俺の部屋に来てからずっと、杏実はベッドに腹這いになって、スマホを見ている。会話もなければ、こちらを見もしない。イヤホンまでしているので、俺のため息も聞こえていないだろう。
床に座る俺は、ベッドに背中を預け、レースカーテンでは抑えきれない白昼の日射しに視線を投げている。眼鏡の度数が合わなくなってきたのか、最近、頭痛がひどい。
クーラーが全開でまわり、ワンルームにこもった熱気を冷ましている。蝉の声がまだ聞こえる八月中旬、俺は蒸れるマスクを外し、グラスにそそいだアイスコーヒーを飲んだ。すっきり苦いブラックが喉を潤していく。
杏実はマスクを外していない。ミルクティー色のカールをハーフツインにした杏実は、長い睫毛に縁どられたぱっちりした瞳をしている。だから、マスクをしていると、昔のような美少女顔だ。でも、二の腕や脚はぶずいぶん太くなったし、マスクを外さないのもウイルス感染防止ではなく、二重あごを隠すためだ。
彼女とつきあいはじめて、三年だろうか。ちょうどパンデミックが深刻化してきた頃だった。つきあいたてのふたりが、三密は避けましょうなんて聞くわけがない。これでもかといちゃいちゃしていた。
そんなふうに、ずっと仲良くしていられると思っていた。
しかし今、俺たちは完全に倦怠期だ。部屋の中で、完全なるソーシャルディンタンス。
杏実が太ったことは、まあいいのだ。折れそうだったあの頃を知っているだけに、多少残念ではあるが、ふっくらしてもかわいいと思っている。でも、杏実自身は自分の体型が気に入らなくて、恋人の俺にも素肌をすっかりさらさなくなった。
だから、セックスしないし。キスもしないし。手をつないだり、くっついたり、耳打ちしあったりさえ、しなくなった。
俺もスマホを手に取って、アルバムをスクロールした。昔の杏実の写真が残っている。
杏実は昔、お世辞にも売れているとは言えない地下アイドルだった。しかし俺は彼女を推していた、たぶん誰よりも。
パンデミックが起きて、イベントで握手も密着チェキもできなくなった。「終息したら、ハグとかしたいなあ」とビニール越しに俺がなかなか気持ち悪いことを言うと、「あとでこっそり裏見て」とサインを入れたチェキを杏実はさしだした。ライヴハウスを出て、言われた通りにチェキの裏を見ると、メッセアプリのIDが走り書きされていた。
『私、君とハグするためにアイドル辞める』
おそるおそる友達登録すると、すぐに杏実からそんな爆弾返信が来た。
『私はパンデミックでも地下アイドルとして生き残れるレベルじゃないし』
『杏実ちゃんなら大丈夫たよ』
『それは、君には私が推しだから思うだけ。私をガチで推してるのなんて、君くらいだよ』
杏実のステージの閑散ぶりを思い返す。正直、否定できる要素もなくて、テンポよくラリーを返せない。
『たくさんのファンを持つことは、私には無理なんだ。だから、君だけのアイドルになるの。もう決めた』
『杏実ちゃん、でも』
『私も君とハグしたいもん!』
推しにこんなことを言われて、あれこれ反論できるか? もともと赤字ライヴを重ねていた杏実は、二十歳になったのを機に、あっさり事務所を抜けた。そして、たいして惜しまれることもなくアイドルを辞めた。すぐ俺とつきあいはじめて、可憐な容姿を維持するストイックな生活もやめた。
自粛が叫ばれる中で、俺たちはあちこちデートに行った。ときに俺は、有休を取ってまで杏実と過ごした。感染リスクは分かっていても、手をつないで一緒にいることを我慢できなかった。
杏実を初めて抱きしめたときは、その匂いと細さでくらくらした。キスはいちごのリップクリームの味がした。そして、正直、三十手前にして童貞は杏実の中で捨てたけど、ゴム越しでもあったかさに包まれて射精するのは、やばかった。
倦怠期とはいえ、俺はそういうことがかったるくなったわけではない。杏実は違うのだろうか。もう、俺のことなんて──
画面を落とし、スマホをアイスコーヒーのグラスのかたわらに置く。フルスロットルのクーラーで、だいぶ汗は引いていた。
現在、デートではこうして俺の部屋でそれぞれにだらだらする。同じ空間にいながら、話さなくても気まずくないというのはある。だが、そんなものは、くつろぎでなく相手に無関心になっただけだ。
またため息が出た。あんまり頭痛がするので、眼鏡を外して目頭を揉む。
俺も悪いのだろうか。関係がこうなってしまう前、毎回細かくプランを考えてデートに挑むことがなくなっていた。杏実に「どこ行きたい?」と訊きすぎたのか。女の子としては、それは手抜きに感じられて哀しかったのかもしれない。
久々にがっつりロマンティックなコースを決めて、「好きだよ」と言葉もなるべく添えて、改めて愛情をしめしたら何か変わる?
