君は押し花

 おにいちゃんは、私のことが嫌いだ。
 同じ家の中で、露骨に私を嫌悪してくる。話しかけただけで、舌打ちして突き放す。すれちがうだけでも、吐きそうな目で汚物のように避ける。
 今も夕食中、大皿のからあげを取るタイミングが同じで、「汚ねえだろっ」と怒鳴られた。「厚幸あつゆき!」とおとうさんが声を荒げると、おにいちゃんはそれを無視するように、席を立って食卓を去ってしまった。
 ばたんっとドアの閉まる音に、私がうつむくと、「厚幸のことはほっといていいから」とおかあさんが言った。ふたりはおにいちゃんの態度にあきれていて、どちらかといえば、私のことをかばってくれる。
「私、おにいちゃんに何かしたのかな……」
優美ゆうみは悪くないよ。おかあさんたちも、厚幸のことは何だかよく分からないから」
「もしかして」と私は不安な顔をあげる。
「イジメられてて、そのストレスとかだったりしたら」
「おとうさんたちが、それは気をつけておくよ」とおとうさんも私をなだめる。
「優美はもう、厚幸のこと考えなくても──」
「考えるよ! 家族なんだよ」
 おとうさんとおかあさんは、愁えた面持ちを見合わせる。私は顔を伏せて、おにいちゃんは私を家族なんて思ってくれてないかもしれないけど、と我ながら哀しくなる。
 昔は、仲のいい兄妹だった。おにいちゃんが高校生、私が小学校高学年になったあたりから、おにいちゃんの態度はそっけなくなり、やがてとげとげしいものになった。
 高校生にもなって、妹と仲がいいなんて恥ずかしいとか、そういう理由なのだろうけど。あるいは、友達に揶揄われたりしたのかもしれない。分かっていても、おにいちゃんにとって私は恥ずかしい存在なのかと泣きたくなる。
 嫌われているけど、私はおにいちゃんを嫌いにはなっていない。だから余計に、おにいちゃんはいらつくのかもしれない。でもやっぱり、私はおにいちゃんに嫌悪をやり返すより、かたくなな拒絶にとまどってしまう。
 そんな家庭内に悩むまま、おにいちゃんは大学生になり、私は中学二年生に進級した。おにいちゃんの態度は相変わらずで、落ちこむ私をおとうさんとおかあさんがなぐさめる。おにいちゃんのこともそんなふうに心配してあげてほしい、と思うけど、ふたりは私をかばうばかりだ。だからまた、私がおにいちゃんに嫌われるのに。そう思っても、両親もおにいちゃんを持て余しているのは分かったので、私は何も言えなかった。
 おにいちゃんは、大学に入学してまもない頃に、ひとつ年上の彼女さんを作っていた。夏休みに入り、彼女さんがこの家に来たことで、私は初めてその存在を知った。
 狂おしく蝉が鳴いていて、クーラーがないと気絶しそうに暑かった。私は突然の来客に慌てつつ、おにいちゃんと彼女さんに冷たい麦茶を淹れて渡した。日中なので、両親は仕事に出ていた。
「わ、ありがとう」
 グラスを受け取った彼女さんは、「先月から厚幸くんとおつきあいさせてもらってます」と私に挨拶した。もしかしておにいちゃんと一緒に私のこと嫌がるかもしれない、とすくんだけども、彼女さんは私に柔らかく咲いかけてくれる。
「厚幸くん、こんなかわいい妹さんいたんだね」
 そう言った彼女さんに、「別にかわいくねえよ」とおにいちゃんは冷たく返す。さすがにこの猛暑では、麦茶は受け取って飲んでくれていた。
「えー、失礼だなあ。えっと、妹さんの名前は──」
「あっ、優美です」
「優美ちゃん。よろしくね。私のことは、未羽みうって気軽に呼んで」
「未羽さん」と私がどきどきしながら口にしてみると、「そう」と未羽さんはにっこりした。その笑顔で、おにいちゃんとは違う、優しくて人懐っこい人だと分かった。
「私は弟しかいないから新鮮だなあ」
「弟さん、いるんですか」と思わず会話を続けても、「うん」と未羽さんは屈託なく応じてくれる。
「今年受験生で、優美ちゃんと歳は変わらないよ」
「受験……。私も、先生にそろそろ考えはじめなさいって言われてて──」
 始まりそうになった雑談に、「おいっ」とおにいちゃんがいらついた声をはさんだ。私はびくりとしてしまう。
「もういいだろうがっ。未羽、俺の部屋行くぞ」
 未羽さんは何か言いかけたけど、おにいちゃんは未羽さんの手首をつかみ、自分の部屋に連れて行ってしまった。取り残された私は、もうちょっと話したかったな、と残念に思う。けれど、私のこういうところが、おにいちゃんは鬱陶しいのかもしれない。
 未羽さんは、夕方に帰宅した両親にもきちんと挨拶していて、おとうさんもおかあさんも未羽さんを歓迎していた。帰るとき、「またね」と未羽さんは私に手も振ってくれた。おにいちゃんはずっとむすっとした顔をしていたけど、未羽さんとふたりきりになったら違うのだろう。
 おにいちゃんは、もしかして女の人が苦手で、私が嫌になったのかな。そう思ったときもある。けれど、彼女さんを作るならそういうわけでもないらしい。
 両親がいるときには、さすがにその音はしない。でも、ほかに家にいるのが私だけのときは、おにいちゃんの部屋からは、未羽さんの小さく切なげな声、そしてベッドのきしみが聞こえた。
 私は別にそれを気持ち悪いとかも思わなかった。つきあっているのなら、そういうものだろうし。それより、未羽さんがおにいちゃんの態度に構わず、私と仲良くしてくれるのが嬉しかった。
 だから、残暑が終わるのも待たずにふたりが別れたときは、びっくりしてショックまで受けてしまった。
 もう未羽さんと話したりできないの? おにいちゃんのこととは関係なく、会えたりしない? このまま他人になるだけ?
