風切り羽-3

始まりの公園

 漠然と公園を眺めていると、息がもれた。心が空っぽになり、公園にいたところを手を出されたのが最初だったと思い出す。四歳のときだ。こういう児童公園だった。
 幼稚園が終わり、近所の公園にいた。ひとりだった。内気な僕には友達がいなかった。そのときはおかあさんと暮らしていたけれど、構ってもらえないのがつらくて、公園にいた。砂場のふちに腰かけ、砂をいじっていたら知らないおじさんに声をかけられた。
 公衆トイレに連れこまれた。手前の洋式トイレの蓋に腰かけさせられ、下着を脱がされ、小さい性器をもてあそばれた。何でそういうことをするのかは分からなかった。そのおじさんとは二度と会わなかった。
 が、ひとりぼっちでいると同じように性器を撫でたり舐めたり、逆に「あそこを触って」と言ってくる男の人が、たびたび現われるようになった。「おとうさんやおかあさんに言わないで」と釘を刺してくる人もいた。断る理由が見つけられずうなずいていた。親に内緒にしていることはあった。拾ってポケットに隠した百円玉とか、食べたふりをして捨てたにんじんとか。僕はその頃本当に何も分かっていなくて、そういうことをされたのを黙っているのも、そんなレベルだと思っていた。のちのち、それがどれだけ影響してくるか、何も知らなかった。
 小学校に上がったら、上級生の家に連れていかれた。僕はそこで性器をしゃぶらされた。「誰にも言っちゃダメだよ」とここでも言われた。「誰にも言うな」と命令口調ではないぶん、怖がることもできず、うなずくしかなかった。その後、何回も家に連れていかれた。写真も撮られた。知らないおじさんがその写真のコピーを持っていて、「これは君か」と尋ねてきたりした。その人にも、もてあそばれた。
 みんな暴力は振るわなかった。だからそれが良いことなのか悪いことなのかが分からなかった。身体的な痛みがあれば、直観で「嫌だ」と思える。僕がされたことには肉体的な痛みがなかった。触られたり、舐められたり、その逆だったりしただけだ。実は“だけ”なんてものではないとは、知る由もなかった。性の知識なんてまったくなかったし、強要されるこのことが自分にとってどうなのか、分からなかった。
 小学校の高学年になると、同級生にも手を出されはじめた。この頃、やっとこのおぞましさを理解できるようになった。学校の性教育や自然と広がった視野で、自分のされていることが一般的な性の範疇にはないのを知った。心に巨大な空洞があるのに気づいた。愕然とするのはあまりにも遅すぎた。永年のさばらせていた傷口は修復不可能な状態になっていた。何年ぶんもの内的な痛みは、ひとつも排出されずに蓄積していた。秘匿されていたその膨大な疼痛は、自覚と同時に一挙に噴き出して勢力を上げはじめた。
 中学生になるとひどくなる一方だった。暴力はなくても、喉を塞がれたり、頭を揺すぶられたり、肛門を犯されたり、外的な痛みがともなうようになった。もう悪戯ではなく、虐待だった。
 自分がされていることの名前を知ったのは、ごく最近なのだ。性的虐待。存在は知っていても、自分が受けていることがそれだとは思わなかった。僕はずっと、あらゆる人に、性的に虐待されていたのだ。
 なぜ僕が同性にそんなことを強いられるのか、理由は謎だ。僕が不特定多数の男に性的な関係を強要されているのは、いっさい表面化していない。なのに、みんな僕をなぶりものにする。知らないおじさん、知らないおにいさん、上級生や同級生──みんな“なぜか”僕なのだ。問題は僕にあるらしい。
 僕がそういう人間なのか。男を挑発する男だとは思わない。そもそも、僕をもてあそぶ人は同性愛者ではない。断言はしかねても、大方はそうだ。大半の場合、僕は女の子に手出しできない人の代わりにされている。よってたかる上級生や同級生は確実にそうだ。僕には “代わり”というないがしろのあつかいをしてもいい、という思わせる何かがあるのか。だとしたら、みじめだ。とはいえ、ほかに立てられる仮定はない。
 僕が悪いのだ。すべては僕が持つ何らかの悪い特徴のせいなのだ。
 取り留めのない考えごとが流れていった。うとうとしている。何時だろう。部屋を逃げ出したのは、就寝の点呼の直前だった。点呼は二十一時だ。二十二時、もしかすると二十三時をまわっている。普段はこんな時間に眠くならなくても、何せ夕べは一睡もできなかった。その前の日も懸念や不安で眠れなかった。
