泡雪花火

 華音かのんが咲っているのを、僕はただ見守っていた。
 あの日再会するまで、話したのは一度きり。彼女の高校の入学式だった。
 駅前に植えられた一本の桜から、青空にひらひらと花びらが舞っている。僕はそれを横目に、ロータリーを抜け、高校までちょっと距離がある通学路を歩いていた。
 その道の脇に、道行く人は見て見ぬふりをしているけど、うずくまっている女の子がいた。まだパンデミックの名残がある頃で、他人には関わりたくない人が多かったのだろう。でも、彼女は僕の高校の制服を着ていた。
「どうしたんですか?」
 高校まで遠いから迷ったかなあと思った。けれど、僕の声にびくんと顔を上げた彼女に、思わず息を飲んだ。マスクをしていても分かるぐらい、真っ蒼だったのだ。
「え、……えと、救急車──」
 混乱した僕がスマホを取り出そうとすると、彼女は激しく首を横に振った。涙目で、かなり息が荒い。まさか過呼吸を起こすようなメンヘラ──失礼なことを思いかけたとき、彼女は震える声でつぶやいた。
「な、なんか……電車で、軆、触られて……怖くて」
 僕はまじろいだ。それは──思いがけなかったので、どうしたらいいのかとまどった。警察に行くのだろうか? いや、駅員に言うか? 数枚の桜の花びらが風にふわりと流れる。駅からまだそんなに離れていないのだ。
 不審な荷物や動きを見たら、駅係員にお知らせつけください。そんな車内アナウンスを思い出し、僕は彼女を駅まで連れていった。そしたらそこから、どのみち警察に連絡が行き、彼女は来てくれた婦警さんについていくことになった。僕は彼女の名前を聞いて、入学式に出席できない旨を学校に伝えておくことを請け合った。
「あの……ありがとう、ございます」
 きっと咲えるような心境ではなかったのに、彼女は僕にそう言って、マスク越しに少しだけ咲ってくれた。
 黒瀬くろせ華音かのん。それが彼女の名前だった。
 だがそれ以来、彼女と接する機会はなかった。僕は校内で華音を見かけることもあった。マスクも外して友達の隣で咲っていたから、それにほっとして声はかけなかった。
 だって、僕の顔を見たら、忌まわしいことを思い出すだろう。そう思い、いつも華音に気づかれる前にその場を離れた。
 高校を卒業したら、華音とは同じ高校という縁もなくなる。でもやっぱり、僕が声をかけたら迷惑だよな。臆して勇気が出ないまま、僕は大学に進学した。
 大学では、高校が別だった親友の克幸かつゆきが一緒だった。高校受験のとき、僕だけあの高校に受かってしまったのだ。合格発表を見たあとに、「克幸と同じ男子校に進むほうがいいかな」と相談すると、克幸は「何言ってんだよ」と真顔で僕の頭をはたいた。
「お前は本命受かったんだから、ちゃんとそっち行け。俺は……まあ、高校でめちゃくちゃ勉強して、大学はまた実築みつきと同じとこ目指すし」
 僕は何だかうつむいてしまったけど、克幸の言葉が正しいと思ったから、うなずいた。「何で受かったお前が泣くんだよっ」と克幸に笑われて、僕は自分がずいぶん泣きそうな顔をしていることに気づいた。
「たぶん、三年間友達いない」
「高校違っても、俺が友達だろうが」
「……そっか」
 それでも落ち込む僕を、克幸は励ましてくれた。克幸のほうが悔し涙を流したかっただろうし、僕に愚痴でも言いたかっただろうに。
 ──そして、大学二年生の冬、僕は克幸の恋人として華音に再会した。
 華音の顔を見て、僕は瞬時にはっとした。ほんのり化粧して、もちろんマスクもしていない。だが、あの日の彼女だとすぐに分かった。しかし、華音は僕に何か思い当たったような様子はなかった。
 僕のほうはすぐに彼女に気づいて、何だか気持ち悪い男だな。そう感じて、何も言えなかった。いや──そもそも、電車でのあのことを思い出させるのは良くないか。
「初めまして」と名乗りながら、あの日に名前も伝えなかったことに気づいた。いや、あのときは僕もマスクをしていたし、素顔さえさらしていないのだ。
 克幸と華音は、バイト先が同じで出逢ったそうだ。チェーンの飲食店らしい。「今スタッフ募集してるから、実築も来たら楽しいんだけどなー」と克幸は言ったけど、僕はあやふやに笑っていた。
 だって、つらいじゃないか。
 僕は華音とは手をつなげない。肩を抱けない。頭を撫でられない。
 触れられない。触れてはいけない。
「邪魔はしないよ」なんて言って、ふたりと過ごすことを避けた。そんな自分は、華音に恋をしていたのだといまさら自覚した。
 大学を卒業したら、姉が営むカフェに勤めはじめた。就職しようと思っていたけど、人手も人件費も厳しいらしい姉に懇願された。両親は幼い頃からの姉の夢だったカフェを、もう畳めばいいように言った。その言い方に僕までかちんとしてしまったので、手伝うことにした。
 ゆったりした良いカフェだ。確かに回転はあまり良くないかもしれない。けれど、雰囲気を気に入ってくれた常連さんもいる。内気な僕でも、接客を楽しむことができた。
