僕の家には、夜になると「疲れたなあ」と言いつつ帰ってくるとうさんはいない。そして、それを「お疲れ様」と苦笑しながら出迎えるかあさんもいない。
ずうっと昔は、そんな家庭だった気がする。とうさんが帰っていく場所が、別の女の人の場所になって変わった。かあさんは新しい生活よりも、意固地に離婚しないことを選んだ。
「あの人、晶一と同い年の子供までいたのよ……信じられない、最初から騙されてたのね。絶対、私と晶一であいつらより幸せになるまで離婚しないわ」
かあさんは、その手段をとにかく金だと思った。朝も昼も夜も、めちゃくちゃなくらいに働いた。
僕とは話すどころか、顔を合わせることもなくなった。僕はとうさんのことはあきらめていたから、せめてかあさんと今日学校であったこととかを話せるほうが幸せだった。しかし、稀に顔を合わせても、かあさんは成績のことしか訊かない。テストの点数が下がっていると、露骨に嫌な顔をして、「もう私をみじめにしないで」とため息をついた。
学校に行かなくなったのは、「親が家にいないとか、うるさくなくていいじゃん」とクラスメイトに言われたからだ。彼に悪気はなかっただろう。そこそこ本気であったかもしれない。でも、両親に放棄されるのがどんなにつらいことかと感じていた僕は、彼につかみかかった。
「マザコンだから、おばさんもお前が嫌なんじゃねえのっ」
僕に髪を引っ張られて、彼は怒鳴るようにそう吐いた。僕が愕然としていると、担任が割って入った。周りのみんなは「晶一くんが勝手に怒り出してた」と口を揃えた。
分からないのかよ。とうさんがずっと帰宅しない。かあさんがごはんも作ってくれない。それが、どんなに僕の心を蝕んでいるか──
学校に行かなくなって、リビングのカウチにずっと横たわっていた。眠たくなるのを待って、お腹が空いても無視した。一週間くらいそれを続けて、さすがに空腹が胃を捻じって喉元まで飢えてきた。
一週間リビングにいたのに、かあさんの気配を気取ることはなかった。まったく帰ってこなかったのだろう。
僕はゆらゆらとキッチンに行ったけど、レンチンやお湯を注ぐだけの調理さえ億劫に感じた。すぐにそのまま食べれるものはなかった。賞味期限が早いものは、かあさんが基本的に置いていない。
僕は蹌踉と玄関に向かった。スニーカーを履いた。足元が異様に重く感じられる。鍵を開け、肩を押し当ててドアを開けた。
初夏の夕暮れだった。黒血じみた気持ち悪い赤い空が広がっている。僕は緩い風を感じながら左右に揺れ、一軒家である家を離れて歩道を歩いていった。等間隔の街路樹の根元に生えた、道草の匂いがしていた。
空色がすぐに夕闇になっていく中、涼しい空調がされた駅前のコンビニにたどりついた。ここは、いつも混雑していてスタッフもいそがしそうにしている。あと、キャンペーン告知を繰り返すラジオが無駄にうるさい。皓々とした電燈も、まばゆくて眉がゆがむ。
僕は菓子パンコーナーに突っ立ち、適当にメロンパンに手を伸ばしかけた。しかし、お金を持ってこなかったことに気づく。
ここはレジの死角ではない。でも、並んだ客がいらつきはじめるくらいの列にばたばたしていて、スタッフの注意は向けられていない。ああ、でも防犯カメラとかあるのかな。
……いいか。もしかしたら、僕が万引きで捕まったら、さすがにかあさんも顔を見せてくれるかもしれないし──
メロンパンをつかんだ。そのまま出口に向かおうとした。が、歩き出すとよたよたした足元が崩れ、派手につまずいて転んでしまった。
「わっ、大丈夫?」
そんな女の人の声がした。僕は冷たい床に突っ伏して、動けなかった。
「え、生きてる?」
僕は虚ろな目を動かし、手放したメロンパンが転がってるのを見た。
「おなか……」
