綾織りの恋

心海ここみちゃんは、何ていうか……妹みたいなものっていうか」
 大学には行かず、二年間、貯金を重ねてカフェで働いてきた。成人して、私はやっと家を出た。
 保証人がいなかったから、それでもいいところを不動産屋さんに探してもらい、飲み屋街の裏通りというあまり治安のよろしくなさそうなアパートに決まった。
 カフェでバイトを始めた頃から、いろいろと相談に乗ってくれていた池口いけぐちさんは、私の独立を喜んでくれたあと、そろそろ就職したいのでカフェのバイトを辞めることを切り出した。これからも池口さんに励まされながらやっていけると思っていた私はびっくりして、「どうしても辞めちゃうんですか」と涙目になって──
 そのまま、ぽろぽろと想いを告白していた。池口さんは二十九歳で、二十歳の私にしたらずっとずっと年上だったけれど、そんなの気にならなかった。「池口さんが好きです」と繰り返した私に、池口さんは困った顔をしながらホットカフェオレを飲む。
 職場の近くのドーナツショップで、仕事の前や後に池口さんとよくここでお茶してきた。
「心海ちゃん」と池口さんは私の名前を呼ぶと、躊躇ってから、言った──私は妹みたいなものだと。
「妹……」
「心海ちゃんにも、俺は兄貴みたいなものだと思うよ。きっと恋愛感情じゃないよ」
「そんな、こと──私は、ほんとに池口さんのおかげで家も出れたんです。そんな、仕事辞めちゃったら、他人じゃないですか」
「そんなことないよ。話したいときは変わらずにここで話せるし」
「………、ほんと、ですか」
「うん。つきあうとかはしてあげられないけど、これからもそばにいるよ」
 池口さんは手を伸ばし、私の涙をはらってくれた。指の熱にどきんと心臓が跳ねる。
「俺が見守ってないと、心配だしね。心海ちゃん、危なっかしいし」
 そう言って池口さんは微笑み、私はココアのカップに口をつけて、妹かあ、と反芻した。私にはきょうだいがいないから、いまいちその距離感が分からないのだけど、池口さんが私を放っておけないのは分かる。じゃあ、せめて他人にはならないのかな、と私はこくんと甘いココアを飲んだ。
 それから、池口さんには店長や社員さんにもバイトを辞めることを告げた。池口さんは、私だけでなく何人も後輩を育ててきたリーダーだったから、もちろん引き止められた。しかし、「三十になる前に正社員の仕事に就きたいんです」と池口さんは譲らず、結局店側が折れてしまった。
 私以外のスタッフも、動揺したり狼狽したりする子が多かった。「普通に客としてカフェラテ飲みにくるから」と池口さんはそんなスタッフの子たちをなだめても、「何かあったとき、池口さんにヘルプ出せないのかよ……」と女の子だけでなく男の子も落ちこむ有様だった。
 梅雨どきの六月いっぱい、七月に入る前に池口さんはお店を辞めていった。ちょうどその日出勤だった私はそれを見送り、声をかけたくても、みんなに囲まれる池口さんに近づけなかった。
 最後の挨拶もできないまま、そっと退出して、いつものドーナツショップでカスタードクリームとココナッツチョコ、エンゼルクルーラーまで選んでむしゃむしゃと食べた。涙がたまにこぼれて、雑にぬぐう。
 そのとき、「心海ちゃん」と呼ばれてはっと振り返ると、小さめの花束を抱えた池口さんがいた。
「何にも言わずに帰られると、やっぱちょっとショック」
 私は池口さんを見て、「みんなと話してたので」とぼそぼそと言う。「気にしなくてよかったのに」と池口さんは苦笑して、私の向かいの席に近づく。
「心海ちゃんは特別なんだから」
「特……別」
「俺、誰にでもこんな世話焼くわけじゃないからね?」
 池口さんの瞳を見つめて、軽く伏し目になったあと、「ごめんなさい」とお店で挨拶しなかったことを謝った。
「それと……お疲れ様でした」
 池口さんはくすりとしてから、「俺も食べたいの取ってくるよ」と荷物を椅子に置いてドーナツをテイクアウトしにいった。
 心海ちゃんは特別、という言葉を口の中で繰り返すと、欠けたようだった心がじわりと温まるのを感じた。
 池口さんは、シナモンとホイップクリームのドーナツ、それからホットカフェオレを持ってきた。「ここでよくみんなとしゃべったなあ」と池口さんは懐かしむように言って、「社員の悪口言ったりね」と悪戯っぽく微笑む。
 あっという間にみっつのドーナツを食べてしまったせいで、ココアしか残っていない私はカップに口をつける。