 未羽さんの連絡先とか、おにいちゃんに訊いちゃダメ……かな。それは無神経? またおにいちゃんをいらいらさせるのは、分かる。
 だいぶ躊躇ったけど、未羽さんと別れたという報告から一週間後くらいに、思い切っておにいちゃんに話しかけた。当然のように無視されそうになったものの、「未羽さんのこと、」と何とか言おうとすると、思いがけないほどの憎しみがこもった眼を突き刺された。
「お前のせいだからな」
「えっ」
「未羽と別れたのはお前のせいなんだよっ」
 思い設けない言葉に、目を開いて突っ立ってしまうと、おにいちゃんは舌打ちして自分の部屋に入ってしまった。私はぎこちなく足元に目線を落とした。
 私のせい?
 私が未羽さんに嫌な想いをさせたってこと?
 考えてみたけど、何も分からなかった。もしかして、未羽さんは私とただ会話するのも嫌だったの?
 ……そう、だよね。私と話すくらいなら、おにいちゃんと過ごしたかったよね。そっか。私、無意識におにいちゃんと未羽さんの邪魔をしてたんだ。つきあい続けるのが不愉快になるほどに。
 未羽さん、優しく咲ってくれてたのになあ。きっと、無理してくれてたんだなあ。
 謝りたくても、それすらうざったく思われるのだろう。取り返しがつかないことに、リビングで泣いてしまっていると、おかあさんがパートから帰ってきた。おかあさんは泣いている私に驚き、「どうしたの」と隣に座った。私は自分の鈍感さが我慢できず、おにいちゃんの言葉を伝え、「どうしたら許してもらえるかな」と嗚咽をこぼした。
 おかあさんが言葉に詰まっていると、おとうさんも仕事から帰ってきた。泣いている私と、困惑しているおかあさん。おとうさんは、何も訊かなくてもおにいちゃんが原因だと察したようだった。苦々しい表情で提げたかばんをおろすと、背広のままおにいちゃんの部屋のドアを強くたたいた。
「厚幸! もう許せないぞ、出てこいっ」
 賃貸のマンションだから、部屋に鍵などない。開けようとすればすぐなのに、それはしないおとうさんは優しいと思った。怯えるような私を抱き寄せてくれる、おかあさんの腕の中も温かい。
 何がダメだったのだろう。何でおにいちゃんは──
「……っせえなあ」
 おにいちゃんがようやくドアを開けて顔を出すと、おとうさんはおにいちゃんを私とおかあさんがいるリビングに連れてきた。私が泣いているのを見たおにいちゃんは、眉を寄せる。
「厚幸、お前は何が気に入らないんだ? ちゃんと話してくれないと分からない」
 おとうさんの厳しい顔と声に、おにいちゃんは息をつき、「別に……」と低い声で答える。
「この家が悪いだけ。いい加減、ひとり暮らししたいんだけど」
「何がそんなに苦しい?」
「は?」
「それくらい分かってる。お前が苦しんでることくらいな。でも、それが何なのか教えてくれないと、助け方も分からないんだよ」
 おとうさんにまっすぐ見つめられ、おにいちゃんはかすかに動揺を見せた。でも、私を一瞥して舌打ちする。「厚幸」とおとうさんがそれを咎めると、「分かったよっ」とおにいちゃんはおとうさんを見つめ返した。
「話す……話す、から」
 おにいちゃんは一度まぶたを伏せた。深くため息をつく。そうしたら、おにいちゃんの閉じたまぶたの端にわずかに涙が滲み、雫がぽろぽろ落ちはじめた。
「厚幸──」
「……話す。待って。少し、気持ち準備するから」
 おとうさんはおにいちゃんの肩に手を置くと、私とおかあさんを向いた。
「まず、ふたりで話したほうがよさそうだ。おかあさんと優美は、少し席を外してくれないか」
 おかあさんは即座にうなずくと、私の肩を抱くまま立ち上がった。私はおにいちゃんを振り返ろうとしたけど、おかあさんに止められた。
「少し、ふたりで歩こうか」
 スマホと家の鍵をポーチに入れて、おかあさんは私に家を出るようにうながした。
「どこ行くの?」
「おとうさんから連絡あるまで、駅前でお茶でもしよう。夜道は歩きまわれないもんね」
「……うん」
 十月になり、昼間はまだ真夏のような気候だけど、夜はだいぶ風が涼しい。月はないけど街燈が続く道に、ふたりぶんの足音が響く。マンションの群衆の中は静かだったけど、すぐ駅前に出て、周りはにぎやかになった。
「おにいちゃんと私、昔は仲良かったのにな」
