揺らめく少女
翌日も、天気は憂鬱そうだった。目覚めにすずめのさえずりもなく、シーツに光芒が伸びていない。寝起きの目を後ろに投げかけると、カーテンの隙間は暗かった。
時刻は六時半だ。数分ぼんやりしたあと、ベッドを降りてガラス戸のカーテンを開ける。朝陽を遮断する雲は、小雨を降りそそいでいる。
飛季はあくびを噛み殺し、いつも通りの活動を開始する。トイレ、シャワー、着替え、朝食、時間があれば食器を洗う。洗面台で歯を磨き、髪をセットする。夕べデイパックに押しこんだ、今日訪ねる生徒のための教科書やノートを確認すると、七時半頃には部屋を出る。
まず派遣の事務所におもむき、儀礼的にミーティングに参加する。昨日の報告と今日の予定、生徒たちの理解が遅れていないか、不登校などの生徒にケアはできているか。家庭教師など、各自でやればいいと思うのだが、この事務所は情報共有に少しうるさい。不安定な子供たちにも対応しているだけに、透明性を保つのは仕方ないのだろうが。
飛季が一日に受け持つ生徒は、午前にひとり、午後にひとりだ。月水金の週三を取る生徒、火木の週二を取る生徒に分かれる。飛季は現在空きがない講師で、四名の生徒を見ていることになる。中には、捻くれてこちらを無視したりする、授業にならない子もいる。
そういう子とは会話をするように言われているが、飛季はそれが苦手だ。だから、そういう生徒の部屋を訪ねたら、飛季は何もせず腕を組んで、ただ時間が経つのを待つ。部屋にさえ入れてもらえないときには、ドアの前でやはりただ待つ。
自分はカウンセラーではない。余計な口出しなどしないほうがマシだ。去り際に「また来るよ」と言い残し、根気よく通うだけだった。
親にそれを聞いて、やっとドアを開ける子もいる。「あいつをクビにしないなら死ぬ」などと言われ、解雇になる場合もある。
解雇のときは、もちろん事務所から説教を食らうが、飛季は生徒と馴れあうのはごめんだった。友達にはなれない。勉強を教えるしかしない。これまで受け持って、進学していった子には、熱血に根掘り葉掘りする講師より、飛季の淡白な態度が楽だったという生徒もいた。
子供たちに親愛も努力もないから、自分は教師として採用されることもないのだろう。だが、勉強を教える以外に、どうやって金を稼げばいいのか分からない。
毎日が機械的に過ぎていく。感情を交えず、淡彩色で消化されていく。
久々に晴れた午後、授業のあとにお茶を勧められて断りきれず、飛季は遅く帰路に着いた。今日もコンビニで夕食を買って、マンションに帰りつく。オートバイに盗難防止を仕掛けると、荷物を持ってマンションの正面玄関に向かう。
寒さは身を伏せ、気候は暖かくなってきていた。日も長くなり、夕方の始まりはじゅうぶん明るい。ようやく初夏に突入したようだ。梅雨に入るまでは、いい天気が続いてくれるだろう。
五月には中間考査がある。生徒の中には登校している子、試験だけは受けにいく子がいるので、対策を考えなくてはならない。正直うんざりする作業で、定期考査の時期には、飛季は生徒以上に滅入る。
ため息混じりにマンションに入ると、いつも通り、郵便受けを覗いた。そこで、飛季ははたと足を止める。
緑の毛布をかぶった人間がいた。郵便受けと向かいあう自販機の前にたたずみ、ぼんやり商品を眺めている。横顔がちらりと覗けた。
やはりあの子だ。
何でここに、と思わず突っ立ってしまうと、彼女はぐにゃりと首を曲げてきた。
相変わらず、澱んだ瞳をしていた。こちらをがんじがらめにするような、見てもいないみたいに素通りするような、ちぐはぐな目だ。まじろぎもせずに揺らめき、分裂している。そんな瞳がゆっくり飛季を上から下に這い、興味もなさそうに自販機に向き直った。
幽霊じみた白い手が、ゆっくり毛布をさすっている。柔らかにしなる手首には、愛情があった。
果肉のように柔らかそうな唇が、小さく動く。何か言ったようだが、聞き取れなかった。飛季に言ったわけではなさそうだ。
彼女は、毛布に当てていた手を自販機に伸ばした。小さな手のひらがボタンを押す。金を投入していないので、当然、何も出てこない。幼児だって分かる事実に、彼女は首をかしげた。
もう一度押す。出てこない。また押す。やがて、幼稚な手つきがボタンを連打しはじめる。商品は出ない。
彼女の顔が表情というものを浮かべ、焦った泣きそうなゆがみを帯びていく。
響き渡るボタンをぶつ音に、飛季は自販機を一瞥した。百二十円──
デイパックから財布を取り出すと、百円玉と十円玉二枚を選んだ。自販機に近寄って、投入口に硬貨を入れる。
彼女は手を止めた。その顔はびっくりしている。
飛季は、彼女が連打していたものを確かめる。コーンスープだ。飛季はボタンを押しかけ、一応、これが欲しいのか彼女に問うた。彼女は躊躇い、ぎこちなくうなずく。飛季がボタンを押すと、ごとっと音が響く。
