一夜の発熱

 結里花ゆりかは俺なんかと釣り合わない、そんなことは分かっていた。
 黒髪のようで、ネイビーにカラーリングされた長い髪。ふっくらとなめらかな肌。甘えるような垂れ目の上目遣いに、透き通るような桃色の唇。細身ではないけど、そのぶんちらつく胸元や短いスカートの脚に、野郎共は目を走らせずにいられない。
 男に関しては、いいうわさは聞かない。あの子の浮気相手だったとか、ずいぶん年上の男を侍らせていたとか。
 それでも、俺は彼女に恋焦がれてしまった。彼女がほかの男と咲っていると、胸を靄で逆撫でられる。ほかの子に目移りもできなかった。いつも上の空にその横顔を想ってしまう。
 ああ、もう、叶わない恋なのに。届かない想いなのに。
 いっそ、ばしっと振られてみたら楽になるのだろうか。俺の意志で彼女を遮断するなんてできない。
 だから俺は、夏の初めに結里花を夕食に誘った。大学の新歓参加者がノリで組んだグループ、俺はもちろん、結里花も退会していなくてよかった。そこから俺は、結里花にメッセを飛ばしてみた。
 スルーも覚悟していたけど、むしろ、彼女のレスは早かった。
『お肉おごってくれるなら』
 マジか、と口にしそうになってこらえる。講義中の教室だ。
 そうと来たら、シャトーブリアンで貯めたバイト代が吹き飛ばされてもいいぞ。シャトーブリアンをあつかう店なんて、縁がなくてぜんぜん知らないけれど。
『おごるよ、もちろん』
『ほんとに? 嬉しいな』
『いつにする? 君の空いてる日に合わせるけど』
『今夜は?』
 鼓動が早くなる。何だ、この手応え。まさか、告白したらうまくいくんじゃないだろうな。
『十九時の待ち合わせでいい?』
 市街地の中央改札を場所に決めてからそう訊くと、『OKだよ、楽しみにしてるね』と返ってきて、そのまま、すうっと夢が覚めるみたいにレスは止まった。
「どうしたんだよ、瑛斗えいと
 終業しても、スマホを持ったまま呆ける俺に、隣にいた親友のけんが声をかけてきた。俺ははっと賢を見て、「あ、」とそのまま結里花のことを話しそうになった。けど、「いや、何でもない」と口をつぐむ。眼鏡の奥で、賢は怪訝そうにしたものの、「四限も一緒だろ、行くぞ」と俺の肩をはたいて立ち上がった。
 俺は急いで荷物をまとめて、賢を追いかける。昔からこんな感じだ。賢はしっかりしたインテリ、俺はちょっと抜けた体育会系。
 いつもモテるのは賢で、何なら、結里花に相応しい奴だと言われているのだって──
「瑛斗の気持ちは嬉しいけど、私、賢のことが好きなの」
 その夜、必死に検索して待ち合わせ場所から行ける熟成焼肉の店を見つけ出し、結里花とおもむいた。
 結里花は遠慮することなく、一番高いコースを注文した。ここで俺がそれより安いのを頼むのもかっこ悪いのかと、同じものを注文した。二万円は羽ばたいたと思いつつ、食前酒からメインステーキまでめちゃくちゃうまかったし、結里花もおいしそうに頬張っていたので、俺にはそれで充分だった。
 そして、結里花がさっさと「ごちそうさま」と席を立つ前に、ばくばくする心臓をこらえて気持ちを伝えた。
 結里花は驚いた様子もなく、俺を眺めたあとに、少し首をかたむけた。そして、「私ね」とゆったりした口調で切り出すと、そう言った。
 賢が好き。
 俺は結里花の黒曜石のような瞳を見つめ、愕然としつつ、どこかでは完全に納得して嗤ってしまった。そう、だよな。いつもそうだったのに、よりによって、結里花が奇跡を起こしてくれるなんて──
「瑛斗って、賢とは友達だよね?」
 俺はすべて平らげた鉄板に目を移し、「まあ……親友だな」と気まずく答える。
「親友って、あえて訂正するんだね」
「……おかしいか?」
「素敵だと思う。瑛斗って今夜、あとは帰るだけ?」
「そうだけど」
「じゃあ、私と一緒に過ごさない?」
「はっ?」と俺はちょっと変な声を出してしまう。
「どうせ、いろいろしたかったんでしょ? 期待してたよね?」
