大学生になって一年が過ぎた春先、菜実に彼氏ができて、「おめでとう」と言うのが予想以上に苦しかった。
菜実は性別なんか気にならないと思ってきた、中学時代からの俺の親友だ。しかし、少なくとも俺のほうは、そう思いこんでいただけだったらしい。菜実が彼の雪雅くんの話をするたび、つらくて、痛くて、俺は自分がとっくに菜実に恋をしていたことを思い知った。
雪雅くんは、いい人だ。彼女の親友が野郎だなんていい気分じゃないだろうに、俺を菜実から遠ざける真似はしなかったし、今まで通りでいさせてくれる。
俺のほうが目障りじゃないかと気にすると、「僕にも女の子の友達いるしね」なんて、雪雅くんは微笑んでくれた。
「そういえば、同じ大学の僕の友達に、輝希くんが気になるって女の子がいるよ。興味ないなら、はぐらかしておくけど」
大学二年生の初夏、天井がガラスになったテラスで、空いた時間がかぶって雪雅くんと雑談していると、そんなことを言われた。
さすがに牽制かと肩をこわばらせたものの、王子様っぽいルックスの雪雅くんはにこにこしていて、悪気はなさそうだ。……悪気があれば、彼女にしてしまえとごり押しして、はぐらかすなんて気も遣わないか。
結局、俺は自分の腹が黒い事だけ感じ、「考えておくよ」と気弱に咲うほかなかった。
「えーっ、輝希なんか気になる女の子もいるんだ。つきあっちゃえばいいじゃん」
休日、菜実は自分の家は兄弟がうるさくて落ち着かないとか言って、よく俺の家に遊びに来る。雪雅くんとつきあいはじめてもそれは変わらない。
「雪雅くんの部屋に行けよ」と俺は言うのだけど、「雪くんの部屋は徒歩十分じゃないんだよー」と菜実は駄々をこねる。俺は仕方なく、一階の冷蔵庫に常備する菜実の好きな桃のネクターを持ってくる。
「サンキュ」と受け取った菜実に、俺は思い出して雪雅くんに言われた俺が気になるという子について話した。すると、茶色のボブカットの菜実は好奇心に満ちた瞳でそう言った。
……やっぱ、嫉妬なんかしないよな。当たり前か。そんなことを思ってしまいつつ、俺はベッドサイドに腰かけて白ぶどうの炭酸を口にする。はじける刺激が喉をすべっていく。
「輝希なんか、って何だよ」
「あー、ごめん。あたしには輝希ってありえないから」
「っせえな」と言いつつ、その言葉は胸にぐっさり来る。ありえない。俺にも、菜実がそうであったらよかったのに。
「どんな子? あたしも知ってる子かな」
「そこまでは聞いてない。雪雅くんの友達ではあるらしいけど」
「えー、ちゃんと聞きなよ。せっかく彼女ができるチャンスだよ?」
「チャンス、と言われても」
「あっ、それともすでに狙ってる子がいるとか? わっ、輝希のそういう話初めてかもしれない」
楽しそうな菜実を見つめて、それはお前だよ、と言えたら楽なのかなと考える。いや、本気にされないのはもちろん、気まずくなるどころか、笑い飛ばされるのだろう。
俺は息をついて、「お前が聞いといてくれよ」と床で脚を伸ばしてくつろぐ菜実に言う。
「何であたしが」
「俺から、そんな……どうこう訊くのも恥ずかしいだろ」
そっぽを向いて言うと、菜実はけらけら笑い出して「安定の輝希だなあ」と俺の膝をたたいてきた。
「分かった、任せて。確かに、奥手な輝希に相応しい女の子かあたしが見てあげないとね。雪くんの友達という時点で安心な気もするけど」
「……ごめん」
「んーん。気にしないで。輝希は親友だもん」
みぞおちのあたりが、ぎゅうっとすくむ。
親友。高校時代まで当たり前だったその言葉が、今ではどんな言葉よりナイフだ。
俺は菜実を裏切ってるんだろうな。よこしまな気持ちを持って、本当に気持ち悪いよな。こんなに近いのに、距離なんか感じて情けない。
菜実が雪雅くんにその女の子のことをいろいろ訊いて、やがて俺は、その子と顔を合わせる成り行きになってしまった。日紗子ちゃんというその子は、肢体がすらりとしてざっくばらんとした菜実とはタイプの違う、おとなしくてちっちゃい女の子だった。普通にかわいいけれど、菜実が俺のタイプなのだとしたら、好みではない。