「そういうとき、心海ちゃんはあんまりいなかったけど」
「大勢は、苦手なので」
「そっか。初めは接客でも悩んでたもんなあ。すぐ辞めそうだったけど、頑張ってくれて嬉しい」
「池口さんがいたから……です」
 池口さんはシナモンドーナツをかじりながら、「心海ちゃんって、彼氏できたことはないの?」と突然訊いてくる。
「え、……まあ、そうですね」
「そうなんだ。俺なんかより、もっと同世代にいると思うんだけどなー。店にもいるじゃん、森原もりはらとか。優しいでしょ、あいつ」
「優しい、ですけど」
「けど?」
「森原くんは、笠木かさぎさんと仲良くないですか?」
「まあ、そうか。あのふたり、同じ高校だったらしいしね」
「そうなんですか。つきあってるのかなって思うときがあります」
「どうなんだろうなー。俺もそこまで訊いてないや。いや、まあ森原はたとえでね。何で俺なの? おっさんじゃない?」
「そんなことはないです」
「心海ちゃん、二十歳だっけ」
「はい」
「九歳違うよ」
「そう、ですけど。池口さん、話しやすいし、私のこと気にかけてくれるし」
「それってやっぱ、頼れるおにいちゃんじゃない?」
「でも、顔が」
「顔」
「顔……が、好きです」
 池口さんはまじろいだあと、「顔?」と自分の顔に触れた。
 池口さんは別にイケメンではないと思う。けれど、邪気がなくて、親しみやすい童顔なのだ。そういうところが、何というか、怖くない。
「俺、女の子に告られたの初めてじゃないけど」
 神妙な面持ちでカフェオレをすすった池口さんはつぶやく。
「『顔』は初めて言われたな」
「池口さんこそ、彼女さんとかいないんですか」
「いたら、こんなに堂々と心海ちゃんとお茶してないよ」
「……そうですか」
「そっかー。顔ねえ。いや、普通に嬉しいけどね?」
 池口さんはシナモンドーナツをもぐもぐとしたあと、「じゃあ、もし心海ちゃんがよかったら」と指についたシナモンをはらう。
「今度、一緒にどこか出かけようか」
「えっ」
「ここでしゃべるだけでもいいんだけど、スタッフの子も来るでしょ。心海ちゃんとだけ会いつづけてるって、ほかの子はよく思わないかもしれないし」
「ほかの人には会わないんですか?」
「そのつもり。俺から卒業してもらわないとね」
「私、は──」
「心海ちゃんだけはもうちょっと見守りたい」
 私は頬をほのかに染めながら、やっぱり嬉しくなってしまう。
「ついでに映画観たりする? あ、でも俺が好きなのホラーなんだよね」
「あ、私は中学時代、スプラッタよく観てました」
「マジで? 何か意外」
「お小遣い、毎週一本のDVDのレンタル代になってたので」
「はは。映画館もよく行ってた感じ?」
「映画館はあんまり」
「えー、じゃあ、映画館でスプラッタ観てみようよ。今ゾンビのやつ公開してるし」
「ゾンビかわいいですよね」
「かわいい」
「かわいくないですか?」
「待って、心海ちゃんって実はかなりおもしろいかも」
 池口さんは笑いをこらえながら言い、私はおもしろいことを言ったのかよく分からなくて首をかしげる。
「じゃ、今度、一緒にゾンビ映画観に行こう」と池口さんはにっこりして、その笑顔が好きなんだよなあ、と思いながら私はこくりとした。
 そして、カレンダーは七月になった。梅雨が明け、青空を蝉の声がじりじりと引っかく。空気はじっとり重くゆだって、五分外を歩けば意識がくらくらしてくる。風が抜けることはほとんどなく、アスファルトの焼けつくにおいが照り返した。
 真夏日が続く中、私はときおり、オフの日には池口さんに会うようになった。お茶をしながら、仕事がちゃんと続いているかを心配され、そのあと、私も店内の様子を伝える。一時間ぐらいおしゃべりをすると、デートみたいに映画を観にいったりする。
 約束通りゾンビ映画も観たし、買い物に出かけたり、車に乗せてもらって遠出もした。私は週五のフル出勤をしていたから、基本、休日はくたくたになっている。だから、毎回のオフを池口さんにはあてられなかったけど、今までオフはベッドで寝ているだけだったのを思うと、けっこういそがしくなった。
 何とか続くバイトと池口さんとの時間で、あっという間に秋になり、冬が近づいてきた。池口さんは新しい仕事も始めたけれど、それでも私に会ってくれた。
 寒さが急に色濃くなってきたクリスマスが近い日、池口さんは私に赤と黒のタータンチェックのマフラーをプレゼントしてくれた。「風邪ひかないように、こういうのもちゃんとしなきゃダメだよ」と池口さんは私の首をそのマフラーで包む。