「……うるせえな。否定はしないけど」
「じゃあ、いろいろしようよ」
 いろいろって──俺は眉を寄せ、結里花に顔を向けた。彼女の唇は肉感的に潤っている。
「賢が、好きなんだろ」
「うん」
「じゃあ、」
「でも、賢は私を簡単に見ないじゃない?」
「代わりかよ」
「そういうわけでもないけど。いいでしょ、私のことが好きなら」
 あー、くそ。くそくそくそ。こんなもん、ふざけんなって拒否したほうがいい。彼女を置いて、支払いを押しつけて店を出ていってもいいぞ、今の俺は。
「親友の瑛斗から、賢の話とか聞きたいんだよね」
 俺はうなだれ、重苦しいため息をついた。こいつ、残酷すぎるだろ。
 毅然と立ち上がれない。賢だったら、きっと毅然と立ち去るのに。それができないから、結里花には俺ではないのだろう。
 会計を済ますと、結里花と夜の街に出た。降りそそぐネオンで何だかくらくらする。
 結里花は俺の筋肉質な腕に、しっとりした腕を絡めた。七月の熱っぽい空気の中では暑いけど、結里花の匂いが近くて、それはまるで脳にぶっ刺す麻酔だ。
「これ、今ならレイトショーで観れるの」
 結里花はそう言ってスマホ画面を見せてきて、俺たちはその映画を観にいくことになった。
 俺でもタイトルは聞いたことのあるヒット中の映画だったが、レイトショーなので空席が目立った。俺自身は別に観ようとも思わなかった映画だ。つまんね、と正直思って背凭れに沈み、バター風味のポップコーンも早々に食べ終わってしまった。
 ぼんやりスクリーンを瞳に映し、役者たちの台詞は聞き流していると、不意に手に熱が触れた。
 はっと息を飲むと、結里花が俺の手に手を重ねてきた。握らず、ただ重ねる。急速に心臓が熱くほてり、どきどきと脈打ちはじめる。
 結里花を見ようとしたけど、反応したら、ひらりと手は蝶のように離れてしまいそうな気がした。俺はその柔らかい手を握ることなく、じんわり染みこんでくる体温に意識を奪われ、荒くなりそうな呼吸を抑えつけた。口の中がからからになっていく。
 映画が終わったとき、零時をまわっていた。当然のように、次に行ったのはモーテルだった。結里花が先にシャワーを浴び、俺もシャワーを浴びる。
 ──こんなことをしても、彼女は絶対、俺に振り向くわけじゃない。
 遊びだ。割り切らないと。これはただの遊び。なのに、軆はひどく発熱して、正直に求めてしまう。
 ああ、こんなの、手の上でもてあそばれているようなもんなのに。
 下肢が快感に蕩け、朦朧としながら結里花を抱きしめて、温かい体内を突き上げる。びくんと跳ねる腰が愛おしい。首筋に咬みつくと、やっぱり匂い立つ結里花の香りが俺を狂わせ、深夜の眠気もあって意識が飛びそうになる。
 汗がしたたり、息切れしてくるほど、結里花の中を探る。傷つけるみたいに、奥まで引っかく。
 ──やっと終わったあと、結里花は起き上がってベッドサイドに腰かけ、小さな窓に映るネオンの明滅を見つめた。危ういほどの腰つきを眺めた俺は、その背中を抱き寄せようとしたけど、「やめて」とはっきり拒絶された。
「明日、賢に話すね」
「えっ」
「瑛斗と寝たって」
「な、何で──」
「そしたら、嫉妬で確実に落とせるでしょう?」
 さすがに眉間を寄せて、俺は露骨に舌打ちした。
 本当に、最低な女だ。何でそれでも好きなのだろう。きっと、このまま朝が来て夜は終わるのに、俺の気持ちは終わらない。
 例の新歓のとき、女の子は賢の名前ばっかり知りたがって、俺のことはほったらかしだった。そんな中、結里花だけは俺にも挨拶して名前を訊いてくれたのだ。それだけ。本当に、彼女に惚れた切っかけなんて、それだけなのだ。
 でも、それも俺を利用するために、あざとく取り入っただけのようだ。
 俺はその髪の手触りも、肌の温度も、濃密な香ばしさも知ってしまったのに。これで終わりなのか? 一線は越えた。それなのに、俺たちには何も残らないのか?
