと出かけてくる」
 そうリビングを覗くと、「どこ行くの」と掃除機をかけていたおかあさんが手を止めた。「本屋」と方角的に同じ場所を挙げておくと、「そう」とおかあさんは少しよそ行きのあたしには突っ込まず、掃除に戻ろうとした。
「あ、おかあさん」
「うん?」
「秋乃は?」
「部屋にいるよ」
 ほんとに応援行かないのかあいつ。まあ都合がいいけれど。「じゃあ、行ってくる」とおかあさんに残して、玄関でミュールを履くと猛暑の厳しい外に出た。
 空気がゆだって、アスファルトが熱を反射している。蝉が迷子のように鳴いている。風もない炎天下だった。すぐさま汗をむしりとられ、軽く香水をしてきてよかったと思いながら、あたしは母校でもある秋乃の在学する中学校に向かった。
 体育館のほうに人が集まっていて、シューズと床がこすれる音が聞こえてくる。心臓が不安も混ぜて脈打つ。
 あたしのことに、気づいてほしいような。ほしくないような。まあ普通に、憶えてるわけないよな、とは覚悟している。
 だったら、もちろん声なんてかけない。でももしかしたら、なんて思っている自分が浅ましくて、しばらく開け放たれた扉の陰でもやもやしていた。
 ボールを打ちつける音、シューズが駆けまわる音、選手の掛け声や観客の話し声──
「先輩こっち、右です!」
 はっと顔を上げた。
 この声。思わず扉から中を覗いていた。するとそこには、高校生のあたしのクラスメイトより背の高そうな、ユニフォームを着た中学生の男の子たちが試合をしていた。ボールは今──
 あ、川原くんだ。
 色の違うユニフォームの選手をかわしながら、川原くんはゴールへと走っていった。そのままシュートするところを見たかったけど、残念ながらパスしたのでそれは見れなかった。でも、汗ばんだ黒髪を鬱陶しそうに振りはらい、また駆け出すすがたでじゅうぶんだった。
 どうしよう。こんなの、どうしよう。あたし、あの弟と同い年の男の子に惹かれてる。
 川原くんを目で追っていた。周りに較べると、やはり筋肉の線はまだ甘さが残っている。でも、その危うさがどきどきした。あんなにしなやかで綺麗な男の子、出逢ったことがない。
 声、かけたら……ヒカれるよな。秋乃もいないのに、何でお前がいるんだ、というか──そもそも、あたしの顔なんて忘れている。もっと、違う近づき方を考えたほうがいいよな。
 そう思った、けれど。
 試合終了のホイッスルが鳴った。はっとしたのと同時に、選手が整列して右手のユニフォームが歓声を上げた。この中学──川原くんのチームが勝ったみたいだ。
「ありがとうございました!」と選手たちが挨拶を交わし、川原くんかっこよかった、と詰めていた息を吐いていると、「お疲れ様ーっ」という声が体育館に広がる。
 何となくスマホで十二時近いのを確認し、ついでにいつのまにか来ていた友達からのメールをチェックしていた。
 どうしようかな、と青空を見上げる。このまま帰ったらバカみたいだけど、声をかけてヒカれるのもバカみたいだ。
 やっぱり今日はおとなしく帰ったほうがいいか。秋乃というツテはあるのだ。それとなくもっと聞き出して、最悪、感づかれても脈を得てから──
「あ、すみませんっ」
 顔を上げた。ついで目を開いた。川原くんが軽く肩がぶつかったらしい誰かに謝り、それからこちらを見た。
 確かに目が合った。川原くんは、先日と同じように、にこっと笑みを浮かべた。
「ちょっと印象違ったんで、間違ってたらどうしようとか思いましたけど」
 対戦校を見送るまでちょっと待っててください、と言われた。え、という声も出なかった。秋乃の名前を確かめるヒマもなく、川原くんはチームに戻っていった。
 正直キョドりながらその場を離れられずにいると、見送りも終わって解散したチームから、川原くんがスポーツバッグを肩にかけて駆け寄ってきた。
