安純さんとの腐れ縁も、そろそろどうにかしなくてはならない。気持ちは消えていなくても、だからって好きでなくなるのを待っていたら、私が次に進めることはきっとない。
忘れなきゃ。新しい恋をしなきゃ。だから私は、実成くんとデートすることにした。
ずいぶん年上の安純さんと気楽に会ってばかりだったから、いざ同い年の男の子と会うことになると、化粧から服まで悩んだ。
メイクは自然なほうがいいの? やっぱり並んで歩くならかわいい感じの服? とりあえず私に分かることは、ピンクが似合うとよく言われることだ。
化粧はそれでまとめたものの、服までピンクだとしつこいかなと、オフホワイトのチュニックにパープルのレギンスパンツを合わせた。足元はワインレッドのシューズ。
ショートボブの髪も結えるかなと思ったけれど、普段やらないのでただもつれてしまい、結局櫛を通してストレートに戻した。よし、と鏡の前を立ち上がると、バッグに財布もスマホもあるのを確かめて、ささっと一階を通り抜けて青空の下に出た。
今日は、私の最寄り駅の改札で待ち合わせている。そのあとどうするのか私は考えていないけど、市内にでも出るのかな。完全に実成くんに任せているけれど、別に気取ったデートがしたいわけでもないし、何ならファミレスでおしゃべりしておいてもいい。
十月になったのに、日射しにはまだ熱がこもっている。風が抜けると涼しい日も出てきたけど、今日はけっこう暑い。汗かくなあ、と香水と絡んで匂いが立ちのぼる首筋を意識する。
駅に近づくほど人とすれ違い、ロータリーには車も路上駐車している。そこを抜けて歩道橋にのぼり、渡った先が改札口だ。
見まわしてみても、実成くんのすがたはまだない。けれど、スマホを見ると『次の駅でそっち着く』とメッセが来ていた。『りょーかい』と私は送信して、ふうっと息をつくと、改札と向かい合ったファーストフードのドアのそばにもたれる。
実成くんは、同じ職場である本屋でバイトする男の子だ。今年二十歳、同い年のフリーターですぐに仲良くなった。
この年齢だとたいてい大学に通っているから、そういう子たちはそういう子で集まる。大学に行かずフルタイムで働く私と実成くんは、よくふたりで「学校も勉強も嫌いだしねー」とか話して、同年代からはややはずれている。
こんな男の子と恋愛できたら楽しいんだろうなあ、とは思っていた。少なくとも三十路が近い安純さんとは違うだろう。それでも自分から踏み出せずにいると、実成くんに「オフ合わせてどっか行かない?」と誘われた。
私はまだ安純さんとの仲を清算していなかったけれど、実成くんを逃したくなくて、こくんとしてしまった。
私も実成くんも漫画が好きだし、小説も読む。本屋のバイトはやってみると楽しいだらけではなくも、本が好きだという気持ちが大きくて頑張れる。
店内の人間関係も緩やかで、私は実成くんと同じフルタイムのグループだ。その中に親しい女の子もいて、真智ちゃんというその子には実成くんとのデートを打ち明けてきた。昨日ふたりきりのバックヤードでお昼を食べながら、「つきあってる人はいいの?」と尋ねられた。
「安純さんとはちゃんとつきあってるわけじゃないし」
「まだ女いるんだ」
「邪魔なのは私のほうだし。離れる切っかけになったら、そっちのが楽かも。ごめんね、たくさん相談聞いてもらってきたのに」
「ううん。でも、実成くんとつきあうなら店内恋愛じゃん」
「つきあう、のかな」
「もしそうなったらの話。そしたら、絶対隠したほうがいいよ。うるさい人が出てくるから」
その会話を思い返しつつ、ほんとにつきあうとかなるのかな、と少し鼓動を意識する。
前のレストランでのバイトで安純さんに出逢って、たぶんそれが本気の初恋だった。告白して、一瞬だってつきあえたわけじゃない。けど、少なくとも安純さんに婚約者がいることを知ったのは、関係してしまったあとだったから私も簡単に引けなくて。
そんな恋に、実成くんがとどめを刺してくれたらいいなあとは思うけれど──
「茉那子さん!」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。改札から人が流れ出していて、その中に実成くんのすがたがあった。
柔らかく染めた焦げ茶の髪、愛嬌のある瞳や口元、鼻筋や頬から顎の線はしっかりしている。ごつごつした軆じゃなくても、華奢というほど細くないのが肩幅で分かる。
私は笑顔を作って、「おはよ、実成くん」と彼に駆け寄る。
「こっちまで来てくれてありがとう」
「いやー、茉那子さん、店内案内が苦手なくらい方向音痴だから」
「理由それ? うちの店内が広すぎるんだよー」
「いやいや、マジで出版社の棚は憶えよう」
「はあい。今日どうする? 何にも考えてない」
「このへん、何かある?」
「スーパーとコンビニがあるだけマシな感じ」
「市内出ますか」
「出ましょう」
「電車空いてたよ。さすが平日の昼」
「混んでると電車って疲れる。あ、そうだ」
