天使の着信

 絢乃あやのとは古いつきあいだし、「うちら親友だよねー」と言われたら、「そうだねー」と答える。それが口先だとは言わないけども、正直、彼女の恋愛体質を私はまったく理解できない。
 男にも女にも興味がない。そんな私と較べるものでもないのかもしれないけど、絢乃は常に男に愛されていないとメンタルが荒れる。それはいい。問題は、結婚後もそれが変わらず、今では旦那の親友である男をすべてにしているところだ。
 今、三十五歳の絢乃には、十年越しの不倫愛になるらしい。えぐい。えぐすぎる。彼女のおなじみの相談を、今度は私が誰かに相談したい。
 昔、私と絢乃は工場で働いていた。人の入れ替わりがすさまじい職場だった。一ヵ月続く人も少なくて、常に求人誌に募集が載っていて、毎週大量に集団面接をしていた。
 そこに受かる条件はたったひとつ。派遣会社の人が言うには、
「最後に、社長に『頑張れるか?』って訊かれるから、『頑張れます』ってはっきり答えてね。それさえ元気に言えたら、絶対受かるから」
 かくして、かなりちょろい感じで採用された。同じ日に同じように採用された人の中に絢乃がいて、何となく仲良くなった。
 新人はさっそく孤立して、古株のおばちゃん連中に嫌がらせされることが多かった。無論みんな、すぐに辞めていく。
「彼氏とかいないの? いるわよねえ。どんな男なの?」
 私はそんなゲスな質問を受け、「男に興味ないです」と答えただけだった。なのに、翌日からレズビアンだの変態だのと陰口がものすごいことになった。好色な顔をして、「レズは男を意識しないよなあ」と肩を組み、さりげなく胸に触るおっさんもいた。マジでこいつら死ねばいいと思った。
 私が辞めたら、絢乃も辞めた。
千由美ちゆみって、ほんとにレズビアンなの?」
「あんなの真に受けないでよ」
 絢乃にそう訊かれたときも、それだけしか言わなかった。細かい説明はしない。私が二十歳のときは、まだ主張するだけ徒労になる時代だった。
 その後、私は水商売の世界に足を踏み入れた。絢乃もくっついてきたけど、客と恋仲になったのがばれて、ママに即行で切られていた。
「ユミは店辞めないでよね。才能あると思うから」
 絢乃が出禁まで言い渡されて去ったあと、ママは私を自分の行きつけのバーに呼び出し、そう釘を刺してきた。
 そんなわけで、私は今でも水商売をしている。ママには本当にお世話になった。ステップアップのため、さらに高級なクラブに移ると決めたときも応援して、「またいつでも飲みに来て」と言ってくれた。
 さらに私は、そんな仕事をネタにエッセイ漫画を描き、ブログやSNSで発信している。ありがたいことに、描いたものが書籍化されることになったりして、三十路に踏みこんだあたりで印税も得るようになった。
 昼は在宅、夜はお水、結婚を望まない私が着々とひとりで生計を立てる準備をしていた頃、絢乃は高校時代からの彼氏である博斗ひろとさんと結婚していた。すでにひとり息子ももうけていた。
「博斗、高校時代から女遊びひどくてさ……ぜんぜんやめてくれないの」
 私のマンションに来た絢乃は、遠慮なく作業部屋にも踏みこみ、ぐずるような声で愚痴を垂れ流した。連れてきている息子の絢斗けんとくんは、リビングのソファでお昼寝中だった。
「不安なの。だから私も、博斗じゃない人と寝るしかない。そうしないと、ひとりだと、頭が変になりそうで」
「じゃあ、本命が博斗さんなのは変わらないの?」
「それは……」
 言いよどんだ絢乃に、よろしくことになってるなとすぐ察知した。案の定、絢乃は博斗さんの親友である、健太郎けんたろうさんの存在を語りはじめた。
「高校のときから、博斗の女遊びとかいろいろ、相談に乗ってくれててね。すごく優しいし、まじめだし、いい人なの。正直、健太郎くんのそばにいたくて、私は博斗と結婚したんだ」
 ええー……
 その心理がよく分からないのって、私だけ?