 あたしより余裕で背が高い川原くんを見上げると、見憶えのある靴箱のそばの花壇に連れていかれて、並んで座りながら川原くんはそう言った。
「秋乃のおねえさんですよね」
「え、……はい」
「秋乃は来てないみたいですけど」
「あ、……あたし、その、学校の前を通りかかったので」
 どんだけ古い言い訳だ。恥ずかしくてうつむいてしまうと、川原くんはくすりとしたものの、突っ込まずにスマホを取り出した。
「一応、試合の途中で気づいて」
「あ、そ、そう……なんだ」
 さっきからどもりすぎなんだけど、あたし。
「俺、知り合いに見られてると緊張して調子出ないんですけど、秋乃のおねえさんだと頑張れました」
「え……」
「だって、俺がかっこ悪かったら、秋乃にチクるでしょ」
「そっ、それはしないけどっ」
「そうですか?」
「そうだよっ。だいたい、ここに来ちゃったのもあいつには知られたくないしっ」
「来ちゃったんですね」
「え、あ──」
 返す言葉に迷って、口をつぐんでそっぽを向くと、川原くんは楽しそうに笑った。
「嬉しいです。おかげで試合にも勝てたし」
「……それは、川原くんが強いからでしょ」
「俺はそんなに強くないですよ。もっと強くなりたいくらい」
 あたしは川原くんを見た。目のくらむ陽射しの中で、川原くんはあたしに微笑んだ。
「名前、何て言うんですか?」
「えっ」
「『秋乃のおねえさん』って呼び続けるのもあれだし」
 呼び続ける。……呼び続けて、くれるってこと?
「有夏、ですけど」
「有夏さん」
「はい」
「メアド訊いてもいいですか?」
 川原くんは、手の中に置いていたスマホを持ち上げた。あたしはまぶたを大きく開く。そして狼狽で視線を取り落としそうになったけど、気恥ずかしいのを何とかこらえて、小さく、こくんとした。
 それから、川原くんとはメールでやりとりをするようになった。川原くんはこまめにメールを返してくれるから、待つ時間はそんなにかからなかった。あたしが返信途中で寝落ちしたときには、『やっぱり秋乃のおねえさんですね。』なんて来て、ひとりでじたばたしてしまった。
 秋乃には何も言わなかった。川原くんも言っていないみたいだった。あいつが介入したところで何だか気まずいだけだし、それでよかった。
 ふたりでお茶をしたのは、八月に入ってすぐのことだった。駅で待ち合わせて、適当に街に出たものの、あんまり暑くてすぐ涼しいカフェに入った。席はガラスで通りに面していて、夏休みですごい人混みだった。
 会話はあの花壇のときよりスムーズで、「どもりませんね」とか川原くんが言うから小突くくらいだった。十五時頃に店内に人が増えて、店員さんにそろそろ席を空けてもらえませんかと言われてあたしたちは立ち上がった。
 同時に、川原くんはあたしの右手をつかんだ。
「えっ、か、川原くん──」
「はは、やっとどもりましたね」
 あたしは頬を染めて、だけど、手を握り返した。あたしの指も川原くんの指もカフェのクーラーで冷たかったけど、重なっているとすぐ熱くなって、外に出ると汗ですべり落ちそうになった。それでも、つないでいた。
「夏休み終わる前に、俺の部屋来ませんか」
 三度目のデートで、川原くんは涼しげな瞳をちょっと濡らしながらそう言った。夏の長い夕暮れの公園のベンチだった。
 さっき街からこの地元に帰ってきて、別れが惜しくて、公園に立ち寄った。ぼんやり眺めていた子供たちが、母親に手を引かれて帰っていく。
 空に藍色が滲みはじめたとき、「有夏さん」と呼ばれて振り向いた。その拍子、川原くんが身を乗り出して、あたしの唇に柔らかく唇を合わせた。
 ぽかんとして、でも、じわじわと熱を覚えた。川原くんは顔を離した。そして、あたしの瞳を見つめて言った。
「……え」
 あたしがこぼすように言うと、川原くんはあたしの腕を引っ張ってもう一度キスをした。
 キス?