しかし、菜実と雪雅くんがお膳立てしてくれて会ったのだから、咲わないわけにもいかない。日紗子ちゃんは頬を染めながら、「会ってくれてありがとう」と鈴の音のような声で言った。
「あ、いや。俺のほうこそ」
大学のそばのカフェで、俺はアイスカフェラテ、日紗子はアイスココアを手元に置いていた。
菜実とは軽口をたたくノリで話せるけれど、それ以外の女の子は、菜実がいないとどうあつかったらいいのか分からない。黙ってしまって、カフェラテを飲んでごまかしていると、「菜実ちゃんと仲がいいんだよね」と日紗子ちゃんはお人形のような長い睫毛をしばたいた。
「えっ。ああ、まあ」
「いい子だよね、菜実ちゃん。元気だし」
「ど、どうなんだろうな」
「いつから仲がいいの?」
「中学のとき、かな。広報委員になって、一緒に新聞作ったりしてた」
「そうなんだ。そんなに昔から仲良しなんだね」
「日紗子ちゃん、は、雪雅くんとはいつから友達なの」
「今の大学に入ってから。よく授業が一緒だったの。私、ほとんどひとりで、そしたら雪雅くんが声をかけてくれて」
「ああ……雪雅くん、そういう気遣いあるよね」
つぶやくように俺が言うと、日紗子ちゃんは小さく微笑んだ。
「肝心の菜実ちゃんには、なかなか声をかけられなかったみたいだけど」
「そうなの?」
「輝希くんとつきあってるかもって、思ってたらしくて」
「えっ」
「私も、輝希くんは菜実ちゃんが好きなんだろうなあって」
「い、いやっ。それはないし。絶対。ないよ」
慌てて否定する俺を、日紗子ちゃんは見つめて、「そっか」とほっとした様子で咲う。
「よかった。雪雅くんも、菜実ちゃんに思い切って訊くまで、信じられなかったみたい。だから、私も輝希くんに直接言ってもらえば、不安がなくなるよって雪雅くんが励ましてくれて」
だから、雪雅くんは俺に日紗子ちゃんの話を持ちかけたのか。いたずらに俺に彼女ができればいいと思ったわけではなく、どちらかといえば、友人の日紗子ちゃんを思いやったのだ。ほんとにいい奴だな、といよいよ勝ち目がないのを痛感する。
日紗子ちゃんに心が動いたわけでもないのに、菜実のことを考えないにはほかの女の子に目を向けるしかないとか思って、俺はときおり日紗子ちゃんと過ごすようになった。夏休みに入る前には連絡先も交換して、通話したりもした。
日紗子ちゃんはとても愛らしい女の子で、何で彼女にぜんぜんどきどきしないのか、自分でも歯がゆくなった。俺が日紗子ちゃんと通話しているときに鉢合わせると、菜実は何やらにやにやして「一階にいるー」と引っこんでいく。
でも、菜実が来ていると思うと、もう日紗子ちゃんとの会話に集中できなくて通話はまもなく終わってしまう。俺が一階に降りると、菜実は桃のネクターを飲みながら「もう日紗子ちゃんとつきあっていいんじゃない?」と言う。「ほっとけ」と返しながら俺が冷蔵庫に飲み物を取りにいくと、「ダブルデートしようよー」とか楽しそうに菜実はついてくる。
俺と日紗子ちゃんがなかなかお互いに踏みこまないまま、後期の授業が始まった。
菜実と雪雅くんは、つきあい初めは喧嘩なんかしなかったけど、はっきりした菜実と物柔らかな雪雅くん、やはりたまに意見が食い違うときがあり、そういうときはちょっとした冷戦になる。いつもただの雨降って地固まるだから、誰もそれを心配したりしなかったけど。
涼しくなってきた十月、俺がレポートをしていると「輝希いいい」と叫びながら菜実がまた勝手に部屋に入ってきた。俺は眉を寄せて椅子に座ったまま振り返り、「何だよ」と床にへたりこむ菜実を見る。
「雪くんはほんとにあたしのこと好きだと思う?」
「は?」
「ほかの女のとは違って、特別に想ってるの?」
喧嘩か、と察しながら「……想ってるだろ」と俺はぼそりと答える。すると菜実は気に食わないようにかぶりを振った。
「昨日ね、雪くんとデートだったの」
「はい」
「そしたら、道を訊いてきた女の人がいてね。まあそこまではいいよ。口頭の説明でその人が不安そうだからって、駅まで案内するってなったの」
「まあ、雪雅くんならするんじゃないか」
「しないでしょ!? デート中だよ!?」
「それでまた喧嘩か」
「喧嘩というか……雪くんは『困ってたみたいだったからごめんね』って言うけどさ」