「健太郎くんがいるから、博斗がふらふらしてても平気でいられた。でも、だんだん、こんなことなら健太郎くんと結婚してればよかったなって……」
「こないだ、SNSで知り合った人とつきあってなかった?」
「あれは、健太郎くんの代わり。健太郎くんがいそがしいときに、会いたいとかわがまま言いたくないしさ。健太郎くんがいそがしいなら、ほかの男で埋めとくしかないでしょ」
 ほう。理解できない。
 そう思っても黙っておいたので、以来、絢乃は遠慮なく私に愚痴を聞かせるようになった。博斗さんが、だいぶ女にふらふらしているのは事実だと思う。私も食事に誘われたことがある。もちろん断ったけど。しかし、それをさしひいても、絢乃の「寂しがり屋」には程がある。
 その日も絢乃は、作業中の私に連綿と自分のことを語っていた。すると、不意にリビングから絢斗くんの泣き声がした。絢乃はため息をついて、「あー」とかうざったそうに言いながら、立ち上がろうとする。何だか、その顰めっ面を絢斗くんには見てほしくなくて、私は「今は無理すんな」とペンタブを置くと、代わりにリビングに向かった。
 恋愛ができない。結婚も望まない。そんな私は、おそらく子供を持つことがない。それには、ずいぶんがっかりした。母親になりたいという願望は、不思議とあったから。
 どうしても欲しければ、いろいろ方法はある。ただ資金がねえ、なんて思いながら絢斗くんを抱きあげる。あやし方は、実家で歳の離れた弟の世話をしていた術が生かせる。絢斗くんは私にしがみつくと、「ちーちゃん」とすぐ笑顔になった。私もそれに笑顔を返し、やっぱ子供かわいいよなあと思った。
 絢斗くんが赤ん坊の頃から、そんな感じだった。そして、現在五歳になる絢斗くんは、明らかに絢乃より私に懐いている。
 今、私は三十三歳、絢乃は三十五歳だ。絢乃の恋は相変わらず。私はそれがぜんぜん理解できないものの、面倒なので聞き流すだけで口は出さない。
「じゃあ、絢斗のことよろしくね」
 九月。夏が過ぎても残暑は厳しく、クーラーが生命線になる毎日だった。私は作業に追われているので、ぶあつい眼鏡に上下とも冷感スウェットという、コンビニに行くこともできないすがたをしていた。
 絢乃は、絢斗くんが私に懐いても、母として焦るとか妬むとかはなかった。むしろ好都合に感じているようで、日中は在宅している私に絢斗くんを預け、「すぐ戻るから」とどこかに行く。どこかというか、そのお洒落の様子から健太郎さんのところなのだろうけど、もはやいちいち確認する気もない。
 絢斗くんにお昼を作ると、私は作業部屋に入った。「何かあれば、すぐこっちにおいで」とは言っているのだけど、ずかずか入ってくる絢乃と違い、絢斗くんはこっそりとドアを開けて、踏みこんでいいかを窺う。
 私は顔を上げて振り返り、「どうしたの?」とつい微笑む。絢斗くんは嬉しそうに部屋に入ってくると、「ごはんおいしかった」とにこにこして言ってくれる。
「もう食べちゃったの?」
「おいしいもん」
「ちゃんと噛んで食べなきゃダメだぞ」
 絢斗くんは無邪気に咲って、「次は気をつける」と言った。そして、デスクに取りついてその上を見渡す。
「ちーちゃんは、お絵描きがお仕事になっててすごいね」
「そうかな」
「僕もお絵描きしようかな。スケッチブック持ってきた」
「じゃあ、一緒に描こうか」
「うん!」
 そんなわけで、リビングの荷物から絢斗くんはスケッチブックとクレヨンを持ってくる。私の影響で、この子も絵を描くことが大好きに育った。そういうところもかわいくて、私も絢斗くんを預かることを引き受けてしまう。
 母親である絢乃が、絢斗くんのそばにいることが一番だと思う。それは分かっているけれど──
「ちーちゃん」
 床に座りこんで、絢斗くんはお絵描きを始める。私も黙々とネームを進める。そうしていると、不意に絢斗くんの声がかかった。
「うん?」
「何か、静かだね」
「はは、おしゃべりする?」
「ううん。静かなのほっとする」
「そっか」
「僕、このおうちで暮らしたいなあ」
「えー? ここにはパパもママもいないぞ」
「………、パパもママも、いらないよ」
 スケッチブックを見つめる絢斗くんをかえりみた。絢斗くんは、作業中の私のすがたやここで食べたごはんを描くことが多い。だけど今日は、並んだ男の人と女の人の顔を、黒いクレヨンで塗りつぶしていた。
「おうち、何かあるの?」
「……パパとママ、喧嘩ばっかりなの」
「喧嘩……?」
「おっきな声で、ずっと怒ってる。耳をふさいでも聞こえるくらいのとき、僕、息が苦しくなってね、口の中がからからになるの」
 私は眉を寄せ、それは過呼吸ではないかと思った。そんな絢斗くんを放置して、絢乃たちは喧嘩なんかしているの?