彼女はそれを取ろうとせず、飛季が腰をかがめて缶を取った。熱が手のひらに広がる。さしだすと、彼女は窮屈そうに身じろいだ。
「あげるよ」
彼女は眉を寄せた。飛季がもっとさしだすと、そろそろと手を出して、細い指を缶に触れさせる。
「熱いよ」
彼女は首を垂らし、受け取った缶を毛布の裾でくるんだ。飲もうとはしない。
飛季は郵便受けを覗きにいった。広告だけだ。無造作にそれを手の中で丸め、振り返ってみると、彼女はいた。
十数秒の隙に、瞳に澱みを再発している。感情が事切れたつぎはぎな目で、被った毛布の内側に縮み、外界を隔離するゆがみを発煙している。缶は強く握りしめている。
不意にゆらりと身を返した。危なっかしい脚で、廊下へと歩いていき、緑色の背中は角に消えた。
飛季は息をつく。変な子だ、とまた思った。
自販機をちらりとし、癇癪じみた連打が脳裏をよぎる。あの泣き出しそうな空気には、異常な匂いがした。
エレベーターホールに向かい、『△』のボタンを点燈させると、ぼんやりと心にふける。
彼女は何なのだろう。このあたりに住んでいる子なのか。今まではまったく見かけなかった。越してきたのか。いや、そもそも家はあるのか。学校に行けている感じはない。登校拒否児だろうか。あの病んだ雰囲気は、学校に行けない劣等感なのか。
違う気がする。あの子の持つ空気は、登校拒否児より得体が知れない。いきなり金と引き替えに“いいこと”をすると言い出すのだ。しかし、非行に走っている感じとも違う。まさかとは思うが、軆を売って、独りで生計を立てている──
ベルが鳴った。開いた扉の向こうは空だった。飛季はエレベーターに乗りこむと、六階を指定して壁にもたれる。
彼女は、現実感や存在感は希薄だとしても、印象には焼きついている。澱んだ瞳や白い手は、飛季の心象をはっきり支配する。
でも、と飛季は考えを引っこめた。彼女がどういった人物で、どんな背景を持っているか、そんなことは知ったことではない。彼女が軆を売っているのだとしたら、そこを拒否さえしていれば離れていくだろう。それでおしまいだ。
点滅する数字の数が増え、『6』に届く。思索を切り捨てた飛季は、体重を足に返して開いた扉をくぐった。
──それからも、幼い頃から代わり映えのない、無感覚の光景を行き来した。
意識が軆を抜け落ち、飛季は毎日、自分を忘れていく。一日の終わりには断片的な記憶を切除する。それがすべて保っている。できれば、脳の皺をすっかりそぎ落としてしまいたい。飛季は、憶えていても仕方のない日々に浮かんでいる。
その合間に、あの少女がちらほらしはじめた。出勤するとき、正面玄関にいたり、オートバイの周りをうろうろしていたりする。帰宅時には、コンビニの店先で逢ったりする。
例の毛布は、被っていたり、いなかったりする。毛布がなければ、カーキのリュックを背中にだらりと提げているのがあらわになる。気をつけてみると、服装もきちんと変わっていた。
彼女は、一度も口をきかなかった。ただ飛季を見つめてきた。初めて逢ったときに聴いた声は、もう思い出せない。
彼女は飛季を見る。誘ったり挑発したりすることもなく、壊れた目つきで。そうして飛季を眺めたのち、ゆらゆらと去っていく。
飛季は、もろそうな背中をいつも最後まで見ていた。崩れ落ちてしまわないか不安になるほど、軆も存在感も、彼女は細く儚げだった。
仕事のない土曜日の昼前、飛季はベッドに転がっていた。習慣で朝に目覚め、朝食や着替えを済ますと、やることがなくなる。
やらなくてはならない仕事はあるのだが、気が向かない。テレビも観たくない。本も読みたくない。音楽は聴かない。自分には娯楽がない。
来週はゴールデンウイークだが、予定は何もない。どこかに行くつもりはない。立て直すほど生活は乱れていない。
仮面に慣れて無感覚になっている飛季は、使わなくていい時間が垂れ流れるのが苦手だ。やたら神経が過敏になり、刺々しい空白に縛られる。別の意味で疲れてしまい、飛季は連休にはたいていベッドでぐったりしている。
普通は、連休というと、どう過ごすのだろう。寝る。テレビ。旅行。実家。と思いつき、気色悪い寒気がした。
実家には、なるべく帰らない。盆や正月も、くだらない言い訳を使って避けている。何があったわけではないが、親としてでなく、あのふたりは人間として嫌いだ。飛季は抑圧された道を歩んできた。何の波もない毎日だった。反抗しなかったこちらも悪いかもしれないが、期待と信頼の違いも分からない親も親だ。小学校、中学校、高校、大学も、さしさわりなく過ごした。
