何。何なの。これってどういうこと? 真智ちゃんが私の発言を実成くんに流さなかったら、うまくいってたってこと?
真智ちゃんが嫌がらせで伝えたのではなく、アドバイスしたつもりなのは分かる。でもさすがに、余計なことでしょ。
私がテーブルに伏せってしまうと、「茉那子さん」と実成くんの声がする。でも悔しすぎて顔を上げられない。バカなことを言った私も私だ。実成くんの優しさを否定したのは私だ。
分かっているけど。急に視界が滲んで、目をつむると私は抑えて震える声で言った。
「私は、実成くんと幸せになりたかったよ」
沈黙に店内のさざめきが流れて、「茉那子さん」と実成くんが私の手を握ってくる。私は涙が落ちないようにまばたきをこらえて顔を上げる。実成くんは私をまっすぐ見つめてきた。
「幸せにする」
「え……」
「茉那子さんを幸せにするよ」
私は何とも言えない。だって、いまさらじゃない? そんなことできるの? もし私が幸せを得たとしても、誰かが必ず泣くでしょう? なのに──
「俺も茉那子さんと幸せになりたい」
「実成くん……」
「茉那子さんが好きなんだ。どうしても、まだ好きなんだ」
「……でも」
「茉那子さんは?」
「………、」
「俺のこと、あきらめた?」
「……あきらめなきゃ、って。思うけど。そんな……簡単に、いかな──」
実成くんは身を乗り出し、私の手を引いて引き寄せるとテーブル越しにキスしてきた。触れあうだけの淡いキス。でも、私は目を開いてしまう。実成くんは私の手をつかみなおし、「彼女とは別れるから」と言った。
「別れたら、一番に茉那子さんに報告する。だから、そうしたら俺とつきあって」
「彼女さん──は、そんなに簡単に、別れてくれるの?」
「分からないけど。俺には気持ちがないのは伝える」
「……ほんとに、いいのかな」
「だって、俺たち両想いだよね?」
私は実成くんを見つめた。両想い。うん。そうだ。私も実成くんも、相手が好きで、この人と幸せになりたいと想っている。
なのに、つきあわないほうがおかしいよね。切り捨てるべきなのは、私の心じゃなくて、彼女さんの存在──
すぐ二月になって、スーパーもコンビニもバレンタインフェアで賑やかになった。私も実成くんに用意していいものか、ちゃんと別れたという報告を受けてからのほうがいいのか、かわいらしいフェアの棚の前で悩んでしまう。
いつもなら真智ちゃんに相談していたところでも、実成くんに必要以上に情報を流していたことが引っかかって、何だかうまく話せそうにない。本当はひと言いいたくても、真智ちゃんがいらないことしなければよかったのに、とか責めるのはたくさん聞いてもらったのに申し訳ない。
とりあえず、真智ちゃんはしばし警戒しよう。誰にも話してほしくなければ、何も話さない。バレンタインもひとりで考えて決めよう、とその日は私は頼まれた買い物を終えてスーパーから家に帰った。
十日ぐらいあっという間に過ぎた。今年のバレンタインは週明けで、悩んだ結果、一応買ったチョコレートを用意してしまった。十二日の日曜日、実成くんに『チョコ渡してよければ、今度持っていくね。』とメッセを飛ばしておいた。すぐの返事はなかったので、仕事中かなとそのままスマホを放ってベッドでうつらうつらしていた。
突然スマホが着信音を鳴らし、それが実成くんの着信音だったので、私は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし」
私がそう言っても、何も返ってこない。ん、と思って行き違って切れたかなと画面を見直す。実成くんの名前が表示されていて、通話中になっている。
あれ、と思って「もしもし?」ともう一度呼び掛けてみると、『あたし、』と突然女の子の声が返ってきたから驚く。
『あたし、先輩と別れませんからっ』
「は……?」
『ずっと好きだったのはあたしのほうだし、絶対、絶対に別れない』
あ──そうか、実成くんの「彼女」だ。どういうわけか知らないけれど、今、実成くんのスマホを勝手に使っているのだろう。
『あなたのことなんか、忘れてもらうから』
「………、」
『今は先輩があなたのこと好きなのは分かってる、でもそんなのに負けない。つきあえたんだから、絶対別れずに、あたしが先輩を──』
そこでがたっと物音がして、『何してんだ』という実成くんの声が聞こえた。『先輩がひどいからだよ』とさっきまでの強気な声とは裏腹の泣きそうな声がする。あたしとつきあってるのに、どうして別れるなんて、ほかに好きな人がいるとか、何でそんなこと言うの──泣きわめく声を茫然と聞いていると、『茉那子さん』という実成くんの声が流れこんできてはっとする。
『ごめん、何か言われたと思うけど気にしないで』
「実成くん──」
『今はこいつ落ち着ける。もうすぐ受験だから、不安定なんだ』
「あ、あとで──メッセの返事だけもらえたら」
『分かった。ほんとにごめん』
通話が途切れて、私はトークルームに戻った画面を見つめた。
彼女さんの泣き声が耳の中にこだまする。ああ、私もあんなふうに泣いたなあなんて思った。安純さんに婚約者がいると知って、私と別れたあとは彼女に会いにいくのだと思うと、頭も心も耐えきれなくて泣いた。
安純さんの私を見下ろす疎ましげな眼がよみがえる。今、実成くんのあの目を彼女さんに向けているとしたら、なんていう忌まわしい連鎖だろう。
もう遅いんだ。そう、彼女さんが正しい。捕まえた時点で彼女さんの勝ちなのだ。私は負けた。実成くんに取り入る立場じゃない。そういうタイミングだったのに、悔やんで奪うのはよくない。
やはり、廃棄物は私の想いだ。この想いを抱えていても軆を壊す。もう恋として私の想いは期限が切れているのだ。
『バレンタイン会えるから、そのときチョコもらうよ。』
実成くんからそんなメッセが深夜になってから届いた。でもそのときには、私はすでにチョコを包装ごとゴミ箱に入れていた。でもそのメッセには、『じゃあバレンタインにいつもの店でね。』とは返しておいた。
翌々日の二月十四日、私はいつものコーヒーショップで実成くんを待っていた。「茉那子さん」と不意に名前を呼ばれて顔を上げると、実成くんがテーブルを縫って駆け寄ってくる。「待たせてごめん」と言われて、「そんなに待ってないよ」と私はカフェオレのカップをおろす。
「あのね、実成くん」
私の正面に腰を下ろす実成くんに、私は静かに伝えた。
「やっぱり、チョコは持ってこなかった」
「えっ」
「私があげちゃダメかなって」
実成くんは私をじっと見つめてから、「うん」とうつむいた。
「彼女さんにはもらった?」
「……ちょうど、あの日に」
「そっか」
「それを、いらないとか言って突き返したから。あいつ泣いてて。鬱陶しくてトイレ行ってた隙に、スマホいじられてさ」
「でも、実成くんがつきあってるのはあの子だよ」
「……うん」
「私じゃないんだよ」
「茉那子さん──」
「実成くんには、私じゃなかったんだよ」
実成くんはため息をついて黙った。私は熱が柔らかくなったカフェオレに口をつける。しばらくテーブルは静まり返っていたけど、不意に実成くんがショルダーバッグから鍵束を取り出した。
「メモ帳は、必要なこともメモってるからもう返せないけど」
かちん、と鍵束からひとつのキーホルダーを外し、実成くんはそれを私のほうにさしだしてくる。初めてデートしたときに私が渡したプレゼントだ。
「自分では捨てられないから。よかったら、代わりに」
「ん。捨てとく」
「持っててはくれないんだ」
「待てるか分からないし」
「……そう」
「もし、また会うときがあって、実成くんに彼女がいなかったらまた何かプレゼントするよ」
「会うのもやめる?」
「やめる」
「連絡は?」
「連絡先を変えるときが来たら、教えないよ」
「寂しいな」
「実成くんに彼女ができて、私たちは、そもそもこうなってたはずなんだよ」
実成くんは顔を伏せ、「そっか」と言って、一瞬表情をゆがめた。私も泣きたかったけど無理に咲って、「彼女さんに『別れない』って早く報告しなよ」と言った。
実成くんが私を見る。咲ったけど、どこかすがるように切なく、私はまた引き落とされそうになったものの、思い切って席を立つ。
「じゃあね。彼女さんを大切にしてあげて」
キーホルダーを手に取って、私は振り返らずにテーブルを離れてコーヒーショップも出ていった。マフラーを巻きなおし、ため息をつくと白く色づくのに目を細める。
あーあ、終わらせちゃった。脈はあったのになあ。引いちゃったなあ。少しだけあざとくいけば、もしかして私が幸せになってたのに──
そんなことを考えても、手に入ったものは最初から何もなかったのだから、こぼれてくる涙さえない。初めから終わりまで、何もなかった。終わってから身動きしたけど、終わったものは終わったものだ。
手遅れ。いまさらどくんと脈打っても、そんな気持ちは遅い。安純さんへの恋に続き、この恋も実らなかった廃棄物に終わった。
家までの道を歩いていると、途中にゴミ置き場があった。キーホルダーを思い切り投げ捨てた。銀のチェーンがきらりと冬陽で緩やかに光り、がしゃんとゴミの中に落ちていく。
さようなら。せっかくの出逢いをこんなふうに終わらせてごめんなさい。君に会えてよかったなんて、そんな綺麗ごとも思えないほど、何も残らない恋だった。
こんな私でも誰かと想いあって、結ばれて、幸せになる日が来るのかな。下手くそな恋愛が続く自分に、あまりにも実感がなくて苦笑したけども、それでも私自身の賞味期限が切れる前にそんな恋に巡り合えたらいいなと、青空に向かって背伸びした。
FIN