「雪雅くんらしい」
「『ごめんね』で済まそうとするなら、初めから路頭に迷った女なんか放っておいてほしいの。あの女、雪くんにばっかり話しかけて、あたしのこと無視だし」
「それは、雪雅くんじゃなくてその女に切れるべきだろ」
「知らないよ! 駅で普通に去っていったから、名前も知らないよっ」
「お前が勝手にひとりで怒ってるだけじゃん」
「そうだよ! でもやっぱりムカつくの!」
菜実は立ち上がると、「一緒に怒ってよー!」と俺をヘッドロックして揺さぶってくる。「苦しい。ギブ」と俺は菜実の細腕をはたき、菜実はうめきながら俺の背中に額をあてる。
「あたしばっかり、雪くんが好きみたいじゃん。何で雪くんはあんなにみんなに優しいのかな」
「そこが雪雅くんのいいとこだろ。お前ばっかり甘やかす奴だったら、もう雪雅くんじゃないだろ」
「……うん」
「ちゃんと謝って仲直りしろ」
「うー、でもー。でもー」
「でも何」
菜実はむうっとふくれたあと、俺のベッドに倒れこんでふとんまでかぶってしまった。「何なんだよ」と俺は息をついて、椅子を立ち上がるとベッドに歩み寄る。
「菜実──」
「わがままだけど」
ふとんの中から、くぐもって声が返ってくる。
「あたしが喜ばないことはしないでほしい」
俺はふとんのふくらみを見つめた。
そんなの、と思った。俺なら、しないのに。菜実以外の女なんて、どうせそもそもうまく話せないし。俺は菜実にしか優しくしない。そういう彼氏になれる。菜実が咲ってくれることしかしない、そんな──
目をつぶって、一度強く首を横に振った。それから、つくえのスマホを手に取り、日紗子ちゃんにメッセを飛ばす。俺は雪雅くんの連絡先まで知らないけど、日紗子ちゃんは知っているだろう。雪雅くんに菜実を迎えにきてやってほしいと伝えた。既読がついたあと、日紗子ちゃんから了解のスタンプが来た。何分もせずに菜実のスマホの着信音がして、ふとんがもぞもぞ動く。「雪くんだ」と菜実がぼさついた頭を出した。
「『菜実も僕以外の男の人の部屋に行くのはやめてほしいな』……だって」
音読しながら次第に菜実がにやけてきて、俺は日紗子ちゃんに送った伝言の画面を見せながら、「愛されてんじゃん」とため息をついた。
菜実は一気に笑顔になると、「やっぱ輝希は親友だっ!」と飛びついてこようとする。「雪雅くんはそういうのやめてほしいんだろ」と俺がその頭をはたくと、「おっと」と菜実はくっつきかけた軆を離した。
「でもありがとう、輝希。雪くんが嫉妬してくれるとかー、もう、初めてじゃんっ」
「俺は友達だってよく言っとけ」
「そうだね。そこは言わなきゃねっ」
さっきまでのぐずぐずした感じは吹き飛んで、菜実は嬉しそうに咲っている。
俺が彼氏だったら、なんて、言えるわけがない。俺たちは友達なのだから、そんなの当然だ。菜実を笑顔にするのは、俺ではない。いや、俺では菜実を笑顔になんてしてやれないのだ。
俺がどんなに甘やかすような水をやったって、雪雅くんが暖かく照らさないと、菜実の笑顔は咲かない。
少しスマホでやりとりした菜実は、「雪くんのこと駅まで迎えにいってくるっ」と俺の部屋を飛び出していった。これから、菜実は俺の部屋に来ることもなくなるのかもしれない。それが雪雅くんにとっての「喜ばないこと」なら。残された俺はベッドに腰かけ、シーツに倒れてかすかな菜実の残り香を感じる。
俺にとって、菜実への想いは咲かない花だ。実るために散ることすらない。この気持ちは振ってもらうことすら叶わない。
友達としてそばにいたら、いつかもしかして、なんてくだらない期待を持って、如雨露を持って見守って。でも、きっとその花は俺に向かって微笑むことはない。
蕾のまま、立ち枯れて、風に飛ばれさて。そんなふうに終わって、菜実は彼氏を選んで俺を離れていく。男女の友情なんて、そんなもんだ。
レースカーテン越しの窓を見上げる。秋晴れが青く突き抜けて、薄雲がゆっくりちぎれていく。そんなふうにいずれ二度と戻れないくらいかけはなれるんだな、と思うと、すでに開きはじめている心の空洞と、そこに響く疼きに俺はやっと気がついた。
FIN