Noise From Knife-10

忌まわしい真実

 気づいたら昼下がりになっていて、おとうさんは朝から仕事だったけど、おかあさんも聖音のお見舞いへと出かけていた。僕は用意されていた冷やし中華をダイニングで食べ、リビングに射しこむ白熱の日射しを見やる。耳をかきむしるようだった、蝉の声が少なくなってきた気がする。
 二学期からは学校に行かないのか、とふと思い出した。ちなみに、両親も学校側のその意見に賛同した。遅れることになる勉強は、僕は先生に家庭訪問のとき教えてもらえることになった。聖音に勉強は強要しないそうだ。
 犯人が捕まれば、僕も聖音もそこまでの措置は取らなくていいのだけど、何しろ手掛かりがないらしい。僕と聖音が狙われただけに、警察は通り魔より怨恨を疑っているようだ。僕たちに原因があるような感じの事情聴取もあったりして、家の雰囲気はさすがにちょっと疲れていた。
 そうしているうちに、金曜日がやってきて、「今日は遠くじゃないから」と心配するおかあさんに伝えて家を出た。
 ドアを開けると空気がむっと迫り、半袖の腕にねっとり絡みついてくる。焦がすようなような太陽にすぐ汗が滲む。持ってきたペットボトルのお茶で、乾涸びる喉を潤しながら、焼ける匂いが照り返すアスファルトを歩き、十二時ちょうどくらいに駅前に着いた。
 額の汗をぬぐってきょろきょろしていると、「優織」と懐かしい声がして、僕はぱっと振り返った。高架の下の自転車置き場の前に、路上駐車があって、先生の車だ。僕は笑顔になって、運転席から顔を出している人の元に駆け寄った。
「先生」
「久しぶり」
 そう言って微笑んだのは、紛れもなく先生で、僕は頬に笑みを満たしてしまう。先生も眼鏡越しに僕を見つめて、ハンドルにあった手を伸ばして僕の頭を撫でてくれた。
「あんまり焼けてないな」
「そんなに出かけてないし。病院が多い」
「妹さんの具合はどうだ?」
「傷はもう縫ったし、大丈夫なんだけど。ぜんぜん笑わなくなっちゃって」
「心のほうか」
「うん。すごく、怖かったんだと思う。死ぬかもって思ったんだもん。……つらいよ」
「そうだな。そばにいてやれよ」
 僕がこくんとしたときだ。突然ぐっと腕を引っ張られてびっくりして、顔を上げると、そのまま僕を腕に抱きしめたのは水波くんだった。
「水波くん、」と言いかけたけど、その前に「碧っ」と先生が車のドアを開けて強い声で割りこんでくる。「何で」と水波くんは僕を人質みたいに抱きしめながら言う。
「何であんたが、ここにいるんだよ」
「あ、ごめん、水波く──」
「優織をひとりで歩かせるのは危ないから、ここまで車に乗せてきた」
「っそ。何だよ“優織”って」
「つきあってるからな。そんなこと、お前は気づいてるんだろ」
 僕は水波くんを見上げた。苦々しい瞳にちょっと怖くなる。
「気づいてるから、優織に近づいてるんだろ」
「……るせえな」
「優織には手を出すんじゃない。優織は何も知らない──」
「そうだよ、こいつは何にも知らない。だから教えてやるんだ、あんたがどんだけイカれてるか、知ったほうがいいだろっ」
「落ち着け、碧。お前には俺はイカれた奴だろうが、優織には違うんだ。優織に出逢って変われたんだよ」
「生徒に手え出してる時点で、アウトだろ」
「……生徒、だけど。好きなんだ」
「好きだったら何してもいい? 何が『変わった』だよ、何にも変わってねえ。弟の俺に手え出したのだって、『碧が好きだから』だったじゃねえか」
 ……え?
 僕は水波くんを見直して、車を降りた先生に目を移した。
 弟? 手を出した? 水波くんが好き?
 先生は僕と目を合わせなかったけど、それでも、水波くんの腕から僕を引き寄せる。僕はわけが分からなくて、先生の腕の中にすくんでしまう。
「お前にひどいことをしたって思ってる。謝るよ。これからも謝りつづける。でも、あのときはお前のことしか考えられないくらい、碧が好きだったんだ。でも、もう今はそんな気持ちは、」
「心変わりしたから、あれを許せって言うのかよ。ふざけんなよ、絶対にてめえのことは地獄に落とすからなっ」
 水波くんはタイヤを蹴りつけると、そのまま、その場を駆け出してしまった。
 僕はおろおろと先生を見上げた。先生は顔を伏せ、僕の手を握って、車体にもたれかかる。
 何? どういうこと? 弟って、先生と水波くんは親戚じゃなくて兄弟? 好きだったって、心変わりって、まさかふたりはつきあってたの?