 克幸は企業に就職した。大学四年生になって多忙な華音との交際が順調なことは、日曜日にカフェに来て報告してくれる。「結婚も考えてるの?」と僕が問うと、「そうだな、したいなあ」と克幸は照れながらも肯定した。
 それでも僕は、華音を忘れるための恋さえできずにいた。このまま一生、片想いに苦しんでいくのか? 幼い頃からの克幸との友情を切ることはできない。だから、華音が克幸の伴侶となったとき、彼女を無視することもできない──
 しかし、初冬にその訃報は突然襲ってきた。
 通勤中の克幸は、ある朝、ホームで白杖でゆっくり歩く人を突き飛ばした奴を見かけた。よろけた盲人を支えながら、克幸はそいつを注意したそうだ。たったそれだけ。それだけなのだ。何も悪くない。しかし、注意されたそいつは怒り狂い、挙句の果て、克幸を線路に突き落とした。
 間に合わないほど直後に、電車が来た。
 克幸は、いつも正しかった。合格発表のあの日だって。最期まで、正しい奴だった。
 僕と同じぐらいに茫然としたのは華音だった。涙すら流していないような、ぽっかりした目をしていた。僕は華音が心配で、不安なときは話を聞くと言って、カフェの場所を教えた。彼女に会える、という下心がなかったとは言わないけど、それ以上に華音が克幸を追いかけたりしないかと怖かった。
 僕のエゴかもしれないけど、華音に自殺なんてしてほしくなかった。克幸も望まないだろう。
 華音は、僕が勤めるカフェに来るようになった。弟の親友として克幸と親しかった姉も、華音をいたわってくれた。華音は咲わなかったけど、僕に克幸との小学校からの想い出を語らせ、それを聞いてせめて涙を流した。
 桜が咲きはじめて春になった。華音は就職できる状態ではなく、もらっていた内定を辞退して、心療内科に通院するようになった。でも、あまり相性のいい医師ではなかったようだ。「実築さんと話すほうがほっとする」と華音はぽつりと言った。
 華音の睫毛が湿り、ぽろぽろと涙がこぼれるのを見つめた。何と言えばいいのか分からずにいると、「電車なんて嫌い」と華音はつぶやいた。
「嫌なことばっかり」
 華音はカウンター越しに僕を見た。
「実築さんは、やっぱり……憶えてないよね」
「えっ?」
「私たち、同じ高校だったの」
「……そ、そうなんだ」
「入学式の日に、私、電車で痴漢に遭ったの。怖くて声も出なかった。通学路の途中で頭が真っ白になってたら、助けてくれた先輩がいて」
 僕は目を開いた。華音は僕の瞳に哀しそうに微笑み、「今、思い出した?」と訊いてくる。僕は躊躇ったが、小さくかぶりを振った。
「……じゃあ、気づいてたんだね」
 思い出させたら、悪いと思って。あの日、僕の名前も言わなかったし。きっと忘れられてるって考えたんだ。
 そんな言葉を言おうとしたものの、すべて言い訳に感じられて、黙りこんでしまった。
「実築さんは、無責任な人だね」
「えっ」
「何も気づいてくれなかった」
「………」
「克幸くんは、あのことを知ってた。私の実築さんへの気持ちも知ってた。でも、実築さんから私の話を聞いたことはないし、紹介しても話を聞かされたりしないって」
「……それは、」
「克幸くんは、実築さんを信じてた。私に心当たりがあれば、自分に隠すはずはないって。だから……実築さんの代わりに、俺が君を幸せにするって」
「そん……な、」
「実築さんから少しでもそぶりを感じたら、そのときは身を引いて絶対応援するって……私は、そんな克幸くんのほうがずっとずっと好きになった」
 唇からもれる息遣いが、震える。華音は、静かに僕の瞳を見つめた。
「ここに来ていいよって言ってくれて、嬉しかった。でも……やっぱり、私にはもう実築さんじゃないみたい」
 華音は席を立った。ちょうどレジにいた姉が、華音の会計をした。「しばらく来れなくなるんです」とか「ごはんがぜんぜん食べられないから、入院することになって」という会話がぼんやり聞こえた。
 からん、という音に、僕はカフェを出ていく華音の後ろすがたを見た。春の真っ白な陽光に吸い込まれていく背中は、消えかけの幽霊のように細かった。
 夏の花火のように、僕たちは触れあうこともなく。
 冬の泡雪のように、僕たちは触れあえなくなった。
 分かっている。克幸は何も言わない僕を本気で信じたのだろう。僕の気持ちを知っていれば、全力で応援してくれたと思う。そういう奴だった。そんなこと、よく分かっているけど……
 それでも、こんなにうずたかく降り積もる灰を置いていくことはないじゃないか。
 まるで横たわる影。僕も彼女も、絶対にお前を踏みつけにすることはできない。
 だから、僕はもう、華音の笑顔をただ見守ることすらできない。

 FIN

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