君の声に浸る夜
僕から売り上げを受け取ったおじいちゃんは帳簿をつけはじめ、姫亜はおばあちゃんを休ませてひとりで夕食を用意する。
和室で着替えるおかあさんも、まだ帰宅していないおとうさんも、もちろんおじいちゃんとおばあちゃんも、飛紀のことは家族のようにかわいがっている。そのぶん、僕と姫亜も飛紀のご両親には良くしてもらっている。家族ぐるみのつきあいというわけだ。
「お饅頭、うちがいただいていいの?」と顔を出して気にしたおかあさんに、「癒と姫亜ちゃんのほうが喜んでくれるんで」と飛紀はさわやかに微笑んだ。僕は白いお饅頭を頬張って、もぐもぐ味わったあと、「飛紀、おじさんとおばさんとは一緒にごはん食べないの?」と問う。
「このあと顔は出すけど、行くとは言ってないから用意してないんじゃねえかな」
「うちが用意してなかったらどうしてたの」
「普通に部屋に帰って、自分で食ってたけど」
「コンビニ弁当?」
「米炊いて野菜炒めぐらい作るわ」
「あら、やっぱり飛紀くんはしっかりしてるわね」
おばあちゃんが淹れたお茶を受け取りながら、おかあさんはそう言って表情をほころばせる。ちなみに飛紀は、今は実家を出て、会社に近い場所にアパートを借りてひとり暮らしをしている。
「癒なんて、料理はぜんぜんしないんだから」
「そう、しないんだよ。できないんじゃない」
僕の真顔はスルーして、「癒は菓子なら昔作ってたよな」と飛紀は苦笑する。
「バレンタインとか、男子に配りまくってた」
「そうだったわね。ほんとに男たらしよね、この子は」
「ですよねー。あれ、癒って彼女さんとは続いてんの?」
「らぶらぶですが何か」
「ふうん。癒が女とつきあうとはな。同級生では、いまだに信じてない奴いるぞ」
「そうなの? 誰?」
「たっちゃんとか」
「山根竜輝くん?」
「憶えてんのかよ」
「あれでしょ、幼稚園のときに、僕を取り合って飛紀と喧嘩した人」
「取り合ってというか……」
「それに勝ったから、栄誉として飛紀は僕にプロポーズしたんでしょ。『えるちゃん、僕と結婚し──」
「お前なっ」と飛紀は勢いよく僕の言葉をさえぎる。
「それはまだ、お前を女と思ってたからだぞ!? そこ間違えんなよ」
「男同士でもプロポーズしていいじゃん。僕は応えないけど」
「俺も癒とか頼まれたって断るわ」
「ふん。山根くんって、まだ僕を女と思ってるってこと?」
「そうじゃないけど、つきあうのは男と思ってるみたいだな。お前、学生時代はそうだっただろ」
「山根くん、学生時代も同校にいたっけ」
「いただろ。その頃にはわりと俺と仲良かったぞ。それは憶えてないのかよ」
「あの頃は、男がたくさん周りにいたからなあ」
「姫とか呼ばれてたしな」
「姫じゃないよ」
思わずの決め台詞で僕が眉間に皺を寄せていると、玄関で物音がした。
顔を覗かせたのはおとうさんで、「お邪魔してます」と飛紀は頭を下げる。「相変わらず男前だなあ」とおとうさんは僕には絶対言わない言葉と共に、笑顔を見せる。伊鞠のために男の娘をきっぱりやめた僕も、わりあい男前だと思うのだけど。
そうこうしているうちに七人の大所帯で食卓を囲むことになり、姫亜とおかあさんがキーマカレー、ポテトサラダ、冷たいスープを座卓に並べる。
「飛紀はさー、どうなの?」