「え?」
「お腹空いた……」
「大丈夫ですか!?」とスタッフの声もすると、女の人の声が対応してくれた。女の人は、メロンパンを立て替えまでしてくれて、僕をコンビニ前の落書きだらけのベンチに座らせた。
「真っ青じゃん。どのぐらい食べてないの?」
僕はメロンパンにかぶりつき、もぐもぐしながら「一週間」と愛想もなく答えた。
「やばっ。小学生? もっと食べないと」
僕はようやく女の人を見た。金髪メッシュの茶髪、派手な化粧、キャミワンピにボレロを着ただけ。肌の露出がすごい。二十歳ぐらいだろうか。小学五年生の僕でも、水商売の人だと分かった。
「メロンパンで足りる?」
「……お金ない」
「おごるよ。焼肉弁当とか食べちゃお! 待ってて、買ってくるから」
女の人は立ち上がり、コンビニに駆けこんでいった。僕は息をついて、オレンジ色の甘いクリームが入っていたメロンパンを食べ終えた。
空はとっくに濃紺に染まっていて、涼風が僕の伸ばし気味の髪を揺らす。
「ごめん、焼肉売り切れてたわ。でも豚カツ弁当はあった!」
戻ってきた女の人は、僕に豚カツ弁当を渡した。ごはん大盛りのシールが貼ってある。さすがに恐縮の気持ちが芽生えてくる。
「えっ……と、食べて、いいんですか……?」
おずおずと訊いてみると、「そのためにおごってるんだから」と女の人は胸を張った。その胸にボリュームはあまりなくて、いわゆる貧乳だった。
僕はテープを剥がし、透明の蓋を取った。豚カツにかかった、炒りたまごのだしの香りが優しい。僕は割り箸をぱちんと割って、それを食べはじめた。食べながら、なぜか涙が出てきた。
「もし親があてにならないなら、自分で頑張らなきゃダメだよ」
鼻をすする僕に、女の人が不意にそう言った。僕は揺らぐ視界をうつむけたまま、「頑張る力がない……」とぼそっと返した。
「なら、死んじゃうだけだよ?」
ごはんを口を詰めて目を向けると、女の人はにっこりとした。意地悪の言葉ではないようだった。それどころか、たぶん事実だ。
僕の親はあてにならない。自分で頑張るしかない。頑張れないなら、死ぬだけ──
「何を、頑張ればいいのかな」
「うーん。盗むとか、売るとか、騙すとか?」
泣いているまま僕が変な顔になると、女の人はからから笑って、「あたしは、そういうのを頑張って今日まで生きてきたよ」と親指を突き立てたグッドサインをした。僕は涙をこらえて弁当に向かい合い、がつがつと食べて、あっという間に弁当を空っぽにした。
「おねえさん」
「うん?」
「僕に生き方を教えてよ」
「生き方?」
「ひとりで生きていける方法が知りたい」
女の人は、ラメがきらきらした睫毛でまばたきをしたあと、「うーん」と首をかたむけてから、僕を覗きこんだ。スパイシーな香水がただよう。
「ただで教えるの?」
「生きていけるようになったら、いくらでも返す」
「出世払いかあ」
「ダメかな」
「ダメだったら、お弁当買ってあげたりしないよね」
僕は女の人を見上げた。「名前は?」と訊かれ、「晶一」と答えた。女の人はルミさんと名乗った。
「今日はこのあと仕事だから、明日からお昼にここで待ち合わせしよっ」
そう言ったルミさんは、颯爽と立ち上がると、改札のほうへ歩いていった。明日──ほんとに来てくれるかな、と思ったけど、翌日の十二時くらいにコンビニにおもむくと、「やっほー」と咲うルミさんがいた。
それから、僕はルミさんに「生き方」を教わった。盗む、売る、騙す。それ以外にも、ナイフのあつかい方や、殴られるときのかわし方。ほかにもピッキングとか。社会に反した裏技ばかりだった。
確かに、僕にはこういう方法しかない。ルミさんも、そうだったのだろう。
「ルミさんは、こういうの誰に教わったの?」