いや、そんなにこだわらなくても、今ここでもいいのだ。
お前が好きだから、もっと話したい、触りたい、抱きしめたい。ちゃんと気持ちを伝えたら、また──
「あー……もう」
突然、そんなため息混じりの声が聞こえて、俺はどきっとベッドを振り返った。杏実はマスクのまま、俺のまくらに顔を突っ伏している。イヤホンは外れていた。
「何でだろう」
「は?」
「何で私たち、こうなんだろう」
またもやどきりとする。あれこれ画策する心の内を読まれたかと思った。
いや、その疲れたような口調は──もしや、別れ話か。慌てて、ここは真剣になろうと眼鏡をかけなおしたときだ。
「こんなに好きなのに」
「えっ」
「ほんとに愛してるんだよ」
何……だ。どうしたんだ。いまさら杏実がこんな直球な言葉を投げてくるとは。
頭の中があわあわして、とっさに反応に迷っていると、「どうしたの?」と杏実は頭をもたげてくる。
「えっ、あ──」
「そういえば、千高はどうなの?」
「おっ、俺? 俺は──」
言え。俺もって言うんだ。好き。愛してる。ここで言えば、俺たちはもう一度……
「今、推してるのは誰なの?」
「は?」
「私のあと、千高が誰を推してるか知らない」
「え、と──」
「ちなみに私は、今、この人が推しなの」
杏実はスマホをさしだす。とまどいながら覗きこむと、知らない男がしゃべっている配信が映っている。
「私は今、このライバーさんをマジで推してるんだー。でも、だんだん人気出てきてさ、コメントも拾って読んでもらえないんだよね」
「………」
「課金したら読んでもらえるかな? どうせなら名前も呼ばれたいし……どのくらい投げたらいいんだろ」
「……投げる金、あんの?」
「あははっ、そうなんだよねー。千高、私の昔の衣装とか買い取ってくれない?」
杏実は笑う。俺は笑えない。
──いや、分かってただろ。杏実がそういう、承認欲求の塊であることは。
そうだ。地下アイドルとかやっていた時点で、知っていた。それでも売れないから、ゆいいつ貢ぐ俺によって、何とか「私は愛されてる」と自尊心をなだめていた。
杏実はそういう世界が大好きなのだ。発掘して承認して、お返しに承認されて、そういう上っ面の相互関係に依存している。
俺とつきあいはじめたのだって、熱心に推してくるゆいいつのファンだったからだ。その熱意を承認することで、俺に自分を承認させて、気持ちよくなって……
杏実にあるのは、承認欲求だけなのだ。おそらく初めから、俺に愛情なんてない。
──って、そんなもん、分かってる! とっくに気づいていたことだ。
それなのに、くそ、久しぶりに言われたとか思って嬉しくなっちまった。
俺の推し? アイドル? それは今も、お前だけだよ。
だけど、そんなもん伝わらないんだろうな。もはや、笑われるんだろうな。
やっぱり、推しなんてこっちを見ないもんなんだ。そんなふりはするかもしれない。だけど、どうせ彼女にとって、俺が特別になることはない。
あーあ、こんな中身のない恋人関係、続けていく必要あるのかな?
FIN