 私はどきどきして頬を染めながらこくりとして、なめらかなマフラーのフリンジに触れてみた。男の人にプレゼントをもらうなんて初めてだ。それが池口さんなのが嬉しかった。
 ふたりでいろんなところに行ってしまったので、最近は私の部屋でゆっくりするときもちらほらある。その日も近所のスーパーで小さなホールケーキとフライドチキン、安いワインを買って、ちょっと早めにクリスマスを祝うことになった。
「池口さんはクリスマス、お仕事?」
 敬語はいいよと言われて、やっとそれが抜けてきた。私がそう訊くと、ローテーブルの向かいにいる池口さんは「今年はイヴもクリスマスも平日だからね」といちごが映える真っ白なショートケーキを口にふくむ。
「心海ちゃんは?」
「私もバイト」
「今日会えておいてよかったね。次会うのは来年かな」
「……つまんない」
「はは、またちゃんと会えるから、我慢しなさい」
 軽くむくれたものの、暖房が効いてはずしたマフラーをちらりとして、うなずいた。
 またちゃんと会える。そうだ。来年も池口さんとつながっていられる。危なっかしい妹としてだとしても、池口さんは私から目を離さずにいてくれる。
 ケーキとチキンがなくなる前に、「そろそろワイン開けようか」と池口さんは立ち上がった。ワインは冷やしていて、私の部屋の冷蔵庫なのに、池口さんは慣れた感じで瓶を取り出してくる。グラスなんてないから、マグカップに赤ワインをそそいだ。
「ワインとかあんまり飲んだことない」と言いつつ、私はわりと飲むことができた。半面、池口さんは意外にもあっさり酔ってしまって「何か眠い……」とくたりと絨毯に寝転がった。
「はあ、今の仕事けっこう疲れるからさー。心海ちゃんと過ごすのが癒やしなんだよねー」
「私、池口さんを癒やせてる?」
「それはもう……懐いてくれてかわいいし」
 私は照れ咲ってから、マグカップをテーブルに置くと、ベッドの毛布を引っ張ると池口さんにかけてあげた。そしてそのまくらもとに座ると、池口さんは私に目を向け、「癒やして」と言った。
 私は少し首をかたむけたあと、池口さんの頭を撫でてみた。池口さんはまばたきをする。
「癒やされた?」
 私が問うと、しばらくじっと見つめあったのち、池口さんは急に起き上がって「あー」と頭をかきむしった。
「ごめん」
「え」
「何か変なこと言っちゃったね」
「えと……あんまり元気出なかった?」
「いや、元気出た。頑張るよ。明日も仕事頑張る」
「ほんと?」
「うん。心海ちゃんらしいや」
「……そっか」
「もう何時? 終電、間に合うかな」
 時計を見上げると、二十三時をまわっていた。「やば、帰らないと」と池口さんは荷物を手繰り寄せる。いつのまにかケーキもフライドチキンも食べてしまい、ワインがちょっと残っているだけだった。「それは心海ちゃんが飲んで」と言われたので、首肯しておいた。
 池口さんは酔いのせいかよろけながら玄関に向かい、スニーカーを履く。「駅まで送る?」と訊いたけど、「帰りが危ないよ」と池口さんは私の頭をぽんぽんとした。
 そうしたあと、「俺にこうされると、心海ちゃんも癒やされるの?」と訊いてくる。私は池口さんを見上げ、「うん」とうなずいた。「そっか」と池口さんは微笑むと、「じゃあ、これくらいいくらでもしてあげるから、つらいときは言うんだよ」と残し、私の部屋を出ていった。
 私は池口さんに触れられた頭に触れ、いいこいいこなんて実家ではなかったからなあ、なんてぼんやり思った。
 私と池口さんは、相変わらずたまに会って、お金を使ってどこかに行くより、私の部屋でまったりすることが増えた。私はあまり行動的じゃないし、池口さんとのんびり過ごせるこの時間のほうが楽しかった。
 暖房を入れた部屋で、あったかいものを飲んでおしゃべりする。たまに、私のPCで配信をレンタルしてホラー映画を観る。並んで映画を観ながら、池口さんが肩を抱いてきたときにはどきっとした。ぎこちなく池口さんに寄り添ってみると、髪を撫でてもらえた。
 心臓が駆け足で脈打って、何だか映画の内容が急に頭に入ってこない。池口さんはどぎまぎする私を見て、「今日泊まれるんだけど」とささやいてきた。「はいっ?」と私が変な声を出してしまうと、途端に池口さんは噴き出して「心海ちゃんには刺激強いかあ」とか言って映画に向き直ってしまった。
 泊まるって。冗談? それとも、意味があるの?