 元来僕は安眠とはほど遠い。重くなるまぶたは、開けようとすると嫌がって痛む。こんなところは危ない。寝ちゃダメだ、と思っても牽制にならない。意識が霞みがかり、思考も途絶えてくる。そして睡魔が広がり、微睡みが居眠りになりかけたときだった。
「こんな時間に何してるのかな」
 かかった野太い声にどきんと顔をあげた。目の前に見知らぬ──ほろ酔いの背広すがたのおじさんがいた。眠気にとくとくと安定していた心臓が一気に硬直する。
「え、あ……」
「おうちはどうしたんだい」
 おじさんはにやにやした。その笑いが何を意味するかは本能的に知っていた。
「ひとりかな」
 顔を近づけられ、無意識にかばんの持ち手をつかんだ。おじさんはそれに目を留めて、かばんに手を乗せる。
「家出でもしてきたのかい」
 肩が震えてくる。荷物を引き寄せた。おじさんが軆をかぶせてくる。この人は酔っている。分別が狂っている。
「おじさんと一緒に来るかい」
 激しくかぶりを振り、荷物を抱きかかえて立ち上がった。おじさんを押しのけようとしたが、逆に腕をつかまれてしまった。
「い、嫌、」
 おじさんは僕の顔を覗きこみ、よだれのように、にたりと笑みを垂らした。
「かわいいねえ」
 華奢だから、僕を女の子だと思っているのだろうか。
「は、離して、」
「いくらでそのお口を使わせてくれるかな」
「いや、やめて、」
「ほら、そこでおじさんと気持ちいいことしよう」
 涸れた喉に声が出なくなり、引き攣れた喘ぎにしかならなくなった。おじさんは僕のわななく腕を引っぱる。踏んばろうとしたら、力が空回りしてへたりこみそうになった。おじさんは僕の腕をつかんでいない左手で、自分の股間をまさぐる。
「舐めてごらん」
 泣きそうになった。街燈の下でおじさんの赤黒く勃起しかけた性器がはみでた。麻痺した神経に、目をそらすこともできない。おじさんは僕をひざまずかせようとした。嫌がろうと思っても、こわばる筋肉は脳の指令を聞くどころではない。
 どうしよう。嫌だ。また? せっかく逃げてきたのに。やっぱり、僕はこう? どうして。何で。ひどい──
「何してるんですか」
 突然、ぐちゃぐちゃになった頭に冷静な声が割りこんだ。はっとそちらを見た。公園の入口に、眼鏡をかけた若い男の人が立っていた。急に溶けて開いた喉に、僕は声を発する。
「助けてっ」
 叫んだ僕に、ひざまずかせようとしていたおじさんの手が緩んだ。男の人はおじさんに軽蔑の混じった目をする。
「や、いやあ、」
 おじさんの声は急激に弱気なものにしぼんでいく。
「何、その、ちょっと遊んでただけですよ。ねえ──」
「違う、この人、僕を、僕、」
「彼、嫌がってますよ。離してあげたらどうですか」
 おじさんはぱっと手を離した。はみだした性器は、哀れに萎えて陰毛に引っこんでいる。おじさんはあたふたとそれを片づけ、何秒かその場で所在悪そうにもぞもぞすると、男の人がいない出入口へと走っていった。
 途端、僕は息を吐いて地面を向いた。助かった。初めてかもしれない。何もされずに済んだ。よかった──
 足音が近づいてきて、顔をあげた。その、眼鏡をかけた男の人だ。その人は見下げるのではなく、僕の視線に合わせて腰をかがめた。がさ、という音にその人がコンビニのふくろを提げているのに気がつく。その人は僕に優しく微笑みかけた。
「大丈夫?」
 その物言いにはたとした。その声と言葉はさっきも聞いた。
「あ、あの──」
「さっきもね。怪我、しなかった?」
 くすりとしたその人に僕は頬を染めた。確かにその人の声は、あの物柔らかな声だった。トレーナーにジーンズという服装と、さっき顔を見なかったので分からなかった。
「あ、えっと、ごめんなさい。と、いうか、その、今はありがとうございます。さっきは、あの、」
 気持ちがまとまらない僕に、「いいよ」とその人は制してくれる。全身が発熱していた。めちゃくちゃだ。何を言っているのだろう。
 改めてその人の顔を見た。綺麗な顔だった。眼鏡で隠れているのがもったいない、繊細な顔立ちだ。焦げ茶と茶色の中間の色素の薄い髪、目元や口元にもおっとりした印象があり、鼻筋や顎にも無駄がない。大学生にも見えるけど、背広を着ていたし、二十台に届いたといったところだろう。そんなに背は高くなくも、軆つきや長い脚ですらりとして見える。瞳には僕への不穏な欲望もなく──
