Second Chocolate-3

 私はバックの中にある、店長専用の個室のドアをノックした。それからドアを開けると、「ん、どうした?」と二十代後半の男の店長が、向かっていたPCから振り返ってくる。
 本当の理由は言わない。別に実成くんに皮肉を残したいわけじゃない。就職したくなったとか、適当に言っておこう。私は何とか笑顔を作ると、なるべく波紋を残さないよう気をつけながら、店長にあと一ヵ月で仕事を辞めたいことを伝えた。
 店長はかなり驚いて、何か問題や支障があったのか聞いてくれた。それには「ここでの仕事はすごく楽しかったです」としか言わなかった。「君が抜けると痛いんだけどなあ」と引き止められても、曖昧に咲う。「ずっとバイトってわけにもいかないですし」と言うと、「ここを続けてたら社員にスカウトされることもあるよ?」と返してもらえたけれど、「親がうるさくて」なんて嘘を並べる。最終的に、「そっかあ」と残念そうにながら、店長はうなずいてくれた。
 本音では、いなくなるまで辞めることはみんなに隠していたかったけれど、そうしたいと言うと問題があったみたいだから、店長が私が店を辞めることをみんなに通達するのは止めなかった。みんなびっくりして、「どうしてー」とか「寂しいよ」と言ってくれる。真智ちゃんも「まなちゃんが辞めたら、私も辞めたくなるじゃん」としがみついてくれたけど、私は「ごめんね」としか言わなかった。
 実成くんも驚いていたのが、視界の端に映った。何も言ってこなかったけど、それは本当の理由が分かっていたからかもしれない。
 十一月になった日、部屋でスマホを握りしめていて、安純さんにもバイトを辞めたことをメッセで伝えようとした。でも、きっとバカにされる。そもそも、こっちから連絡しただけで怒るのだ。そんな人にいちいち報告してどうなるのだろう。
 これを機に、安純さんも切ってしまおうかな。男に自分の時間をかき乱されるのはもう嫌だ。私は安純さんのトークルームを開き、ずいぶん躊躇ってから、ブロックをタップした。警告文が現れ、思い切って『OK』をタップする。そして、ブロックリストからも削除すると、とてもあっけなく安純さんとのつながりはなくなった。
 ベッドに倒れこんで、こんな簡単かよ、と思った。これで安純さんに干渉されることはない。これで済むなら、実成くんがほかの女の子に目を向ける前にやっておけばよかったな。そうしたら、私は実成くんと幸せだったかもしれない。
 十一月二十日まで私は本屋に勤めた。私が辞める前に、補充の新人の男の子が入ってきたので、私の最後の仕事は彼に仕事を教えることだった。はきはきした男の子で、この子ならきっとみんなとなじめるだろうと感じた。あっという間に最後の日が来て、私は菓子折りを置いて、店をあとにしようとした。
 従業員専用の裏口から店を出たとき、「茉那子さんっ」と不意に呼ばれて立ち止まった。
 振り向くと、エプロンも着たままの実成くんだった。私はあやふやな笑顔で、「何?」と訊いた。実成くんは唇を噛んでうつむいたものの、すぐ顔を上げて私の目の前まで駆け寄ってくる。
「つらかったんだ」
「……は?」
「茉那子さんが、今でも好きなんだろうなって男の話をするのがつらかった」
「………、」
「茉那子さんが好きだから、ほかの男の話とか、してほしくなかった」
 目を開いた。裏口の非常燈だけであたりは暗く、実成くんのはっきりした表情は見取れない。
「ごめん。俺が正直にそう伝えればよかったのかなって。茉那子さん、この仕事すごく楽しんでたのに」
「……私は、」
「俺のせいでごめん。わがままかもしれないけど、茉那子さんと今日で他人になるのは嫌だよ」
「でも、」
「連絡していい?」
「……彼女がいるんでしょ」
「メッセとかなら、別に浮気じゃないと思うし」
 実成くんを見つめた。
 何でそこで、彼女とは別れるよ、ではないのだろう。そう言われても、胡散臭いのは同じだけど。彼女とつきあう前に好きだった私と連絡を取って、それって本当に裏はないの?
