Second Chocolate-2

 着信音で分かる。安純さんだ。迷ったものの、結局取り出してみてしまう。メッセのポップアップがある。
『明日オフだから会ってもいいよ。
 電車あるし、今からいつものファミレス来て。』
 言い知れない不快感、そしてそれに負けない安堵のようなものを覚え、唇を噛む。
 会ってもいい。電車あるし。今から。
 何なの。何であの人はいつもこんな傲慢に私を呼び出すの。もうホテルにさえ行かない。車で済ます。そして私を深夜に家に送り届けて、さようなら。
 こんなに都合のいい女ってない。どうせ安純さんは私で「吐きたい」だけだ。こんな人、無視すればいい。既読つけちゃったけど、スルーでいい。そして、メッセなら実成くんに飛ばして、通話でもしたら──
 ああ、もう!
 私は乗るはずだった下りの電車でなく、ホームに舞いこんできた上りの電車に乗る。いつもこうだ。気紛れなメッセをもらって、まだつながっていたことに安堵して、つい会いに行ってしまう。
 そして愛の欠片もない行為にざらざらした気分になって、深夜のシャワーに埋もれて泣く。もう嫌なのに。やめたいのに。
 そのために実成くんとデートだって重ねている。なのに、私は──
 高校二年生のとき、初めてのバイトでファミレスで働きはじめた。安純さんはそこのキッチンで働いていた。私はホールスタッフで、そんなにしょっちゅう接点があったわけではない。
 ただ、ミスで怒られたりして落ちこんでいると、安純さんは私のまかないにちょっとだけおまけをつけてくれた。パルフェに使うフルーツ、あるいはお菓子だったり。フライドポテト数本だったり。
 私はそれを食べて、何とか気持ちを持ち直して頑張ることができた。そのうち、支えになってくれている安純さんに恋している自分に気づいた。
 バレンタインを渡した。「義理じゃないです」と言うこともできた。ホワイトデーのお返しの中に連絡先のメモが入っていて、メッセや通話をするようになった。生まれて初めてのデートは映画館だった。
 あっという間の一年、高校卒業をひかえた冬、「大学行かずに生きていくのはつらいぞー」なんて頭をぽんぽんとされても、行きたくないものは行きたくないと思った。親も似たようなことをかなり言ってきた。先生たちも。だから何だかつらくなって、夜中に家を飛び出した日があった。私は安純さんに連絡して、迎えに来てもらって、ホテルで朝を待つあいだに彼に抱かれた。
 高校を卒業して、初めはぎこちなかった行為にも慣れてきた頃、安純さんは「話さなきゃいけないことがある」と言った。五年以上つきあって婚約を交わしている恋人がいる話だった。
 私の支えはぽきんと折れて、バイトも辞めた。
 しかし、結局スマホから安純さんの連絡先を消せず、また会って、勝手に辞めたことを責められて、顔見れない、じゃあもう会わない、それは嫌、ならどうすればいい──そんな繰り返しのうち、関係がどろどろになっていって、いまだに私は安純さんを拒絶することができずにいる。
「よ、茉那子ちゃん」
 ファミレスに現れた私に、安純さんは笑顔を向けてくる。あとで求めるための笑顔。ああ、だけどやっぱりその笑顔が好き。
 童顔のかわいらしい笑顔で、もうすぐ三十だなんて嘘みたいだ。ちょっとくせ毛が跳ねる短髪、凛々しい眉、快活そうな口。輪郭も柔らかいから、本当に幼く見える。身長もそんなに高くない。
「何か食べる?」
「……少しだけ」
「仕事終わったとこ?」
「はい」
「本屋だよね。もう半年くらいか」
「そうですね」
「続きそう?」
「本は好きなので」
「本ってイメージ違うな。茉那子ちゃんとは映画ばっか行くせいかなあ」
 私はあやふやに咲って、メニューを広げた。お腹は空いているはずだけど、食欲がない。結局ミルクレープだけにすると、「女の子だねえ」と安純さんは笑う。
「茉那子ちゃんは、明日も仕事?」
「はい。なので──」
「分かってるよ、送ってく。食べたら車行こう」
 やっぱり、ホテルで休憩さえしない。なのに、私は何のために交通費をはたいてここに来たのだろう。この男のはけ口になるため? それだけ?