 先生がイカれてる? ひどいことをした? 先生の都合で別れて、水波くんがそれを怨んでいるとか?
 何。分からない。ばらばらでつながらない──
「優織」
 はっと先生を見た。眼鏡の奥で、先生の瞳は力なかった。
「とりあえず、車乗って」
「み、水波くんはいいの?」
「どうせ、俺の話なんか聞かないから。優織には聞いてほしい」
「……うん。分かった」
「車、長く停めれるところに移そう。というか、ここも人通らなくてよかったな」
「そう、だね」
「でも、駅だし、いつ来るか分からないな。助手席乗って」
 先生は僕の手を離して、僕は車道に出て、何度も乗っている助手席に乗りこんだ。車は学校の前を抜けて、たまに停めて時間を過ごすマンションの裏手まで走った。
 視線の先は落ち着かず、会話もなかった。いろいろ訊きたくても、どこから訊けばいいのか分からない。
「暑くなるけど」と先生はエンジンを切った。一応マンションの日陰にはなっている。僕はやっと先生を見た。先生はシートに寄りかかって、深く息を吐いた。
「俺が優織の歳くらいのとき、かな。そうだな、十年前──碧は五歳だった。親戚なんかじゃない。俺と碧は、実の兄弟なんだ」
 それは納得がいく気がした。だって、やっぱり親戚にしてはふたりは似ている。
「碧はかわいい弟だったよ。歳も離れてたし、ほんとにかわいかった。今は両親がいそがしいと家政婦とか簡単に雇うけど、昔は家政婦なんて金持ちの家にいるだけだ。もう中学生だったし、俺がよく碧の世話を任されてて。家にふたりきりで何時間も過ごして。もう、切っかけは分からない。ただ、自分で処理するとき、碧のことを考えてた。それを──俺は、行動に移してしまったんだ」
「……え」
「立派な性的虐待だよ。触らせて、しゃぶらせて、犯す……こともした。『痛い』って碧が泣いて、終わったあと抱きしめてなぐさめて。『にいちゃんは碧が好きなだけなんだ』、『悪いことじゃないから誰にも言わなくていいんだ』って。『好きだから』って何度も言った。『碧が好きだから』って。だから碧は、ひどいことをされてる自覚も持てなくて、痛い想いをしているのに助けも求められなくて。ただ、毎日俺に犯されてた」
「………、」
「でも、半年ぐらいで、母親が気づいた。かあさんは、とうさんに何も説明はしなかった。たぶん、知ったら加害者の俺を引き取らないと考えたんだろう。ただ、かあさんは『碧と一緒に出ていく』、『だから離婚して』って──結局とうさんも折れて、かあさんと碧は俺がいるこの町から出ていった。とうさんは、別れた理由が分からないことで鬱病になった。そんな家が嫌で、俺は家に帰らずにふらふらおっさんに軆を売ったり、好みの奴をその金で買ったり。それでも、碧がずっと忘れられなかった。自分で抜くときは碧だった。単位ぎりぎりで大学卒業して、一度この町を離れて教職に就いた。でも、やっぱり考えるのは碧のこと。あいつもこのくらいになってるのかなって、頭がぼんやりしてる状態が続いてた。二年前に卒業した今の中学に呼ばれてここに帰ってきた。それで、優織に出逢った」
 視線を感じたけど、顔を上げられなかった。震えそうな息遣いをこらえて、爪を手のひらに食いこませていた。
「優織が、俺にやっとまともな恋愛を教えてくれた。碧のことが、どんどん俺の中から消えていった。優織となら、俺はちゃんとした人間でいられる。そう思うんだ」
「……水波、くんは、どうしてここに戻ってきたの?」
「母親が亡くなったんだ。過労だって。それで、とうさんは何も知らないままだったから、当然碧を引き取るだろ。俺も実家に呼び出されたら、碧がいてわけが分からなくなったけど。碧は今、とうさんはふたりで暮らしてる。それで、とうさんがこの子は母親の勝手な離婚につきあわされた子で心配だからって──とうさんはそう受け取ってるからな、それで、俺が受け持つクラスになれるよう頼んだらしい」
 僕はスニーカーを見つめて、さっきの水波くんの言葉を思い出していた。
 絶対、てめえのことは、地獄に落とす。
 意識がまたたいて痛む。つながらなかったものが、突然、逆回転で結ばれていく。
「先生は……僕が、好きだよね」
「ああ。今は優織が──」
「だから、僕を襲ったんだ」