 え、嘘、あたし──男の子とキスしてる?
「ここで、」
 川原くんはわずかに唇を浮かせた。
「これ以上は……許してくれないでしょう?」
 これ以上。
 ……って、何だ。
 え? 何。これ、現実?
「それとも、中学生のガキじゃダメですか?」
「え……」
「我慢しなきゃいけないですか?」
「か、川原く──」
「卒業まで有夏さんを大事にしたら、」
「ま、待って。ちょっと、その、待って」
 あたしは、間近の川原くんの顔を押し返した。川原くんは焦れったそうにあたしの手をつかむ。心臓がぎゅっと高鳴る。
 川原くんの部屋。これ以上。我慢しなきゃいけない。
 それって、つまり──
「川原くんは、いいの? あたし、とか」
「有夏さんがいいです」
「友達の姉だよ?」
「関係ない」
「年上だし」
「気にしないです」
「……そ、そう……なんだ」
 また、川原くんがあたしの手を握る。空がかたむいても、指が指に溶けてしまいそうに、まだあたりは暑い。
「じゃあ……」
 あたしは川原くんの飲みこみそうな目を見つめ返した。
「このまま、川原くんの部屋に行っても、構わない」
「ほんとですか!?」
「でも、いきなり行って困るなら──」
「平気です。親、どうせ仕事で遅いですし」
 川原くんはあたしの手を引いて立ち上がった。マジか、とあたしのほうがとまどって、それでも言ったからにはベンチを立つ。川原くんはあたしを連れて歩きはじめる。
 あたし、普通に経験ないんだけどな。あるとか思われてたらどうしよう。年上だしうまいだろ、とか期待されても何にもできない。
 ああ、友達に訊いて勉強してからにすればよかったか。このままもOKという「気持ち」は真剣だという言葉をそのまま受け取られるとは──
 川原くんの部屋は、まめな性格のわりに散らかっていた。「あんまり見ないでくださいね」とベッドサイドに座った川原くんは、少し照れて咲った。
 ここまで怖いくらい真顔だったから、その隣に腰をおろすあたしは、その笑みにほっとして咲い返す。
「有夏さん」
「うん」
「好きです」
「……うん」
「有夏さんは?」
「あたしも──好きだよ。川原くんのこと」
 川原くんは、やっぱりにこっと咲った。
 ああ、負けた。その笑みを初めて見たときから、あたしはこの男の子にやられていた。
 もういいや。うまくできないと思うけど。この子なら、さらけだしていい。
 川原くんはあたしをベッドに押し倒した。優しいキスが唇から首筋をたどって、「やり方とか分かんないんですけど」という言葉に咲ってしまう。
「初めて?」
「……はい」
「あたしも初めてだから、期待しないでね」
「俺こそ、下手だと思いますけど」
 それでも、川原くんが硬くなっているのは分かる。ほんとに硬くなるんだな、なんて思いながら、あたしも自分が濡れているのが分かった。脚のあいだが切なく敏感になっていて、まだ服越しなのに、硬くなった川原くんが触れるとじわりと甘い刺激が広がる。
 重なる体温が高い。息が荒くなる。口づけが湿っていく。服を取り去って、下着も脱いで、ベッドがきしんだ。
 たぶん限界まで硬くなっている川原くんに口をつけた。そんなあたしの核に川原くんも指を這わせた。その快感に思わず軆を痙攣させていると、「すみません、もう無理です」と急に川原くんがあたしをシーツに寝かせて、すぐ身を重ねて、指で入口を確認してから一気にあたしをつらぬいた。
 抑えられない声が、動きに合わせてもれた。川原くんはあの試合のときのように汗ばんで、黒髪を艶めかせて、息を切らしながらあたしに奥まで届けた。
 どれほどそうしていたのか分からない。短かったのかもしれない。長かったのかもしれない。川原くんに突かれるたびに響く。脳までとろけそうな、白い感覚だった。
 川原くんも耐えきれないように腰を振って、どんどん速くなる。あたしは川原くんの名前で喘いだ。
「有夏さん、有夏さんっ……!」