厚化粧のおばさんからバッグをひったくり、財布の中身だけ抜いて、あとはまるごとゴミ箱に投げ捨てる僕に、ルミさんにそう訊いた。
「母親かなあ」
「……そうなんだ」
うまい言葉を言えずにいると、ルミさんは大笑いして僕の肩をたたいた。そうしながら、不意にルミさんの目元が雫に光ったので、はっとする。
「あたしをおっさんに売って、その売り上げを若い男に貢いでたクソババア」
「……ごめん」
「ううん。あたしもごめんね、君の手を汚すことしか教えられなくて」
そんなことは構わない。ルミさんと過ごして、一年近く経とうとしていた。桜が咲きはじめている中、僕はもうすぐ六年生になる。このまま、ルミさんとつながっていられたら、それでいいと思いはじめていた。
好きなのかな、ルミさんのこと。
好きなのかも、ルミさんのこと。
ルミさんと過ごせないときは、僕は教わった手段で金をかき集めた。十八歳になったら、こんな家は出ていくつもりだ。そのときまで、とにかく金を貯めておくのだ。
その日の収穫を数えていた四月の真夜中、ルミさんが僕の家に来た。鍵を渡していたわけではないけど、いつもピッキングで簡単に入ってくる。「今日は稼げたね」とルミさんは僕の頭をぽんぽんとして、「うん」と僕はちょっとおもはゆくうなずく。
「晶一はもう生きていけるね」
「……ん」
「よかった、ここまで教えることができて」
ルミさんは微笑むと、カウチに腰をおろして脚を組んだ。そういえば、この時間帯は仕事中ではないのだろうか。
「晶一といて、あたしも生きていこうと思えた」
「えっ」
「そんなふうに思わせてくれたから、出世払いはそれでチャラかな」
何となく不安に表情をこわばらせると、ルミさんは微笑して、「駈け落ちしようと思うんだ」と言った。
「かけ……おち?」
「中学時代からの彼氏と」
「中学とか……行ってたの?」
「せんぜん行かないことをしかってくれた奴」
「───……」
「クラス委員でさ、あたしの家まで来て説教するの。うざいよね。でも……家の中のこと知って、ずっとそばにいてくれた」
「好き……なんだ」
「うん。彼の親は、めちゃめちゃにあたしの存在に嫌ってるから、ふたりで逃げることにした」
……分かって、いた。この人には、僕は弟のようなものだ。いや、もしかしたら弟以下の愛玩ペットかもしれない。
悔しかった。バカにされて。
悔しい。好きなのに。
悔しい。きっと勝てない。
すべてが、悔しかった。
ここで「さよなら」をあっさり言えば、せめて皮肉になるのだろうか。そう思ったのに──
「会えなくなるの、寂しいな」
そんなかすれた声が出てしまう。ルミさんはそんな僕の肩を、「晶一は頑張っていけるよ」と言ってぽんとたたいた。
……頑張れないよ。汚れていくだけだよ。行かないでって言えないのは、僕がすっかり泥に浸かってしまったから。
「幸せに、なってね」
「うん。ありがと」
ルミさんはにっこり笑みを残すと、カウチを立ち上がり、まっすぐ背筋を伸ばして僕の家を出ていった。
悔しさで胃が捻じれる。切なさで心がざらつく。
窓の向こうは、月のない深い夜だった。取りつくものがなくなってしまった不安定に、僕はその場に虚脱する。
空腹のまま、死ぬしかなかった僕。
ルミさんに仕込まれて、僕は汚く生き延びることを知った。しっかり息を吹きこんでもらった。なのに、その呼吸が今、ひどく苦しい。
あの日、途絶えてしまえばよかったのだ。命を引き延ばされたせいで、僕は知らなくてよかった痛みに襲われている。
恋も何も知らないまま、死んでおけばよかった……
紙幣にぱたぱたと涙がこぼれていく。ひとりはやだ。生きてたくない。そう思う。だが僕は、すでにひとりでは何もできない子供ではなくなっていた。
FIN