 それを確かめられないまま、池口さんは私にやんわりと触れてくるようになった。「眠たくなった」と私のベッドに横たわり、そのまま寝入って本当に泊まってしまったりする。そういうとき、仕方なく私が床で寝ようとすると、「心海ちゃん」とベッドの中に呼ばれる。私は狼狽えつつも、ベッドに入って池口さんの腕に包まれた。池口さんの匂いと体温、軆つきがじかに伝わってくる。
 池口さん、何でこんなことしてくれるんだろう。私のこと、妹じゃなかったのかな。もしかして、会ってるうちに、意識してくれるようになったとか──
「心海ちゃん、俺さ、彼女いるんだ」
 初めて池口さんと関係を持った日、私が腕まくらに夢見心地になっていると、突然そんなハンマーが心に振り落とされた。
 私はぽかんと池口さんを見上げて、「え……」とかろうじて声をもらした。池口さんは目を合わせないまま、「ごめん」と私の髪を撫でていた手もおろした。
「言ったら心海ちゃん傷つくかなって、言えなかった」
 何。何何何。何、それ?
 どうしてこのタイミング?
 傷つくかなって、そんなの──先に言ってくれてたほうがマシだよ。こんなふうに結ばれてしまったあとに言われても、もっとショックだよ。
 何で早く言ってくれなかったの。立ち止まらせてくれなかったの。引き返させてくれなかったの。
 私の中で、今夜、池口さんは本気になったんだよ。
 いろんな責める言葉が胸を渦巻いたものの、それをぶつけたら、池口さんを失ってしまうのが何となく分かった。全部飲みこんだ。「そっか」とだけ言って、池口さんの胸に額をあてた。
「心海ちゃん」と呼ばれると、無理やり笑顔を作り、「やっぱり、彼女さんくらいいるよねえ」なんてわずらわしい女の涙を見せるのはこらえた。
 だって、もう戻れない。私の中で、池口さんは確実に忘れられない人として始まってしまったのだ。
 この人には、彼女がいる。きっと本命の彼女。それにひきかえ、何だか私はただのセフレ。
 分かっていても、私は池口さんに会いつづけた。ベッドにいるとき、池口さんのバッグの中でスマホがずっと震動しているときもあった。彼女も私のことに感づいてるのかな、と思いながら、私は池口さんのものを口で愛撫する。
 池口さんは、それをさえぎって私の前で着信に折り返すことはしなかった。けれど、行為が終わるとさっさと部屋を出ていってしまい、すぐに応えている。そして、友達といたとか眠っていたとか、白々しい嘘をついて平謝りしている。
 そういうのを知っていても、私は池口さんと会うのをやめられなかった。
 バカだと思う。こんなの報われない。断ち切らないと傷つくばっかりだ。
 電話でも直接でも、彼女に何か言われたらどうするの? 言い返せるような自信は何もない。私は池口さんに「好き」とひと言だって言われたことがないのだ。ただ、心配だから、見守りたいから、放っておけないからって──ただ、それだけ。
 なのに、池口さんに抱かれている私は、彼女からしたら愛欲ばかりの害虫みたいな存在だろう。
 三月に入った春先の夜、私は池口さんの車に乗って、久々にドライブに連れていってもらった。そして、ひと気のない場所に停まった車の中で、シートをきしませながら軆を交わした。服は脱がなかったけど、タータンチェックのマフラーは汚れないように外して、後部座席に置いた。
 行為が終わったあと、また池口さんのスマホに着信がつきはじめた。私はダッシュボードに投げられたスマホを見る。池口さんは疲れたようにため息をつき、「ほっといていいよ」とエンジンをかけて車を発進させた。私は助手席で息を詰め、スマホの明滅するLEDを見ていた。
 午前三時をまわった頃にアパートの前に着いて、私は車を降りた。遠ざかっていくテールライトをぼんやり見ていたけど、不意にはっとして、あのとき外したままマフラーを後部座席に車に忘れてしまったことに気づいた。
 どうしよう。池口さんにもらった大事なマフラーなのに。今すぐ池口さんに電話をかけたら引き返してもらえる──
 いや、きっと彼女と話している最中だ。仕方ない、あとで『今度会ったとき持ってきてね』とかメッセだけ送っておくしかない。私は息をつくと、酔っぱらいのうろつく裏通りを早足で抜け、部屋に到着した。
 ところが、次に私の部屋を訪ねてきたとき、池口さんは「探したけどマフラーなんてなかったよ」とさらりと言った。私がまじろいで、「え、絶対忘れたよ」と言っても、「なかったよ、何にもなかった」と取り合わずに私の部屋に踏みこむ。
 遠慮のないその背中を突っ立って見つめ、どうして、と喉の奥が冷たくなっていくように感じた。
 そんな明らかな嘘、何でつくの。あなたがくれたマフラーだよ。もしかして、彼女に見つかった? それとも、見つかる前に捨てちゃった?