夕食はさいわい僕のぶんもあったので、ここは姫亜のためにひと肌脱いでおこうと思い、僕はスプーンで半熟たまごをつぶしてナスとトマトに混ぜこみながらそんなことを訊く。たっぷり入った挽き肉の香りがおいしそうだ。
「どうって」
「何かいないの? 彼氏とか彼女とか」
「俺に彼氏ができることはないからな。彼女は今いない」
「彼女いない」と隣の姫亜が小さくつぶやき、小さくガッツポーズをしている。
「寂しくない?」
「入社して三ヵ月だぞ。彼女いても構ってるヒマがねえよ」
「飛紀くんのそういうまじめさは大切だな」
おじいちゃんが厳かに言って、「男の人は仕事には一生懸命だものねえ」とおばあちゃんは微笑む。
「一生懸命なのはいいけどさ、どんなにいそがしくても好きなら時間作るのが男じゃん」
僕の意見に、「癒はぜんぜんいそがしくないじゃないの」とおかあさんはスープに口をつけ、「いや、かあさん、あれはもう完全に女の言い分だな」とおとうさんはポテトサラダを食べている。
「メッセにひと言反応することが、仕事してる人はそんなにむずかしいの? そこでスルーするから振られるんだよ」
「そういうめんどくさい女は、振られる前に振る」
「飛紀って鬼畜なの? こまやかに連絡取ってデートしなかったら、それはそれで男って指名しないくせに」
「俺は指名の話はしてない」
「おにいちゃん、伊鞠さんがいそがしくてメッセ返してこないとき、そういうふうに思ってるんだ」
「伊鞠は、ほんとにいそがしいからいいんだよ」
「俺もほんとにいそがしいわ。男の『今いそがしい』をもっと女は信じてほしい。浮気してるとか言い出す女は無理」
僕はスプーンをかじったあと、「無理だって」と姫亜を見た。姫亜は僕に顰め面を見せ、「私、少しほっとかれても、浮気とか言ったりしないもん」とカレーとターメリックライスを頬張る。
「そうなんだ。姫亜ちゃんの彼氏はいいなあ」
飛紀が言うと、姫亜はぱっと表情を切り替えて、ふくんだものを飲みこんでから「い、いないですよ! 彼氏とか!」と勢いこむ。
「え、意外だな。かわいいのに」
「かわいい、か分かんないですけど」
「料理もうまいし、好きな奴いるなら弁当でもさしいれてみれば?」
「えっ……と、……その」
「飛紀、そんなべた褒めするなら姫亜もらってやりなよ」
僕ががつがつキーマカレーを食べながら言うと、「おにいちゃん!」と姫亜が頬を染めて僕の腕を引っ張り、「はは」と飛紀は楽しそうに笑う。
「俺なんて嫌だよなー」
「いっ、いえ、そんなことは、なくて。えと、私……」
「姫亜ちゃんなら俺に妥協しなくても、いい奴いるよ」
本気にしてないな、この男。姫亜は十七年間、生まれたときから君に恋心を捧げているのに。まったく、そんな乙女心に対してむごいったらない。
飛紀は、おとうさんやおかあさんと仕事に慣れてきたかとかそういう話をしはじめて、「おにいちゃん、余計なこと言わなくていいから」と姫亜は僕に耳打ちする。「ひと肌脱いだんだよ」と答えると、「おにいちゃんのはだかとか興味ない」と返ってきた。確かにTシャツ一枚だけど。
「学生のあいだは、相手にされないって分かってるもん」と姫亜はちょっと哀しそうな睫毛でうつむき、「誰かに取られて平気ならいいけどね」と僕はミネラルウォーターをがぶりと飲んだ。