 川原くんも何度もあたしを呼んだ。あたしは川原くんの未発達な軆にしがみついた。川原くんのほてった息が耳をなぞった瞬間だった。
 揺らめいていた白が、針で突かれたように一気にあふれた。軆がびくんと跳ねて、その刺激に連動するように川原くんがさらに大きく腫れあがった。
 川原くんは乱暴に引き抜いて、ぎりぎりであたしの内腿に射精した。あたしの脚のあいだにも、押し寄せた絶頂の波に合わせた液がしたたった。
 ふたりとも、そのままぐったりシーツに沈みこんだ。頭が白光の残像でくらくらする。「泊まっていきますよね」と川原くんの声が聞こえた。うなずいて、あたしはその軆に身を寄せた。
 汗の匂いが温かい。意識が溶け出していく。川原くんの指がぎこちなく髪を梳いた。深く息を吐いて、あたしはそのまま、眠りに落ちてしまっていた。
 気づいたときには、霞みがかった頭に小鳥のさえずりが聴こえていた。ここどこ、と思ったけど、まくらの匂いで誰の部屋なのか気づく。
「──うん。分かってるよ」
 え……と。
「憶えてるって」
 ここは……
「明日な。──うん」
 川原……くん?
「約束。うん。──俺も好きだよ、保美やすみ
 ……あ。
 何だ。そうだ。バカ。
 何で考えなかったの?
 こんないい男の子に、そんな、いないわけが──……
 スマホを置く音がした。それから間を置いて、寝起きの声を作って川原くんに声をかけた。
「有夏さん」
 川原くんが嬉しそうな声で振り返る。やられた。ほんとに、やられた。あたし、初めから、無邪気だと思ったその声に騙されていたんだ。
「もう、朝だね。何時?」
「七時前です」
「そっか……」
「朝飯作っときましたよ。親はもう仕事行ったし、一緒に食べましょう」
「……あー、さすがに帰らないと」
「え、いいじゃないですか、飯くらい」
 あたしは川原くんを見た。綺麗な黒い瞳。いっそ平手打ちでもできればいいのに、あたしは小さく笑ってしまった。
「朝には、彼氏から電話があるの」
「えっ」
「いやー、ばれないといいけどな。まあ向こうも適当に遊んでるの知ってるけどさ」
「あ、遊びって、」
「あたしが一番大切だから、簡単に手出ししないんだろうけどね。初めて抱かれるときは言い訳しないと」
「……俺はっ」
 川原くんを抱き寄せた。やっぱり、未発達なのは軆だけでもないようだ。一気に混乱しているのが分かる。
「川原くん、大好きだよ」
「有夏さ──」
「だけど、さよなら」
 視界の端で、ベッドに赤いものがあるのが見える。その赤は、あたしの心にも染みて広がっていく。
 それでも、あたしは川原くんを腕に抱いたまま、涙が出るのはこらえた。
「──有夏、百円あげるから庭に水やってちょうだい」
 夏休みもあと数日なのに、相変わらずおかあさんはそんなことを頼んでくる。リビングでだらだらとテレビを見ていたあたしは、舌打ちしながらも起き上がって、百円に釣られる。
 雨も降らない日が続く夏、納涼のために水を撒くことを作り雨と呼ぶらしい。あたしが芝生にやっていることは、ただの園芸だから違うのかもしれなくても。確かに、降らない雨は作っている。
 川原くんとの最後も同じだ。咲えないのに咲った。泣きたいくせに、責めたいくせに、全部、嘘咲いでごまかした。
 降らない雨。だから雨を作った。
 冷える心。だけど笑みを作った。
 よかった。それでよかったんだ。だって、泣きわめいたところで、もっと傷ついたのでしょう?
 いいの。大好きだったから、このままで。造りごとでなぐさめて、あの血はこの胸に秘めたまま、あたしは咲う。
 幸せだったみたいに。
 この恋が優しく暖かかったみたいに。
 もしまたあの子に会っても、この飛び散る水滴のように、そのときだけあたしは造り咲うんだ。

 FIN

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