 私にとっては、あなたにもらった大事なプレゼントなんだよ。なのに、あなたにはその程度のものだってこと? 彼女と気まずくならないためなら、私の宝物も、あっさりゴミ箱に投げ入れちゃうの?
 池口さんはPCで、映画の配信レンタルのページを見ている。私はのろのろとその隣に座る。すると、「何か飲みたい」と言われたので、私は仕方なくアイスコーヒーに牛乳を入れてカフェオレを作って持っていく。
「ありがと」とこちらも見ないまま池口さんはそれを受け取って口をつけ、私は噛んでいた唇をゆっくりと開いた。
「……そろそろ」
「んー?」
「そろそろ、私、池口さんと会うのやめないといけないね」
「えっ」と池口さんはやっとこちらを向いた。私はスカートを握りしめ、顔を伏せている。
「何で──」
「私、バイトちゃんと続いてるし。池口さんも、お店のこと訊いてこないし」
「え、いや……まあ、それは。辞めて一年近いんだし」
「池口さんに心配されなくても、バイト続けられるよ。大丈夫だから」
「……心海ちゃん」
「それに、……やっぱり、ダメだよ」
「ダメって」と覗きこまれて、私は鏡を見たくないみたいに池口さんから顔をそむける。
「彼女さんを、大事にしてあげなきゃ」
「………、」
「彼女がいるのに、私と会ってるのはダメだよ」
 心にもない言葉だった。けれど、きっと正しい言葉だった。
 池口さんも視線を落とした。私は細く息を吐いて、「私と過ごすくらいなら、彼女さんといてあげなきゃ」とPCを閉じる。
「いつまでも、ずるずるしてちゃいけないの。池口さんは、今すぐ彼女のところに帰って、それで私とはおしまい」
「いいの、それで」
「うん。これまで気遣ってくれてありがとう。今度は彼女さんを大切にしてあげて」
 池口さんは思いつめたようにうつむいた。しかし、やはり私に取りつくようなことはなく、ゆっくりうなずくと立ち上がった。
 私は膝を抱え、その背中を見送らなかった。靴を履く音。ドアを開ける音。「じゃあね」という最後の声。そしてドアの閉まる音がして、私はようやく顔を上げ、空っぽになった部屋を見渡して頬を濡らした。
 ああ、終わっちゃった。大好きだったのに。本当に大好きだったのに。だけど、だからこそ私とあなたの関係に、もうひとり交差しているのはつらかった。ふたりきりならよかった。ずっとふたりだけなら、よかったけど。
 あのタータンチェックのようなものだった。三色からできあがる綾織りみたいに、私たちは最初からふたりじゃなくて、三人だった。複雑にする混色だった糸は、私。だから、抜けるのも私。あなたは彼女と幸せになるべきなんだ。
 しばし声を殺して泣いていたけれど、涙をぬぐった。フローリングにぱたんと横たわって、目を閉じる。
 初めは、妹みたいなものだって言われた。けど、妹を抱く兄は普通いないよね。じゃあ、私はあなたにとって何だったんだろう。その答えも、今となっては取り逃がしてしまった。
 ただ、織り上げてきた初恋がほろほろと綻び、心の色彩がこぼれおちて、真白へと失われていく。

 FIN

error: