野生の風色-9

異変

 希摘の家を訪ねたり、買った空の本を眺めたりしていると、カレンダーは四月になった。
 目覚まし時計に後頭部をはたかれることもなく、ささやかに寝坊して七時半に起きた僕も、十二星座を追った卓上カレンダーを一枚めくる。パジャマを着替えてカーテンを開くと、四月か、と晴天の朝陽にため息をついた。
 春休みも残り一週間だ。そうしたら、二年生として学校が始まり、いよいよ遥が同級生になる。
 最後の望みとして、僕は遥とクラスが遠く離れるのを祈っていた。住宅街と団地の真ん中にあるあの中学校は、一学年が十クラスもある。これで同じクラスになったほうが奇跡だ、とたかをくくっていたら、何と僕と遥は同じクラスになるらしい。
 昨日の夕方、いきなり教頭が家にやってきて、そう告げた。遥の事情を考慮し、前もって知り合っている僕がクラスにいたほうがいいだろうと引き合わせたのだそうだ。同席していた僕と遥は、思わず互いを盗み見て、じんわり倦色を浮かべた。
 ちなみに、希摘も確かに同じクラスだそうで、これは構わない。「ちょっと天ケ瀬くんは荷が重くなるな」と五十台ぐらいの教頭に言われ、僕は引き攣った笑みを返した。かくて僕は、近づく新学期に気分を低迷させている。
 僕と同じクラスになるなんて、遥には逆効果なのではないか。希摘はああ言っていたものの、帰宅して遥にじろりと毒を刺されたら、信憑性は一気に冷めていった。
 遥は、どう見ても僕を嫌っている。僕が遥を疎む以上に、彼は僕を忌んでいる。
 僕がクラスにいたら、行けるものもサボりだすのではないか。それを僕のせいにされたらたまったもんじゃないんだよなあ、と仏頂面に腐り、朝食を取りにのろのろと一階に降りた。
 とうさんはすでに出勤し、エプロンとヘアバンドをつけたかあさんは、キッチンで食器洗いをしていた。焼き魚の匂いにレモンの香りが淡くかかり、ガラス戸の向こうで空はまぶしく晴れている。トイレに行って洗顔してきた僕は、「おはよう」とあくびまじりに声をかけ、かあさんはすっきり目覚めた笑顔で同じ言葉を返した。
「ごはん、いる?」
「うん。遥は?」
「まだ来てないわね。そろそろ、七時頃には起きれるようになってもらわないと」
「起きてはいるんじゃない?」
「そう?」
「降りてくるのが遅いんだよ。たぶん。僕がいるから」
 春休み前、朝降りてきた時点で身なりが整っていた遥を参考に言うと、かあさんは困ったような顔になる。
 僕は自分の席に伏せられたふたつのお椀をかあさんに渡す。かあさんは食器洗いを中断し、それぞれにごはんを味噌汁を盛った。遥の席にもお椀が待機し、正面のとうさんとかあさんの席は片づいている。
 ごはんは昨日の残りでややぱさついていても、味噌汁は今朝作られたもので香りがよかった。子持ちししゃも三匹と玄米茶も合わせると、椅子に腰かけた僕は、箸を取って朝食を始める。
「ねえ、かあさん」
「ん」
「昨日、教頭が来たじゃん」
「うん」
「僕と遥が同じクラスになるってさ。あれ、どう思う?」
 スポンジを軽く握って泡を出していたかあさんは、「どうって」とくねった塩味のししゃもをかじる僕を振り向く。
「いい案だと思う?」
「遥くんは安心なんじゃないかしら。初対面の子に囲まれるより」
「僕は逆効果だと思うな。学校行く気があっても、クラスに僕がいるならサボりそう」
「そう?」
「そうだよ。みんな知り合いじゃなかったら、行っても行かなくてもどっちでもいいって、結局行ってたかもしれない。僕がいたら、行きたくないほうが強くなって、行かなくなるよ」
「ずいぶん卑屈ね」
「遥って、僕のことよく思ってない感じだもん。どうせ行くなら、学校ぐらい僕に解放されたいんじゃないの」
「それは、悠芽の気持ちなんじゃない?」
 かあさんの言葉に口ごもり、ししゃものたまごに舌をざらつかせる。それはそうでも、自分の気持ちを遥に転嫁しているつもりはない。いや、僕がそんな気持ちなら、遥はいっそうそんな心境だと思う。
 それを言おうとしたけど、言ったところで悪あがきに聞こえる気がしてやめた。「僕がいるせいで、遥が学校が嫌になっても知らないよ」とは言っておき、かあさんは仕方なさそうな息をついた。
 朝食を終えて歯を磨いても、遥は降りてこなかった。僕が部屋に戻ったのを確かめ、それで降りてくる気なのかもしれない。やっぱ嫌われてる、とペットボトルのお茶を連れて部屋に帰ると、戻ったのが伝わるよう、ドアを閉めるときには音を立てておいた。
 ゲームの電源を入れて、隣の部屋に耳を澄ますと、何の物音もしない。ドアやこの部屋の音を聞きつけ、一階に降りる気配もない。まあいいか、とコントローラーを持ってロードした。
 こないだ希摘の家に行ったとき、攻略したRPGと交換で借りたアドベンチャーだ。今度お金貯まったら本よりゲーム買お、と慣れない操作で物語を進めるうち、僕は時間を忘れる熱中にはまっていった。
 我に返ったのは、ドアの前を通りすぎる足音に、「遥くん」というかあさんの抑えた声とノックが続いたときだった。ちょうど第二章を終えてセーブをしていた僕は、そういえば遥の部屋の物音が依然としてないのに気づく。
 時刻は十一時近い。どうしたんだろ、と僕はコントローラーを置いて立ち上がり、廊下を覗いた。
 遥の部屋と僕の部屋は、隣り合ったすぐそばだ。声をかけずとも、ドアを開けたらエプロンを外したかあさんは僕に気づいた。「どうしたの」と僕は廊下に出て、「遥くんが降りてこないのよ」とかあさんは遥の部屋のドアに不安を降りつもらせた愁眉を向ける。
「寝てんじゃない?」
「十一時よ」
「……限界だね」
「何か、音とか聞こえた」
「ぜんぜん。ゲームしてたけど、ヘッドホンはしてなかったし」
「どうかしたのかしら」
「開けてみたら。鍵ないでしょ」
「勝手に開けてのいいかしら」
「開けるよって断れば」
「そうね。──遥くん、開けるわよ。いいわね」
 応答する余裕をひとおき置くと、かあさんは僕が受け継いだ白い肌の手でドアノブを下ろした。
 ひかえめな隙間に覗けたのは、カーテンを開けていないらしい陰った室内だった。かあさんは僕と顔を合わせ、ドアをさらに押す。
 室内の影は、なぜか蒼ざめていた。紺のカーテンが見えて、どうも影の色合いは、日光がその寒色のカーテンを透いて射しこんでいるせいのようだ。蒼い影で室内は真っ暗でなくも、即座には視覚が慣れないほど薄暗い。
「遥くん」
 窺う声をかけながら、かあさんはフローリングに踏みこみ、僕も何となく続いた。閉めると暗くなるので、ドアは開けっぱなしにしておく。
 僕の家の匂いに混じり、遥の匂いがしていた。家の中では浮いているその匂いは、ここではわりと落ち着いている。
 がらんとした部屋だった。遥が暮らしはじめて、この部屋に入るのは初めてだ。暗がりに視界が慣れると、ベッドでふとんがこんもり静止しているのが目に入った。
 死んでんじゃないか、と思わずよぎり、受け流せない彼の過去に僕は暖かい部屋で寒気の錯覚を覚えた。
「遥くん」
 こわばる焦った声でかあさんはベッドに歩み寄り、丁重にふとんに手をかけた。ふとんは小さくうごめき、ひとまず遥が死んでいないのは判明する。
 遥は子供みたいに頭までふとんにすっぽり身を隠し、こちらに何の様子も見せない。「具合悪いの?」とかあさんはベッドの目線にしゃがみこむ。
「お腹痛い? 気分悪いの?」
 遥は無反応で、ほっといてほしいんじゃないか、と思う。けれど、私情が絡んだ冷たい意見とされそうで黙っている。
「何か、気持ちがつらい?」
 遥は何も言わない。かあさんは迷った息をついても、僕はかなり冷めていて、自分でも驚いた。
 遥が変な状態にあるというのに、他人事の感覚しか湧かない。せいぜいの良心は、このまま光景に背を向けるのはさすがにまずいかというものだ。
 かあさんがふとんを取ろうとすると、遥はそれを拒んでふとんに身を縮める。かあさんは向き合うのを持て余して僕を振り向き、ワークパンツのポケットをいじっていた僕は肩をすくめた。
「ほっといてほしいんじゃない?」
 結局言ってしまうと、かあさんは遥に無力な目を向けた。遥は停止している。ちゃんと病んでるんだなあ、と不謹慎な所感を持った僕は、ポケットに入れていた手を抜いて、一歩引いた。
「僕がいるからかな」
「え」
「僕がいるのが嫌なのかも」
「それは──」
「一階でテレビでも観てるよ」
 きびすを返す僕に謝ったかあさんに首を振って、部屋を出ようとしたとき、ドアフォンが響いた。
 かあさんと顔を合わせ、僕はどちらにしろ一階に降りなくてはならなくなる。ドアは開けっぱなしで階段を駆けおり、急なまぶしさに目を痛めながらリビングのインターホンに出た。誰かと思えば宅急便で、次は玄関へと急ぐ。
 大きなトラックと門のあいだで、制服を着た若い男の人が荷物を抱えていた。重いそうなので、その人は玄関まで荷物を運んでくれて、僕のサインをもらうと行ってしまった。
 後ろ手に鍵を締めた僕は、なまもの、と書いているそれを見下ろす。持ち上げようとすると、本当に重い。なまものはほっとくとやばいよなあ、と靴を脱いだ僕は、とりあえずそれを脇にやって二階に上がった。
 遥がかあさんに話をしているようなら、僕は邪魔なのでそっとしておこう。そう思って、気配を殺して部屋を覗いたが、暗い部屋の沈黙は変わりなかった。
 声をかけると、かあさんは少し救われたようにも振り向き、「誰だった?」とこちらにやってくる。
「宅急便。なまものって書いてあるよ」
「じゃあ、冷蔵庫にしまったほうがいいわね。そのあいだ、遥くんのそばにいてあげて」
「ほっといてほしいんじゃないの」
「そう言われたら、そっとしておいてあげなさい」
 かあさんは僕の肩に手を置いて行ってしまい、僕は胸の内で舌打ちすると部屋に踏みこんだ。

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