 夕方、絢斗くんを迎えにきた絢乃に話を訊いてみた。絢斗くんは私が用意した夕食を食べていて、聞こえないように話は玄関で行なった。絢乃曰く、博斗さんに不倫を疑われて、確かに喧嘩が続いているらしい。さすがに、相手までは突き止められていないということだけど。
「えらそうに喧嘩ふっかけるなら、お前も女遊びやめろよって思うわ。私、見逃してあげてるだけいい奥さんでしょ? そう思わない?」
 思わない、と言ったところで火炎になるので、私は乾いた笑いを返す。
「あんな男、さっさと別れたいなあ。ほんっと、絢斗がいなかったら……」
 私は絢乃を一瞥する。そんな──絢斗くんが、邪魔者みたいに言うことはないじゃない。むしろ、あの子のために、不倫だの浮気だのを清算しようとは思えないの?
 それをやはり口にはしない私も、結局は薄情なのだろう。まともに話すだけ疲れて、口も挟みたくないと思ってしまう。
 書籍用の原稿が仕上がった日、クラブに出勤することにした。営業用のスマホで客にメッセを飛ばしながら、まずはシャワーを浴びる。そして、コンタクトを入れてメイク、ヘアセット、服やアクセも決めて、ネオン街の彩りをまとっていく。
 私は鎖骨や脚を露出する服をよく着るから、体型は意識して保っている。昔は絢乃のほうが細かった。どこのエステに行ってるのか訊かれまくるけど、私はそんな金のかかるものには頼っていない。動画を参考にして、毎日ストレッチすれば、何といっても無料だ。
 在宅作業中とは我ながら見違えたすがたになって、夕方にはマンションを出て出勤する。営業スマホに、ちらほら返信が来ている。「もちろん会いに行くよ」という内容にまず応えて、今日の夜をつかまえる。けれど、「今日はごめんねー」という返信にも、返信をくれたということにしっかりお礼を伝える。
 同業者がちらほら見受けられる電車に揺られ、夜の街が始まる駅で降りた。くるくる光が舞うネオンの中を毅然と歩いていく。ヒールがいい音を立てる。同伴らしき客と嬢、キャッチの男の子、ビラ配りのおじさん、混みあう通りの人々をひらりと交わす。
 そして、現在勤めるクラブが入ったビルのエントランスに入ろうとしたときだった。
「千由美さん!」
 私は整えた眉をゆがめた。何でここで本名?