「え……?」
「やっぱり、僕を殺そうとしたのは水波くんだ。僕が死ねば先生が苦しむから、殺そうとしたんだ」
 先生が僕の肩に触れようとして、僕はびくんとそれをよけてしまった。
 先生の目が見れない。見たくない。怖い。気持ち悪い。早くここから逃げたい。
「ひどいよ……」
「優織──」
「ひどいよ、そんなの、先生がひどいよ! 水波くんが、どんなにつらいか……ぜんぜん分かってない。おにいさんに恥ずかしいことされて。分かってくれたおかあさんは死んじゃって。思い出したくもない町に戻されて。どうして、おとうさんにほんとのこと話して、『自分に近づけるな』って言わなかったの? もう手出ししないからって、水波くんは平気だと思ったの? おかあさんだって、きっとほんとは家族で暮らしたかったのに、女の人ひとりで水波くんを育てて過労なんて。ずるいよ、先生はずるい! 自分のことしか考えてない!!」
 僕はドアを開けて、素早く車を降りると、人通りがある表まで全力で走った。先生の声、追いかける足音が聞こえたけど、必死で振り切って、幸運に通りかかったタクシーに逃げこんだ。走ってくる先生のすがたが見えて、僕は聖音のいる病院を運転手さんに告げた。
 ひとまず発車してくれてから、運転手さんは「大丈夫かい?」と不安も混ぜて心配してくれた。僕は激しく息切れしていたけど、「大丈夫です」とは答えて、お金が足りるうちに駅で降ろしてもらい、そのまま電車に乗って、聖音の入院する病院に向かった。
 駅から病院は無料送迎バスがあって、それに乗って、聖音のいる病院に着いた。深呼吸を何度もしてから、院内に入った。病室は二階建てのところだったなと、ゆっくり踏みしめながら奥まったその病棟を目指す。
 渡り廊下を歩いていたとき、不意に「あら、聖音ちゃん」という声が聞こえて足を止めた。振り返ってみると、年配の女の看護師さんが僕に駆け寄ってきていて、「ああ」とちょっと残念そうに笑った。
「おにいさんだったのね。聖音ちゃん、最近お散歩くらいできるようになってきたから、後ろすがたで見間違えちゃったわ」
「後ろすがた……」
「ショートカットだし、ほんとふたごさんみたいに似てるご兄妹ね。って、おにいさんはこんなこと言われても嬉しくないかしら。ごめんなさいね」
「い、いえ」
「きっとこれから成長するわね、男の子は。じゃあ、また聖音ちゃんとお話してあげてね。おにいさんが来た日は、やっぱりどこか嬉しそうだから」
 そう言って、看護師さんはぱたぱたと去っていってしまった。僕は髪に触れて、そんなに似てるのかなあと首をかしげてから、はっとした。
 後ろすがたで見間違えた。聖音は背中から襲われた。聖音の後ろすがたは僕に似ている。それは、つまり、まさか──
 途端、膝が大きく震えて、がくんと壁にぶつかるようにしゃがみこんでしまった。脳からすうっと血が蒼くなっていくのが分かった。
 僕のせいだ。聖音は僕のせいで、僕と間違われて巻きこまれたのだ。間違いない。だとしたら、つながる。全部つながる!
 急激に、沸騰したように涙があふれてきて、止まらなくなって、僕は大きく泣き出してしまった。
 先生。大好きなのに。
 水波くん。仲良くなれたのに。
 聖音。かけがえのない妹なのに。
 僕が迷惑をかけている。僕の存在が、みんなを不幸にしている。先生を鈍感に。水波くんを犯罪者に。聖音を病気に。
 何なのだろう。全部全部、僕が悪いのではないか。だったら、せめて僕は消えたほうがいいのではないか。そうだ、僕なんか死ねばいい。死んで詫びるしかない。僕が消えれば周りの人は楽になるのだから、僕さえ殺されてしまえばいい。
 思考が堕ちこんでいくほど、頭が壊れそうにがんがんしてきた。あんまり泣いているものだから、お医者さんが駆けつけてきた。すぐに聖音の兄だと分かってくれて、休憩室に連れていってくれた。
 ベッドに横たわって毛布をかけられていると、聖音の主治医の先生が来て、「もしかして、事件のことで何か思い出したのかい?」とゆっくり訊いてきた。僕は鼻をすすってしゃくりあげながら、ただ話がしたい人がいると言った。
「水波……くん、クラスメイトの水波碧くんと、しなきゃいけない話があるんです」

第十一章へ

error: