明日のために

 疲れ切ったため息と会社を出たときには、すっかり夜になっていた。
 冷えた秋風が抜けていく。気づけば、今日も二十一時が近い。
 どんなに頑張っても、定時では上がれないこの会社。最近の若い子は、「ここパワハラひどいんで辞めます」と言い残して、翌日から本当に出社しなかったりする。でも、そういうことが起きるたび、新入社員のご機嫌を伺うのは、パワハラ全開の上司自身ではなく、私たちだ。
「もうちょっと続けてみないかなあ……?」
 電話口で優しい声を使っても、『無理です。自殺しそうですから』とさらっと怖いことを返される。「じゃあ、退職届だけでもきちんと」と言うと、『郵送しておきます』とぶつっと通話を切られる。次にかけたら、着信拒否になっている。
 分かるけどね。そうしたい気持ちは、私だってよく知っているけどね。でも、せめて周りに迷惑はかけずに、手順は踏んで飛んでくれない?
 郵送の件を上司に伝えて怒られるのは私で、「お前の教育が悪いから、新人も続かないんだ」とか何とか。じゃあ、あなたが自分で教育係やってくれません? どうせ、えらそうにデスクに座っていても、やっていることはスポーツ新聞のエロページを見てることなんだから。
 そう言いたいのをぐっとこらえ、「申し訳ありません」と頭を下げていると、「本原もとはらさんが可哀想ですよお」とか言いながら、ぶりっ子で有名な同期がお茶を運んでくる。彼女がこの会社で楽に生き残るため、この上司と不倫しているのは有名な話だ。
「こいつはお前と違って出来が悪いからなあ」と上司は言い、「本原さんは頑張ってますよお」とぶりっ子はくすくす嗤う。そうね。あんたみたいに要領はよくないけど頑張ってるわ。そう思っていると、お茶をすすった上司は言った。
「そういう出来じゃなくて、おっぱいやお尻が女として足りないんだよ」
 死ね、セクハラ野郎。そりゃ自殺もしたくなるわ。いや、私なら包丁持ってたら、このクソ上司をさくっと刺してるよ。
 そう思いながらも、愛想笑いを貼りつけている自分が情けない。そんな私をくすりと嘲笑するこの女、こいつも何なら刺したい。
 そんな物騒な衝動を胸に留め、「仕事に戻りますので」と頭を下げると「反省しろよ。今日は美優みゆちゃんのぶんも、お前のノルマだからな」と上司はまだまだ嫌がらせをやめない。
「ええっ、そんなの悪いですよお」
 ぶりっ子はあからさまに驚いているけど、お前、どうせそれ狙って、今お茶を運んできたんだろうが。
 しかし、この不倫カップルに言い返す気力もない。「分かりました」とだけ言うと、とにかく上司のデスクを離れた。
 そんなわけで、今日もたっぷりと残業だ。ぶりっ子は定時で上がっていたけど、ホテルで上司の相手してんのかな。それを考えると、残業のほうがよっぽどマシだわと吐き気を覚えた。
 空を見上げると、目が霞んで月も星もぶれて見える。疲れかな。眠気かな。それとも、眼鏡の度がまた合わなくなってきたか。
 ひと気のなくなったオフィス街を抜け、まだ明るい駅にたどりつく。終電じゃないだけいいのかと思いながら、定期で改札を抜け、五分おきに来る地下鉄に乗る。
 座席は空いていなくて、手すりにもたれると暗い窓をぼんやり眺めた。女として足りない。ただのセクハラ発言だ。分かっていても、傷つくじゃない? あんな奴に女として見られないのは上等だけど、きっと、ほかの男から見ても私はそうなんだろうなあ。
 まともに彼氏ができたこともない。初体験も、好きな人となんて夢のあるものじゃなく、ワンナイトでゴミ箱に突っ込んだようなものだった。一度だけ、こっちから告って一ヶ月くらいつきあった人は、手をつないだ程度だけで、あっさり浮気して去っていった。
 彼氏が欲しい、なんて贅沢はもはや思わないけど、せめて一緒に飲んで愚痴れる友達がいればなあ。就職でこの土地に出てきた私には、身近な友達がいない。地元にいる友達は、結婚やら出産やらで通話できるヒマもない。
 何なのかな、この地下鉄を永遠に突っ切ってるような感じ。そんなことを思いながら、最寄り駅で地下鉄を降りると、また改札を抜けて地上に出る。
 アパートまでは、徒歩十五分。こんな私でも夜道は怖いから、途中にコンビニがあるのは助かる。私は毎晩、このコンビニに立ち寄って、お高めのスイーツを共にして帰る。
 まばゆいスイーツコーナーの棚は、今日は補充したばかりのところに当たったみたいでいろいろ並んでいた。手の平に余るくらい大きなシュークリーム。カスタードたっぷりのチョコたい焼き。ふわっふわの蕩けるチーズスフレ。今は秋だから、モンブランプティングや和栗のどら焼きもおいしそう。
 何なら全部お持ち帰りしたいけど、ペイの残高はそんなになかったはずだ。どれがいいかなあとさんざん迷ったあと、くるみとさつまいものしっとりケーキにしてみた。それと紙パックのミルクティーのレジに通すと、私はいそいそとひとり暮らしの部屋に帰宅する。
「ただいまー」
 誰が答えるわけではなくても、そう言ってヒールを脱ぎ、ぱちんと部屋に明かりをつける。大きなでびるいぬのぬいぐるみに、「帰ってきたよー」と話しかけながら、ひとまずコンビニでの戦利品を冷蔵庫で冷やしておく。
 スイーツがしっかり冷えるまでのあいだに、化粧を落としてシャワーを浴びる。かわいいルームウェア、そんなもん着るわけがない。お尻まで隠れる長めのチュニックに、緩いスウェット。やっと身軽になったところで、いよいよ今日の自分を褒めることにする。
 冷蔵庫からケーキを取り出す。フォークはコンビニから持ってきた。ミルクティーにストローをさし、こくんとひと口飲むと甘やかな香ばしさが口の中に広がる。正方形のケーキのふたをはずすと、お皿に移すなんて上品なことはせず、そのままいただく。
 上に散りばめられたくるみはかりっとして、蜂蜜の味が絡んでいる。さつまいもは角切りでざくざく入っていて、かなり濃厚。フォークで切るのもちょっと力が必要で、羊羹かなと思うくらいぎっしりした食感だ。
 おいしい、とゆっくり味わいながら、ほんと今日も頑張った、と思った。新人はまた辞めちゃうし。上司はパワハラにセクハラだし。同期には嗤笑されるし。それでも、今日も私は一日頑張りました。
 誰も褒めてくれない。認めてくれない。だから、今、このときだけ自分で自分を肯定して、コンビニスイーツで心身を甘やかす。
 自殺したいって、私だってしたいわ。女が足りないって、おかげでいやらしい目で見られなくて済んでるわ。不倫女は、奥さんに多額の慰謝料でも請求されたらいいわ。
 私の毎日には何にもないけど、こうしてじっくり甘いもの食べれるひとときはある。だから、明日も頑張ろう。
 明日のために。明日も何とか頑張るために。
 私はこうして、コンビニで買った甘いお菓子で自分を褒めて、何とか生きていくんだ。

 FIN

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