 かつっ、と足を止めて、振り返った。すると、そこにはリクルートスーツを着た男のふたり組がいた。
 片方が博斗さんなのは、すぐに分かった。
「ひゃー、やっぱ美人っすね。今日、飲みに行こうかな」
 一見さんお断りですよ、とは言わず、「うちの店、テーブルに着いただけで諭吉飛びますよ」と生々しいことを言っておく。
「マジで? こっわ。ぼったくりじゃん」
「……このへんでは、あまり飲まれないんですか?」
「えっ? いや──そんなことはないけどね」
 そんなことはなくて、相場さえ知らないのか。あえて突っ込まず、相変わらず軽いなあと内心ため息をついた。しかし、人懐っこい顔立ちをしている。けしてイケメンではないし、性格も女たらしなのに、モテる理由は何となく分かる。
「そちらは、同僚の方ですか?」
「あっ、こいつがねー、千由美ちゃんに会ってみたいって言うから連れてきたんだ。俺の親友で、健太郎っていうの」
 私は軽く目を開いて、その男を見た。凛々しい顔立ちをしていて、肌は浅黒く、寡黙な感じだ。私を見て頭は下げたけれど、目は合わせないので、知られてるのを知ってるんだなと分かった。
「てかさー、諭吉とか冗談だよね? むしろ、俺って千由美ちゃんの知り合いなわけだし、割引とかあるっしょ。よしっ、店に案内してよ」
 どこの平和ボケした場末の話だ。玄人を鼻にかける客は厄介だけど、ズブの素人を自覚していない奴も鬱陶しい。
 どうしようかな、と思っていたとき、「ユミちゃん?」とちゃんと源氏名で呼んでくれる男の声がかかった。
 振り向くと、サングラスをしていてもオーラが滲む、けっこう大物な初老俳優がいた。私の作品を読んで、よく指名して、感想まで言ってくれる人だ。さっき営業スマホに、「撮影が終わったら行く」というメッセも来ていた。
「お久しぶりです」と私が丁寧に頭を下げると、その人は微笑んでくれたあと、博斗さんたちをちらりと見た。そして、「オーナーに伝えておこうか?」と端的に言ってくれる。
「そこらのチンピラより、品がないような話が聞こえたけど」
「大丈夫です。一応、親友の旦那様とご友人なので」
「おや、それは失礼」
「いえ、お気遣いいただけて嬉しいです。──すみません、博斗さん。本物のお客様をご案内したいので」
『本物の』はもちろん嫌味だ。彼らには有無を言わさない笑顔を向けておき、私は俳優さんと腕を組んでビルに入った。エレベーターに乗って、思わず大きく息をつくと、俳優さんは豪快に笑って「今日は俺がユミちゃんの話を聞こうか?」なんて言ってくれた。
 それに心をほぐされつつ、何で健太郎さんが私に会いたいなんて言い出すのだろうと考えた。ここまで来たということは、そう言ったのが嘘ではないということだろうけど──
 その日は、ラストの午前二時まで働いた。アフターはなく、「お疲れ様です」と店を出ると、エレベーターで地上に降り立つ。タクシー捕まえてさっさと帰るかな、と伸びをしながらビルを出ると、ネオンの色彩はまだ名残っていても、人通りはほとんどなくなっていた。
 涼んだ夜風が、酒気を帯びた頬に気持ちいい。ヒールを響かせて歩き出そうとしたときだ。不意に「千由美さん」と呼ばれ、私ははっと振り返った。
 健太郎さんだった。博斗さんのすがたは──一応、ない。
「え……、と」
「僕、あなたにお願いがあるんです」
「は?」
「それを言いたくて、博斗にここまで連れてきてもらったんです」
「……博斗さんは」
「帰りました」
「本当に?」
「さっきのこと、怒ってますよね。失礼しました。僕は営業職なので、このへんの適正価格は知ってます」
 私は仏頂面でこまねき、「お願いって何ですか」と話を急かした。
「……はい、その──千由美さんは、僕と絢乃ちゃんのことって」
「知ってますよ」
「そう、ですよね。絢乃ちゃんにも、親友は分かってくれてるって聞いてて」
 分かってるわけじゃなく、何も訊かないし言わないだけだけど、波立つだけの言葉は黙っておく。
「だから、僕の気持ちも分かってくれるかなって。その……千由美さん、ほんとにお綺麗だし、水商売なら男を口説くのも得意ですよね?」
 彼が何を言いたいのか分からず、私が目を眇めると、「だから」と健太郎さんは初めて私の目を見た。
「博斗を誘惑してください」
「は……?」
「僕、絢乃ちゃんのこと、もう我慢できなくて。千由美さんの仕事なら、簡単ですよね? 博斗の奴をしばらく惹きつけてほしいんです」
「そんなことして──」
「その隙に、僕は絢乃ちゃんを連れて逃げます」
「は……あ?」
「絢乃ちゃんの幸せのためだから、親友の千由美さんなら……」
「待って。あのねえ……絢乃は、もう博斗さんとのあいだに絢斗くんもいるわけで」
「……あんな、の。どうせ、本気で愛し合って生まれたわけでもない子じゃないですか。僕のためなら、絢乃ちゃんは捨ててくれるっ」
 こめかみでばちっと火花が起きた。私は健太郎さんに駆け寄り、手を振り上げるとその頬をしたたかに引っぱたいた。破裂音は、深夜の虚空に派手に響いた。
「バッカじゃないの! 二度とそんなこと私に頼みに来ないで」
 健太郎さんはびっくりした目で私を見る。きょとんとした目が無性にいらついた。本気で、私が怒る理由が分かっていない目だ。
 頭おかしいんじゃないの?