「私と連絡を取ってたら、彼女は不愉快だと思うよ」
「別に、いちいち連絡相手が誰とか全部話すわけじゃないし」
「………、まあ、私は構わないけど」
「ほんと?」
「彼女に知られて、揉めるのは嫌だよ」
「そこはちゃんとする」
「……そう。じゃあ、用事とかで着信気づかなかったらごめん」
「いつ折り返してくれてもいいから」
「分かった。じゃあ、またね」
「うん。また」
 実成くんは安堵を混ぜた声で手を振って、私はそれに軽く頭を下げると駅への通りに出た。
 友達だよな、と思った。何だか二股宣言にも感じたけれど、私とは友達なら別に二股ではないか。
 私のこと好きだって言っていた。好きだから、ほかの男の話がつらかった。そういうことは、早く言ってくれていたら、私だって遠慮したのに。いまさら、何もかも遅いじゃない。
 実成くんが彼女を作って、そこで、もう私と彼は期限が切れたのだ。
 それから、前みたいに毎日何かしら実成くんから連絡が入るようになった。仕事でばたばたしていた日々から一転してヒマなニートになった私は、それに応えるくらいしかやることがない。距離を保たなくてはと思いつつも、次第に実成くんとのメッセ、時には通話がまた楽しくなってきた。
 やっぱり、実成くんとはすごく合うなあなんて思う。話していて楽しいし、気兼ねないし、安心できる。実成くんもそうだから、私とまたこうして話してくれているのだろう。
 やがて、軽くお茶でもしようか、という話題になるのにそんなに時間はかからなかった。
 クリスマスが過ぎた年末、町のあちこちがお正月を迎える準備をしている。駅の改札の前で、私はダッフルコートを着込んで実成くんを待っていた。会うのはちょっと久しぶりだな、とやや緊張していると、改札から人があふれてきた中から「茉那子さんっ」と実成くんの声がした。
 目を凝らすと、実成くんが私の元に駆け寄ってくる。変わらない笑顔を見つめて、「仕事いそがしいときなのに大丈夫?」と気にすると、「いそがしいから茉那子さんに会うんじゃん」と実成くんはにっこりして、意味深な言葉だけどうなずいておいた。
 別にもうデートではないし、市内に出たりはしなかった。いつも真智ちゃんとお茶するコーヒーショップに行って、私はカフェオレ、実成くんはコーヒーを注文して空いている席に着いた。コーヒーの香りが心地いい店内は暖かく、上着は脱いで椅子の背凭れにかけておく。飲み物で体内も温めると、何となく視線が重なって、曖昧に咲ってしまう。
「ほんとによかったの?」
「え、何が」
 きょとんとした実成くんに、「今日オフなんでしょ」と私は肩をすくめる。
「彼女さんと過ごさなきゃいけないんじゃない?」
「ああ──でも、今あいつ受験だし」
「高三なんだ」
「そう。部活では俺が三年であいつが一年だった」
「勉強教えたりとかは」
「大学行ってない俺に教えることなど」
「はは。そういえばそうだよね。お店はどう?」
「何とかまわってる。でも、茉那子さんが抜けた穴は痛いなあってみんな言ってる」
「そのうち慣れるよ」
 少し咲うと、熱いカフェオレの甘い味を飲みこむ。
「茉那子さん、次の仕事とかどうすんの? 就職っていうのは、結局──」
「まあ、嘘だよね。実成くんが私の顔見たくないかなあって」
「……ごめん」
「いいよ、もう。次の仕事か。考えてないな。何かしないと親がうるさいんだけど」
「たまには休憩も必要だし、充電期間と思っておきなよ」
「だね。ほんと、毎日何にもしてないよ。実成くんにメッセ返してるくらい。たまに真智ちゃんと話すけど」
「真智さん、茉那子さんがいなくなって元気ないよ」
「電話とかでもそんな感じ。心配だけどなあ」
「戻ってくるってないのかな」
「えー、いまさらどんな顔で戻れと」
「就職決まらなかったとか。この仕事が好きだとか。何とでも言えるよ」
「うーん、まあ……すごく困ったら考えておく」
「みんな喜んでくれるよ」
「そうかなあ……」
 カップを手のひらに抱いて、指が溶けていくのを感じていると、「あの」と実成くんが遠慮がちに訊いてくる。
「今、毎日何にもしてないって言ったけど」
「うん」
「その……あの人は?」
「あの人」
「好きな人、というか」
「ああ。どうしてるんだろうね。ブロックしたから」
「えっ」
「ぜんぜん会ってないよ。連絡もしてない。ブロックしても、メアドとか知られてるなあとも思ったけど、そっちに何か来ることもないし。向こうもさらっと流したんじゃない」
「そう、なんだ」
「早くこうしてればよかったんだよね。愚痴ばっか聞かせてて、ごめん」
「……いや」
「こんなもんだったのにね。あんなに悩んでバカだったなあ」
 咲ってしまいつつ、カフェオレをこくんと飲む。実成くんもコーヒーを飲んで、それから私をまっすぐ見つめてきた。
「茉那子さん」
「ん?」
「また、俺に会ってくれる?」
「えっ」
「俺はまた、こんなふうに茉那子さんと話したりしたい」
「彼女が春には受験終わるでしょ」
「そう、だけど──」
 実成くんは焦げ茶の髪をかきむしって唸り、目をつぶって考えてから、ふうっと息をつく。
「そうだよな。ごめん、俺はよくても茉那子さんが嫌か」
「私──」
「揉めたくないって言ってたもんね」
「……会うだけなら、構わないよ」
「えっ」
「それは、特にやましいことでもないし」
「ほんと?」
「彼女さんがどう思うかは正直分からなくても、友達として会うなら悪いことじゃないよ」
「だよな。じゃあ、またこんなふうに会ってもらえる?」
「ん、まあ──そう、だね。お茶ならいつでも」
「よかった。もう職場では茉那子さんには会えないし。でも、やっぱときどきは会って話したいからさ」
 私は小さくうなずいて、カフェオレの熱を体内にそそぐ。
 会うだけ。会うだけだ。それなら、たぶん浮気相手にはならない。自分にそう言い聞かせて、実成くんの照れたような笑顔に咲い返した。
 すぐに年が明けて、今年一番初めに通話したのは実成くんだった。私も実成くんも、今年二十歳だから成人式がある。でも大学に行っていない気まずさもあるし、私も実成くんも出席しないことにしていた。
 代わりにふたりで会って、ささやかに成人を祝おうかということになった。私はいつもより少しお洒落を気にかけて待ち合わせに向かい、すると実成くんのほうもスーツすがただった。「ホストみたい」と笑ってしまうと、「違いますっ」と実成くんは私の頭を小突いて、それから「茉那子さんはかわいいね」と言った。
 思わずどきっとして固まると、「かわいい」と実成くんは繰り返し、すごく自然に私を抱き寄せてきた。え、と混乱してされるままになると、ぎゅっと抱きしめられて、「寒かったから少し」と実成くんが言って、寒かったのか、と何とかその言葉を反芻して私はおとなしく実成くんの腕に収まった。

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