 私がぽつりとつぶやくと、「そうだね」とおかあさんはなぜか泣きそうに咲った。
「優美が生まれたときは、誰よりも厚幸が優美をかわいがってくれたなあ」
「そうなの?」
「うん。優美を泣かせた悪ガキの子を殴りそうになったりね」
「……それは憶えてない」
「そっか。あのね、優美」
「ん?」
「おかあさんね、ちょっと心配だったの」
「心配?」
「厚幸と優美、本当に仲が良くてね。どこ行くのも手をつないでたでしょう。だから、少しだけ……ほんの少しだけ、厚幸が優美から自立──って言い方は違うかもしれないけど、距離を取ったことにほっとしてたの」
「そんなっ……」
「ごめんね。おとうさんとおかあさんが、そんな心配をしてるのが厚幸に伝わって、きっと余計にあの子を──」
 そのときだった。駅前の雑踏の中から、私の名前を呼ぶ声がした。それが悲鳴みたいな声だったから、びくんと立ち止まってきょろきょろしてしまう。おかあさんもだ。
 人混みをかき分けて、こちらに駆け寄ってくる人がいた。
 ──未羽さんだ。
「よかった。優美ちゃん……大丈夫だよね?」
「えっ?」
 意味が分からなくてきょとんとしてしまうと、「未羽さん。何かあったの?」とおかあさんが代わりに問うてくれる。
「あ、ごめんなさい。えっと、私が厚幸くんと別れたことは……」
「知っているけれど──あ、ごめんなさいね。あの子が愛想悪かったとか、そんな理由でしょう?」
「いえ、その……。実は、理由は──一週間くらい悩んだけど、話さなきゃいけないと思って。今から、そちらに伺おうと思ってたんです」
「何かあったの?」
「とりあえず、家のほうに」
「今、家ではおとうさんとおにいちゃんがふたりで話してるんです」
 未羽さんはそう言った私を見ると、腰をかがめて視線を等しくした。怖いくらいに真剣な顔だった。
「優美ちゃん、もう一度訊くけど、大丈夫だよね?」
「え……っ?」
「これまでも、大丈夫だった?」
「な、何……」
「厚幸くんに、その……」
 口ごもった未羽さんに、「どういうこと?」とおかあさんは不安の混ぜた早口で言った。未羽さんは胸をさすって深呼吸すると、「本当にごめんなさい」と私とおかあさんの目を見てから、肩にかけたトートバッグからスマホを取り出した。軽くスワイプで操作すると、画面に表示させたものをさしだす。
「ひっ……」
 おかあさんが息を飲みながら声をもらした。私も身をこわばらせた。
 私の写真がびっしりとスクラップされた、ノートの見開きページだった。何冊もあるようだ。そして、そのノートが重なったデスクは、私が小学校のときに、よく一緒に勉強していたおにいちゃんのデスクだった。
「厚幸くん、たぶん……優美ちゃんを性的に見てる。もしかしたら、もっと異常かも。ショックで別れたけど、証拠は撮ってたから、やっぱり言わなきゃって……」
 おかあさんは、息を震わせながらも絶句していた。否定しない。怒ることもない。むしろ、どこかでは気づいていたような息遣いだった。
 そのとき、おかあさんのスマホが鳴った。三人ともはっとする。おかあさんはわななく手で、ポーチに入れたスマホを取り出した。おかあさんは画面を見つめて唇を噛む。
 そっと画面を横から見ると、『家族で話し合いたい』というおとうさんからのメッセが表示されていた。
 私は息が浅くなるのを感じながら、うなだれた。
 おにいちゃん。私のすがたをノートに集めたおにいちゃん。押し花みたいに刻みつけたおにいちゃん。
 私はこらえきれなくなって、涙をぼろぼろと流しはじめる。
 お願い。お願い、おにいちゃん。どうか、私をそのまま私を拒絶して。
 私には、おにいちゃんの闇に、甘えてしまいそうな気持ちがあるから。
 でも、それは絶対にダメだから。
 私が甘えないように、絶対、私を拒絶して。受け入れないで。
 未羽さんは泣きそうになりながら私に謝っている。おかあさんは両手で顔をおおっている。私はなおも浅い息を揺らし、舌をからからに乾かしながら、「帰ろう」と言った。
 並ぶ店が煌々と明るい。駅前のざわめきは、何事もなかったように動きつづけていた。

 FIN

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