新社会人と高校二年生。まあ普通に、今このふたりがつきあったら犯罪だ。けど、姫亜の十七年間を情状酌量したら、別にいいんじゃないかと僕は思う。
飛紀は夕食を食べ終わると、「ごちそうさま」と姫亜にまた罪な笑顔を向けてから、「親にも顔出してきます」と立ち上がった。まあ僕が見送るんだろうな、と思ったので、「ポテサラ食べるから手つけないでね」と家族に言い置いてその場を立つ。
「何?」と飛紀が首をかしげたので、「客は見送るもんでしょ」と返すと、「そういうとこ、水商売体質だよなあ」とか飛紀は肩をすくめた。「お水、僕には合ってたしね」とか言いつつ、僕は飛紀の背中を廊下へと押す。
「癒って、ほんとにもう働かないのか?」
「だから、働いてるよね」
「水商売、別に伊鞠さんがとやかく言ったわけじゃないんだろ」
「僕にとっては伊鞠のためだから」
「親友が男の娘ホステスって、ネタになるのになあ」
「僕をネタにしたいの?」
「話すと基本的に受ける。話題に困ったときはお前のこと話す」
「それで飛紀の人間関係がうまくいくなら何よりだけどね」
「ここで『バカにしてんの?』とか怒らないとこが癒だよなー」
「僕、自分がネタになるくらいかわいいの知ってるもん」
「みんなの癒だったのにな。今は伊鞠さんだけの癒なんだな」
「そうだよ。だから、お水はもうやらないし……いつか、どっかで正社員にはならなきゃね」
「考えてるんだ?」
「そりゃあ、伊鞠は駄菓子屋には嫁がないでしょ」
熱気が停滞する玄関先に置いてあった自分の荷物を取り上げ、「それ聞いて安心した」と飛紀は靴を履く。「あんまり人に言わないでよねー」と僕は頬をふくらませる。
「結婚とか、まだぜんぜん、何にも具体的じゃないし。僕が夢見てる段階だから」
「了解。俺は応援する。今のまま結婚したいとか言うなら、ふわふわすんなって言うけどな」
「幼稚園でプロポーズするくらい逸った人が」
「っさいな。じゃあな、そのうち遊ぼうぜ」
僕の頭を小突くと、飛紀は「お邪魔しましたー」と居間に向かって声をかけ、僕の家を出ていった。
何だかんだで心配してくれてるんですね、と息をつくと、僕は両腕を掲げて「さっさと食って風呂って、伊鞠と話すぞー!」と宣言し、「よしっ」と気合を入れると居間に駆け戻った。
そんなわけで、夕飯を完食してお風呂に入って、歯磨きやトイレも済ますと部屋に戻った。敷いたふとんに寝そべって、充電していたスマホを手にする。
クーラーがフルスロットルで部屋を冷ましていく。
通知はいろいろ来ていても、伊鞠からの着信はない。時刻は二十時をまわっている。姫亜がうらやむなめらかな脚をぶらぶらさせながら、『僕はいつでも話せるよ』と伊鞠にメッセしておき、SNSのTLや動画のアップをチェックする。
好きな歌い手さんのボカロカバーに全画面表示で聴き入って、さすがです、とその尊い歌声に心で手を合わせて画面を戻すと、通知バーにメッセ着信があった。
ん、とすぐそれを開くと、『森沢伊鞠さんからメッセージが届いています。』とあったので、急いでトークルームに飛ぶ。
『こんばんは。
今、少し話せるけど。』
少し。少し──なのか。ぜんぜん話せないよりいいけど。いいけど、いっぱい話したいなあ。
「むー」とひとり唸りつつも、僕は伊鞠に返信を打つ。
『今おかえりかな?