「もうすぐ朝だね。いったん帰らないと」
「ああ……」
「瑛斗は明日も授業?」
「……うん」
「てことは、賢も来るね」
 顔を伏せた。不意打ちに、泣きそうな顔になってしまったからだ。その表情を押し殺して、何となく窓を見ると、明滅していたネオンは消え、空が白みはじめた光が射しこんでいた。
 その日一日は、大学には行ったものの、何となく賢を避けて過ごした。俺が隣にいれば、結里花はひるんで賢に話しかけられない──なんて、ないだろう。だから、気を遣ったわけではない。ただ、目の前で事実を見せられるのがつらくて。
「今日、結里花とランチしたんだけど、聞いたぞ」
 帰り道は、あえなく賢につかまってしまった。沈黙が続いたので、それで何となく察した。それでも、賢はゆっくりと言葉を選ぶ。
「結里花と寝たのか?」
「……まあな」
「あいつが好きなのか?」
「はは、似合わねえだろ」
 俺の乾いた笑いに、賢は神妙な面持ちで黙りこんだ。それから、ふうっとため息をつく。
「かなり複雑だ。俺も……結里花は気になってたし」
「すまん」
「もう、告っても遅いよな。……いや、そもそもそんなの──」
「告ってみろよ」
「は?」
「好きなら告れば」
「何の自信だよ……」
「自信って」
「惚れられた強みがあるから言えるんだろ」
 何だそれ。そう思って笑ってしまいながら、「話せば、あいつの本音が分かるよ」と俺はつぶやいた。
 そのときだった。
 駅までの人通りの中から、賢を呼ぶ声がした。賢ははっとした顔で振り返る。俺も一瞥くれた。もちろん、結里花だ。
 結里花も俺のことは一瞥しただけで、賢をまっすぐ見た。立ち止まってそれを切なく見つめ返した賢は、眼鏡越しに俺に目をやって、「まあ」と息をつく。
「瑛斗はいい奴だよ」
「そうだね」
 俺は唇を噛んで、その場から足を踏み出す。ふたりの話し声が背中に続く。
「でも、お前に相応しいのは俺だろ」
「嫉妬してくれるの?」
「嫉妬……ってか、」
「私が瑛斗に抱かれたの、悔しい?」
「………」
「でも、そこまでしなきゃ、賢は私に告ってこないでしょ」
 くそっ。分かっている。昨夜、俺はこの瞬間のため、ふたりの踏み台になったんだ。
「俺とつきあってくれんの?」
 賢の言葉に、結里花がどう応えたかは聞き取れなかった。でも、振り返らなくても、確認しなくても、俺はよく知っている。結里花は誰にも見せたことないくらいの、格別な笑顔を浮かべている。
 もう知らねえ。とっとと結ばれろ。そして、俺の前から消え失せてくれ。
 週末まで大学をサボった。土曜日の夜になり、ようやく起き上がって街に出かけた。
 あの映画館のレイトショーで、同じ映画を観た。しかし、重なってくる手はない。あの夜からろくに眠れていない腫れぼったい頭痛のおかげで、映画の内容は相変わらず頭に入ってこなかった。
 彼女の誘惑をきっぱり断ればよかったのだ。この胸を穿つ虚しさは、それができなかった罰なのだろうか。
 また夜が深まっていく。零時を過ぎる。キャッチをすり抜けながら街を歩く。ごちゃごちゃしたネオンが視覚にうるさい。
 よく考えたら、俺、あいつの名前をあいつの前で呼べたこともないな。そんなことに気づいて、俺は「結里花」とつぶやいてみた。もちろん返事はない。無意味すぎて、後悔だけが残る。
 全部、熱帯夜の夢だった。忘れよう。次、賢と彼女に会っても、平然と咲えるように。
 ──間違えたことをした。よく分かっている。それでも、あの一夜だけの発熱がよみがえると、俺はいまだに気が狂いそうになり、真夜中になってから映画を観にいって、何も響かないことで心に麻酔をかけている。

 FIN

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