実成くんに並んで歩き出そうとして、私と足を止めてバッグをあさった。「何?」と首をかしげた実成くんに、「はいっ」と私はラッピングしたプレゼントをさしだす。
「え、何? 何で?」
「誕生日、いつかは知らないけど秋って言ってなかった? 実が成るだから秋生まれ」
「マジかっ。憶えててくれたんだ。うわあ、いいの?」
「誕プレはとりあえずもらっとけ」
「ありがとうっ。わ、すげえ嬉しい。開けていい?」
「うん。ぜんぜん大したものじゃないけど」
実成くんはラッピングを開き、中身を取り出した。職場の近所にあるアニメショップで物色してきた、実成くんが好きだと言っていたアニメ化作品のグッズだ。
アクリルキーホルダーとメモ帳。私はそういうヲタ系グッズも買うけれど、実成くんは原作本以外は手を出さないようなのでめずらしいと思う。案の定、「え、これ限定版で手に入れてくれたとか」と言われたので、私は噴き出して首を振り、「普通に売ってるよ」と答える。
「マジで? え、俺こんなの売ってるの見たことない」
「ヲタ系の店行ったら、破産するほど売ってる」
「マジか。へえ……え、メモ帳とか使うのもったいないじゃん」
「使ってよ」
「キーホルダーは鍵につけるか。よし、あとでつける。とりあえず電車乗ろう」
「何なら、そういうショップ行ってみる?」
「デートで破産するとかかっこ悪いじゃん」
私は実成くんを見上げて、「デート」と繰り返した。「デートでしょ」と実成くんはしばたく。
「え、違う?」
「ううん。デートだね」
「焦った。ひとりでデートだと思ってたら泣くわ」
「はは。じゃあ、電車の中で市内出てどうするか決めよう」
「だな。あー、晴れてよかったー」
「暑いけどね」
「十月のはずが」
ふたりで咲いながら歩いて改札を抜ける。ホームに降りると、電車を待つあいだに実成くんはキーホルダーを鍵束につないだ。
「ありがと、茉那子さん」と改めてにっこりされて、私は微笑みかえしながら、いい笑顔だなあと思った。私と一緒にいて、そんなふうに咲ってくれる男の子がいるんだ。
安純さんはもうほとんどいらいらしていて、咲ったとしてもそれは行為が前提で。下心がない男の子なんて、かえって変に感じるくらいになっている。でも、実成くんは確かに私に下心なんて持っていないのだろう。
その日は、実成くんとあてもなく市内を歩いておしゃべりしただけだったのに、映画を観るより遊園地をまわるより楽しかった。この関係が恋になったらすごく心地いいだろうなと思った。
さすがに別れ際に告白なんてされなかったものの、「デート楽しかった」と実成くんは私を見つめて、駅前の雑踏の中で少し別れを惜しんだ。もし実成くんのほうから何か動いていたら、私は躊躇いなくうなずけるくらい心は恋になりかけていた。それでもその日は、結局そのまま「またね」と別れてしまった。
真智ちゃんも言っていたけど、店内恋愛はいさかいになりやすい。それは私も実成くんも分かっていたから、お店ではデートの話は出さないし、会話はメッセで済ます。それでも、帰宅してからの通話やオフに外で会うときは楽しい。
安純さんにはいちいち実成くんのことを報告しなかったけど、実成くんには安純さんのことを打ち明けておいた。「今も会ってるの?」と訊かれて、「呼ばれたら行くかな」と情けないのは承知で答えた。
もう行くなよ、と言ってほしかったのかもしれない。そう言ってくれたら、今度こそ安純さんを断ち切る。でも、実成くんは「そっか」と小さくつぶやいただけで、踏みこんでくることはなかった。
「もっと強く来てくれないと分からないよー」
ふたり以外バックにいないのを確信し、例によって真智ちゃんに相談に乗ってもらう私は、そんなことを言ってテーブルに伏せった。
「安純さんにそうされてきたからさー。分かんないよ」
「押してこないのは、実成くんなりにまなちゃんを大事にしてるってことじゃん」
「押していいよ。大事にされてるのは分かってるから、もういいよ。押し倒してくれていいんだよ」
「実成くんにそう言えば?」
「恥ずかしいだろおおおおお」
「安純さんみたいに愛されたいなら、安純さんにしとけばいい気もするけど」
「えー」
「尊重してくれるのが実成くんの愛し方なら、それを受け入れないと」
「男に『押し倒してよ』って言うのは酷なの?」
「据え膳だけどね」
「でしょ? もういいよ、実成くん。分かったから私を押し倒してよ」
じたばたする私を真智ちゃんがなだめていると、中番のバイトたちが出勤してきた。私と真智ちゃんは、慌てて昼食のコンビニ弁当を食べて、エプロンを着直すと売り場に出る。
仕事をしているあいだは、ぐちゃぐちゃ考えないからすがすがしい。閉店の二十一時までお店の中を走りまわって、いったん店を閉じても、精算や補充、準備や展開、掃除までたくさん仕事がある。仕事は二十二時、長いと二十三時まで続き、終電で帰宅する日もある。
好きな仕事じゃなかったらブラックだな、とか思いつつ、その日も二十三時頃に店から駅まで歩いていた。私の地元は職場から二駅下る。明日も出勤だなあ、とあくびを噛んでいると、不意にスマホが鳴った。
【第二話へ】