夜遅くは寝ちゃう感じ?』
さっき聴いていた曲をハミングしながら待機していると、既読がついて返事が来る。
『お酒飲んだから、早く寝るかもしれない。』
僕は眉を寄せて、首をかしげたあと、まあいいや、と思って通話ボタンをタップした。コールは一回半で途切れ、『もしもし』と愛おしいアルトの声が耳元に響く。
「もしー。お酒飲んでたの? 飲み会?」
『飲み会ではないけど、新人の子と少しね』
「えー、女の子?」
『男の子』
「………、ふたりきり?」
『まあ、ゆっくり話したいって言われたから』
「告られたの!?」
『ただの仕事の話』
「新人って、新卒?」
『そう。癒と同い年だと思う』
「えっ、やだなー」とごねて、僕はふとんをごろごろする。
「イケメン? かっこいい? 僕のほうがかわいいと思う」
『………、その子は、普通だと思うけれど』
「ええー。伊鞠、僕とはあんまりお酒飲んでくれないのにー」
『私がお酒は好きじゃないの知ってるでしょ』
「無理やり飲まされたの?」
『少しだけ、つきあい程度』
「うー。伊鞠とふたりでほんのりお酒とかー。いいなあ。いいなあ。僕も伊鞠とそういうデートしたいなあ」
僕がぐちぐち後輩くんに嫉妬を垂れ流すと、『癒』と伊鞠は仕方なさそうな吐息混じりに、僕の名前を呼ぶ。
「ん」
『妬かなくても、その子はただの後輩だから』
「……うっ」
『もちろん、癒がお酒も入ったデートがしたいなら、私もたまにそうしたいとは思う』
「うんっ」
『でも、私は癒と一緒にごはん食べるだけで幸せだから。ごはんだけで楽しいなんて癒だけ』
スマホをぎゅっと握って、僕はふるふると頭を揺らして声なき声を上げたあと、「伊鞠~……」と甘ったれた声を出す。
「ありがとっ。嬉しいー。僕も伊鞠とごはん食べるの好き! またいつもの定食屋でごはん食べようね」
『癒はそれだけじゃ物足りない?』
「そんなことないよ。ふう、確かに嫉妬した。だって、伊鞠に一番近い男は僕じゃなきゃやだもん」
『そんなの癒に決まってるじゃない。その子も、いい子だから彼女くらいいるだろうし』
「そっか! ならいいんだけどねー」
素直になだめられる僕に伊鞠は少し咲ったあと、『癒は何かあったの?』と話題を切り替える。
「僕? 何で?」
『改まって、通話したいなんて断るから』
「いや、僕は何も──あ、今日、飛紀が遊びにきた」
『飛紀くん。元気そうだった?』
「うん。あいつも新卒で入社三ヵ月なんだよねー」
『カーディーラーだった気がする』
「そそ。ま、仕事は頑張ってるみたい。ただ、あいつほんとに姫亜の気持ちに気づかないよね」
『意識するには近すぎるのかも。飛紀くんにも妹みたいなものでしょう』
「そうなんだよねえ。姫亜を女子として見てやってほしいなあ」
『いつか、四人で出かけたりできたらいいのかもしれない』
「ダブルデート?」
『そう』
「伊鞠、姫亜のこと応援してくれるんだ」
『それは、まあ……癒の妹さんだから』
「えへへ。そっか。そうだね、それでしれっとはぐれるとかね。いつかやっちゃおう」
『飛紀くんの仕事も落ち着いた頃にね。入社して三ヵ月なら、今はいそがしくて必死だろうし』
「そういうことは言ってた気がする」
『辞めるか続くか、今だから。しばらくそっとしておいて、仕事に集中させていいと思う』
「そうする。伊鞠の後輩くんも、仕事続くといいね」
『そうね。たまに励ますようにする』
「僕もね、今、かき氷作る訓練がんばってるよ!」
『ペンギンのかき氷機、写真ありがとう。かわいかった。ずっと削る作業も大変だろうけど、頑張って』
「伊鞠も夏のあいだうちに来たら食べてね、シロップはいちごとレモンとメロンがあるよ。あと、練乳とブルーハワイは買っとく」
『練乳おいしそう』
「じゃ、練乳は決まりだ。伊鞠が食べてくれるなら頑張るぞ!」
僕がそう言うと伊鞠はまた笑みをこぼし、『夏が楽しみ』と言った。「うんっ」と答えながら、僕は寝返りを打って、木造りの天井と向かい合ってふとんに仰向けになる。
トリートメントをなじませた髪から、好きな匂いがする。クーラーもだいぶ効いてきた。すごく心地よくて、まだ伊鞠の声を聴いていたいけど、少しって言ってたから、そろそろおしまいかな。
わずかにそんな心配もしつつ、僕は伊鞠の落ち着いた声を聴ける幸せに浸る。そして、好きな人とつながって言葉を交わせるのは、お気に入りの歌い手さんの新曲より尊いなあなんて思った。
【第九章へ】