 私は身をひるがえして、その場をとっとと離れた。けれども、胸の中にはもやもやと霧が立ち込めてきていた。
 だって……絢乃は、本当に絢斗くんを捨てて、健太郎さんとの駈け落ちを選ぶような気がしたから。
 翌日、また絢乃は私に絢斗くんを預けに来た。「また会うの?」とつい口にすると、普段は何も訊かない私だから、絢乃は少し驚いたけど、「うんっ」と笑顔でうなずく。
「今朝、会いたいって急に連絡が来てさ。夜はさすがに家にいないと、勘繰られるしねー。健太郎くんも、外まわりサボればお昼のあいだは自由だから」
 苦い表情を、何とか無表情に隠す。「じゃあ、絢斗のことよろしくねっ」と絢乃は浮かれた様子で去っていった。
 こいつらが取り返しのつかない修羅場を起こすのは、かなり近い気がした。先にリビングに行っていた絢斗くんが、「ちーちゃん、何してるの?」と首をかしげて駆け戻ってくる。
 私の手をつかんだ絢斗くんの手の熱に、急激に息苦しくなった。
 私には、何ができるのだろう。いったい、何をすればいいのだろう。
「ちーちゃん、どうしたの? お絵描きしようよ」
 絢斗くんが無邪気に私の手を引っ張る。私は唇を噛みしめると、「おいで」と絢斗くんとリビングに向かった。そして、キーケースにつけている水色のお守りを手にした。
 厄年だからと深い意味もなくつけたものだ。「厄年が終わったら、お焚き上げしますので持ってきてくださいね」と神主さんには言われたけど──
 神様、罰当たりでごめんなさい。
 心の中で唱えて、お守りをビニールケースから引っ張り出し、巾着の口を開いた。中には小さな御札が入っていて、それを取り出す。裏には何も書かれていなかったので、私はボールペンでそれに走り書きを残した。そして、お守りを元通りにする。
 隣で不思議そうにそれを見ていた絢斗くんに、私はお守りを握らせた。
「絢斗くん、このお守りをいつも持つようにしてて」
「くれるの?」
「うん。ただ、ママたちには私からもらったことは、秘密にして。隠して持っててね」
「ひみつ……」
「絢斗くんがどうしてもつらくて、助けてほしいときが来たら、お守りの中を見て。私のスマホの番号が書いてある。私につながる」
「ちーちゃんに?」
「そのときは、私が絢斗くんを守るから」
 そう──「守る」としか言えない。歯がゆいけど。君のことは私が引き取って、たくさん愛してあげる、とは言えない。私はそこまでの立場じゃない。少なくとも、今は。
 絢斗くんは、本当に何も悪くないのだ。だから、あの頭のおかしい三人に巻きこまれて、傷ついてほしくない。
 その日、きっと健太郎さんに私の昨夜の対応を聞かされたのだろう。夕方に訪れた絢乃は、私と顔を合わせず、言葉も少なく、そそくさと絢斗くんを連れて帰った。
 それ以降、絢斗くんを私に預けにくることさえなくなった。
 しばらく、何もなく日々が過ぎた。残暑が刹那の秋に移ろい、やがて冬になる。私は店に出勤しようとしていた。さいわい、同伴してくれる人も見つかった。よし、とマンションを出たところで、コートのポケットでスマホが震える。
 営業用のスマホは、バッグの中だ。私はポケットからスマホを取り出した。夕闇を歩き出しながら画面を見て、マスカラで彩った目を開く。
『絢乃自宅』
 同伴を、ぶっちぎったら──確実に、オーナーにもママにもめちゃくちゃ絞られる。特に、今日の同伴相手は上客だ。最悪、客の出方ではクビにもなるかもしれない。
 それでも──
 私はヒールのまま、凍るような寒空の下を駆け出した。走りながら、着信に応答する。スマホを耳に当てると、弱々しい嗚咽が聞こえてきた。
「大丈夫、今行くから!」
 無意識に叫んだ声が、紺色に染まった澄んだ星空に響く。歯を食い縛ると、きっと凛々しく前を見て、私は夜道を突っ走っていった。

 FIN

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