近頃の破裂する少年たちの気持ちが、飛季にはよく分かる。飛季の場合、爆発しそうな攻撃性を、上回る陰鬱が小賢しく食い殺しているだけだ。この根暗がなければ、飛季も他人の命に静謐を求めていたかもしれない。命など、無力に腐りゆく果実だと判別できずに。
昔より、今のほうがいくらかマシだ。この部屋でひとり、何も吸入せずにいると落ち着く。
他者に自分をさらけだしたりしない。そうしてバカを見るのは、こちらなのだ。自分だけ信じておけばいい。他人との信頼など、得たところであっさり裏切られて虚しくなる。
寝返りを打った。セットしていない髪はさらりと額を流れる。まくらに頬を沈ませ、半眼になる。
ベッドスタンドの時計は十二時をまわっている。
空腹だった。食べることなど面倒でも、腹は減る。情けなく思いながら、ベッドを降りた。
冷蔵庫を覗いても、大したものは入っていなかった。キッチンの下の棚も覗く。缶詰めもインスタント食品もない。
億劫な気持ちで、部屋を見まわした。デイパックに歩み寄り、デニムの財布をつかみ出して、所持金を確かめる。弁当を買うと生活ができないような金額ではない。
見苦しくない程度に髪と服装を整え、ミニテーブルに放置してある鍵を指に引っかけると、飛季は部屋を出た。
コンビニはすぐなので、オートバイはやめた。強くなっていく日射しに目を細める。白光化する直射日光が、眼球に痛い。めまいをこらえて、アスファルトを踏みしめていく。
コンビニに着くと、弁当売り場に直行した。また来るのは面倒なので、夕食ぶんも買うことにする。二種類の弁当とコーヒーを買いこむ。やや重い荷物になったビニールぶくろを提げ、コンビニを出ると、飛季は立ち止まった。
足元のタイヤ止めに、小柄な背中があった。カーキのリュックを背負っている。
──彼女だ。
ゆっくり、息を吐いた。何やら飛季は、この唐突で無意味な彼女の登場に慣れはじめている。
身動きすると、ビニールぶくろがごそっと音を立てた。彼女は、軆と垂直に首を背中へと折った。
目が合った。彼女は飛季を眺め、小さく首をかたむけた。何、と思っていると、反重力のように持ち上がった彼女の手が、自分の前髪を引っ張った。
それでもしばらく分からなかったが、ふと風が吹いて、前髪が視界をよぎり、ようやくその動作が察せた。おそらく、髪を下ろしていることを問われているのだ。
「休みなんだ」
飛季の答えに、彼女は澱みに納得をちらつかせた。首を下ろして正面にやり、流れる車を眺める。
彼女の栗色の髪は、春風にそよそよと震えている。手触りが良さそうだ。うなじは白く、それが映えるTシャツは黒い。リュックはずり下がり、地面に尻をつけている。その綿布が張りつめているのは、被っていない毛布が押しこめられているせいなのだろうか。
しばし突っ立っていると、ジープが駐車場に入ってきた。彼女がいるところに入ってこようとする。彼女はのろのろと立ち上がった。スニーカーの足の裏を地面にすりつけて歩き、飛季の隣に立つ。
飛季は彼女を見た。彼女は飛季を見ない。
止まったジープから、年端のいかない男の子と小学生くらいの女の子が出てくる。運転席と助手席からは、ふたりの両親らしき男女が降りてくる。
四人家族は、幸せそうにコンビニに入っていった。飛季はぼんやり、自分はあんな微笑ましい家族は持てないだろうと思った。
隣の彼女は、分離した瞳を道路に泳がせている。右目と左目が、同じものを捕えているかも分からない。
他人同士がこうして並んでいるのも、変な光景だ。飛季は彼女の隣を踏み出した。肩に彼女の崩れた視線がかかった。あえて無視して、停まっている車をよけて歩道に出る。
今日一日、何をしていようか。漠然と考えても、何も浮かばない。仕事するしかないかとあきらめた息をつき、垂れ流れていた視覚と聴覚を引き締める。そうして初めて、背後に自分と揃った足音があるのに気づいた。
振り返った。止まった。相手も止まる。
ついてきているのは、彼女だった。瞳と瞳がぶつかり、彼女の瞳孔に飛季が揺らめく。
「何?」
彼女は答えない。桃色の唇は閉ざされ、澱んだ底なしの瞳が飛季を見つめてくる。その瞳も無言だ。
「何か用?」
仏頂面になった飛季に、彼女は睫毛を降ろした。首をしおれさせる。きつい口調だっただろうか。謝ろうとしたが、彼女は拒否するようにふらりときびすを返す。
声をかけようとして、そこまで気にかける関係かと悩む。そうしているうちに、沈みこんだ背中は横断歩道を渡り、直後に信号が変わって堰を切られた車に消える。
飛季はその場にたたずんだ。顔を伏せ、無造作にビニールぶくろを持ち直す。彼女が去ったほうを見ても、車が騒々しく行き交い、息苦しい排気ガスが舞っているだけだった。
気にしても仕方がないのに、思ってしまう。
彼女はいったい、何なのだろう。
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