 あまりにもみじめだ。だけど分かっていた。どうせそんなものだろうって、分かっていた。なのに、なぜ私は安純さんの奴隷みたいになっているのだろう。
 安純さんは、私と間違いを犯すわけにはいかない。絶対にそれだけは避けなくてはならない。だからなのかどうか、滅多に中に入ってくることがない。
 いつも口だ。私の口に入れて、しゃぶらせて、舌の上に射精する。飲みこむときは苦味に顔がゆがんでしまう。終わると、吹っ切れた演技でさばさば会話するように努める。
 でも、たまに泣いてしまう。私が泣き出すと、安純さんは険悪な態度で私をののしる。うざい。嫌い。面倒臭い。そんな言葉を吐き捨て、私を家の前で下ろして、挨拶のハザードもなく去っていく。
 これで最後かな。そんなふうに思って、心臓をずたずたにされたみたいに息ができなくなる。だから、また連絡があると私は思わず反応してしまうのだ。
「何か、私がダメなんだって分かってるけど」
 安純さんに会った翌日の夜、実成くんからメッセが来て通話を始めた。安純さんに会った後悔が渦巻いていて、いつになく話題がネガティヴになってしまう。「今通話してくれてることに甘えるからね、そういうタイミングだからね」と前置きして、安純さんにしたこと、されたこと、容赦なく実成くんに吐き出していた。
 自分のことで頭がいっぱいで、実成くんの様子に気づけなかった。相槌が気圧されていることに気づき、少し言葉を我慢すれば、取り返せたかもしれないのに。
「何で会っちゃうかなあ。会ったって幸せじゃないのになあ」
『……やっぱ、その人が好きなんじゃない?』
「嫌いだったら簡単だよね。でも、嫌いにはなれない。もう好きでもないけどさ」
『会っちゃうなら好きなんだよ』
「えー……。でも、早くあの人は離れたい。あの人と会うくらいなら、実成くんに会いたい」
『……そっか』
「またどっか行こうね。どっか行くというか、しゃべってばっかだけど。それでも──」
『茉那子さん』
「うん?」
『俺、……その、こないだ高校時代の後輩に会ってさ。部活のマネージャーだった女の子なんだけど』
「……部活」
『俺、昔バスケやってたんだ。怪我でバスケ続けられなくなって、そのやけくそで大学も行かなかった』
「そう、なんだ」
『その頃の俺を、後輩はよく知ってて。ずっと心配してたって言われた。あと、その頃から俺が好きだったって』
「え……」
『俺、そいつとつきあうことにしたんだ。だから、もう茉那子さんと出かけたりとか無理なんだよね。こんなふうに話すのも無しにしないと』
「つき、あうの」
『うん』
「そっ……かあ。お、おめでとう」
『ありがとう』
「……はは、何か残念だなあ」
 そう無意識につぶやくと、『そう言ってくれるのが、少し遅かったね』と実成くんは哀しそうに言った。
 遅かった。何、それ。だったら、君から言ってくれたってよかったのに。そうしてくれたら私はうなずいていたよ?
 いや、ずるずる安純さんの話をしていた私が悪いのか。それは言い出しづらいよな。実成くんは優しいし。押しつけとかしないし。
 でも……さすがに今回だけは、勇気を出して、私の手を引っ張ってほしかった──
「えっ、じゃあ、まなちゃんと実成くん、つきあわないの?」
 同じ最寄り駅である真智ちゃんと、オフの日に駅前のコーヒーショップでカフェオレを飲みながら、一連のことを話した。ここはカフェオレおかわり無料なのがありがたい。
 三杯目で実成くんに決別までされたことまで語ると、私はため息をついた。コーヒーゼリーを食べる真智ちゃんは、「ええー」と動揺を隠さずにまばたきをする。
「あんなにうまくいってたじゃん。何でぽっと出の後輩が」
「そこまでぽっと出でもないけどね」
「いや、今じゃん! 実成くんには、もう仕事を楽しんでる今があるんだから、そっちを優先すべきでしょ。過去振り返って、バレー挫折したことにうじうじするの?」
「バスケだった気がする」
「種目はいい。ここであきらめるのはよくないよ、まなちゃん」
「恋愛しんどいよお。男が何考えてるのか分かんない。やらせればいい男とか、やらずに捨てる男とか、何がしたいの」
「うーん……まあ、実成くんに安純さんのことは話さないほうがよかったのかなあと思うけど」
「何で?」
「好きな人が昔の男引きずってる話が楽しいか」
「信頼してるから話したのに」
「実成くんには重かったんだと思う」
「私は実成くんを信用しちゃいけなかったの?」
「そういうわけじゃなくても。信頼と甘えは違うよ」
 甘え。それなら、私、断ったんだけどな。今から甘える、そういうタイミングだから聞いてほしいって。
 それでも、私は甘えてはいけなかったの? 実成くんが、もしとっくに私に「好き」だと言っていたら、あんなどろどろな話は黙っていたかもしれない。でも、実成くんはあくまで何も打ち明けてこなかった。
 私のことは友達なんだな、って思うじゃない。だから、「友達」の彼に私は話したのに、いきなり「男」の顔をして「もう関わらない」って。
 悪かったのは、実成くんに恋心をほのめかさなかった私? 実成くんが私に切りこまなかったことは悪くないの? 優しさだから? 尊重だから? そんなもの、ビビってただけじゃない。
 十月も半ばを過ぎると肌寒くなって、やっと長袖の服が活躍するようになった。空が冷気で澄んで、音をともなって切り抜ける風に枯葉が散っていく。温かい食べ物や飲み物もおいしくなった。アスファルトを照り返していた蒸した匂いもほどけて、今ちょうど気候がいい。
 そんな頃の朝、店長の次に出勤してきた私は、バックでカレンダーを眺めながら、十一月のシフトの希望を出さなきゃなあ、と思っていた。
 もし辞めるなら、一ヵ月前に申告だったっけ。辞めるなら今だな、なんて考える。来月になって辞めたいと言っても、年末年始が重なって受けつけてもらえないかもしれない。十一月いっぱいで辞めたいと言えば、通る可能性がある。
 正直、実成くんと顔を合わせるのがきつい。実成くんもそうだと思う。だったら、どちらかがこの店を去るのだ。この仕事はすごく好きで、辞めるのは惜しくても、これ以上実成くんが彼女ができた話を嬉しそうにしているのを見たくない。我ながらくだらない理由だけど、期待していたぶんの反動が本当に重い。
 年末年始。ちょっとだけ思うけれど。クリスマス、お正月、ノリとかで巻き返せるかもしれないとか。でも、何もなかったら情けない。いや、きっとどうせ何もない。未練がましいのは、安純さんで疲れた。

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