 そこで気がついた。僕が怖がる劣情の色がない代わりに、その瞳には震えて怯える色があった。かがめていた腰を伸ばし、街燈に映った顔には、蒼ざめた名残もある。
「でも、どうしたの」
 口調は乱れもなく普通だ。
「時間、遅いよ。帰らなくていいの?」
 どう答えればいいのか、うつむいた。家。ホテル。学校。あそこに帰る。部屋での同級生たちの仕打ちが痛み、激しい拒否感が湧いた。その人は、ベンチにある僕の荷物を見やる。
「帰りたくないの?」
「えっ、あ、いえ、その──まあ」
「そう。こんなところじゃ危ないよ。夜中になれば、もっとわけの分からないことが増えるし」
 首を垂れる。かといって、じゃあどうしましょう、なんて訊けない。その人も意地悪で言っているふうはない。僕を心配してくれているのが窺える。その人は提げているふくろを持ち直し、僕は煮え切らない自分が恥ずかしくてスニーカーを見つめた。どうしよう。この人の心配はもっともだ。僕だって、自分がどうすべきか分からない。
「家、帰りたくない?」
「ま、あ。たぶん」
 変な答えだな、と自分でも思った。その人は追求したり笑ったりせず、「そう」と目を伏せる。不安になった。変な子供に関わってしまったと思われている。きっとそうだ。だいたい、あんなのをされそうになったのも今日は自業自得だ。こんな時間にひとりでいて、悪いのは僕だ。その人は僕を見、言いよどんだのち、口を開いた。
「君が良ければでいいんだけど」
「あ、はい」
「うちで落ち着いていく?」
「えっ」
「冷静になったほうがいいよ。でも、ここだといろいろ危ないし」
 否応なしに警戒が芽生えた。この人の家に行く。ふたりきりになる。僕でなくとも疑うだろう。もしその優しそうな顔が仮面だったら。僕がこの人を信じる要素は何もない。さっきの人みたいに、酒が入ったら錯誤するのもありうる。力が敵うとも思えない。もともと、僕にはあの忌まいましい暗示がある。絶対に逃げられない。何をされるか分からない。駆け巡る邪推に危機感が恐怖として浮き出て、僕の軆は再度こわばった。肩や息が弱く震え、それを見取ったその人は慌ててつけくわえた。
「無理にとは言わないよ。君が嫌だったらいいんだ。こんなのお節介だし。怪しいし」
 その人を見る。確かに自分の怪しさに恥じ入っていた。どうしたらいいのか、分からなかった。その心に自分でびっくりした。無理にとは言わない。この人はそう言っている。怪しいのなら断ればいい。なのに、迷っている。あの不可抗力の麻痺は起きていない。今、僕は、僕の意思で、悩んでいる。
 虫の澄んだ声が、すりぬけていった。その人は不意に息をつき、僕と瞳が合うと軽く微笑した。
「ごめん」
「え」
「僕が気にすることでもないんだよね。あんなの見ちゃったんで、つい」
「あ……」
「気をつけて。こんなところより、人がいる場所にいたほうがいいよ。じゃあ」
 その人が身を返した瞬間、「あのっ」と声を上げていた。呼びかけは静けさに異様に反響した。その人は僕をかえりみる。僕は何か言おうとして、どう言えばいいのか分からず、バカみたいに口を開きかけて止まる。その人は僕を見つめ、そばに戻ってきた。
 しばし目を合わせた。そういえば、僕は、その人の凪のような瞳ならまっすぐ覗けている。
「あのね」
「は、はい」
「言っておいたほうがいいのかな。僕は、さっきの人みたいなことする気はないよ。お酒も飲まないんだ。それは大丈夫だから」
 邪推を見破られた僕は赤面した。
「僕の部屋は、僕ひとりの住まいでもないしね」
「………、はあ」
 ひとり暮らしではないのか。恋人だろうか。女の人がいるのなら、少し安心だ。いや、もしかして同性のルームメイトかもしれない。そうしたら──
 振りはらった。ここは、自分の直感を信じよう。僕の心は、この人に無意識に警戒を解いている。そんなのは初めてだった。この人は、僕にとって、何かが初めてなのだ。これまで、人の顔色を窺いすぎた僕は、人間の瞳が完璧ではないのを知っている。その人の瞳は、嘘の波もなく穏やかに凪いでいた。この人は、僕を傷つけない。きっと、それが初めてなのだろう。そう確信すると、僕はベンチに置いてある荷物を取ってきた。

第四章へ

error: