温かい親子
荷物や疲れた脚、傷ついた膝に僕の歩調は遅い。その人は、それに合わせて歩いてくれた。
「名前、訊いてもいい?」
その人はそう訊いてくる。そんなに背は高くない。とはいえ僕も身長があるほうではないので、見上げさせられる。
「あ、えと、朝香萌梨です」
「萌梨くん」
「………、女の子みたいですよね」
「いや、僕も人のこと言えないよ。僕は鈴城聖樹っていうんだ」
「聖樹、さん」
「男っぽくないよね。コンプレックスなんだ」
言いながら聖樹さんは微笑み、僕の自嘲の気持ちをやわらげてくれる。
聖樹さんの暮らすマンションはすぐそこだった。ガラスの押し戸を明けると、エントランスには電燈でなく非常燈が灯っている。
「零時を過ぎたら、切り替わるんだ」
聖樹さんの説明に、零時もまわっているのか、と驚いた。郵便受けの奥の自動販売機のほかは静寂で、その先にエレベーターがある。階段もあり、暗目にもさっぱりと清掃されていた。
やってきたエレベータ内は明るかった。ボタンは十階まである。聖樹さんは『2』を押し、「エレベーター待ってたら、階段のほうが早かったりするんだよね」と咲う。
エレベータを降りると、また非常燈が頼りだった。エレベーターホールを出ると、聖樹さんはわりとすぐそばの『202 鈴城』とある部屋の前で立ち止まる。ドアの隙間から漏れる光に、聖樹さんは眉を寄せた。
「消していったんだけどな」
聖樹さんが鍵を取り出すと、キーホルダーがひかえめにかちゃかちゃいった。鍵をさしこもうとしたとき、中からかちゃっと音がする。
「おとうさん」
開いたドアのあいだにかなり幼い子供の声がした。その声と言葉に僕はぎょっとする。おとうさん。子供。聖樹さんの顔を凝視する。
「悠」
「どこ行ってたの」
声では男の子か女の子か分からなかった。
「コンビニだよ。軽いものでよかったから。寝たんじゃなかったの」
「トイレしたくなったの。そしたらおとうさんいないんだもん」
「だから、寝る前にジュース飲むなって言っただろ。ちゃんとトイレは行けた?」
「うん」
聖樹さんはぽかんとする僕を向いた。「どうしたの」と不思議そうに問われ、僕は無言で首を振る。びっくりした。まさか、子持ちだったとは。いったいこの人はいくつなのだろう。
「入って」
「あ、はあ」
聖樹さんは、僕の荷物を考慮してドアを大きく開いた。必然、ドアの影にいたその子と僕は対面する。
小さい、パジャマすがたの男の子だった。腕をやや掲げてドアノブを下ろし、背丈は僕の腰の高さしかない。小学校に上がるか、上がらないかくらいだろう。瞳の色が聖樹さんによく似ていた。かたちは、子供だからだと思うけれど、その子のほうがくるんと大きい。髪は聖樹さんほど明るい色ではなく、黒く艶々としていた。外を走りまわりそうな頃にしては肌が白く、ふっくらした唇の桃色が映えている。頬の膨らみや顎、体質は、年齢もあるのか、柔らかい女の子と変わりなかった。
その子は僕を見ると、不審そうに眉をゆがめた。心持ち聖樹さんのほうに寄り、頭を垂直に仰がせる。
「誰?」
「おとうさんの友達だよ。入れてあげて」
「………、ふうん」
訝しそうであれ、その子は聖樹さんに逆らうことはしなかった。聖樹さんにも招かれ、そろそろと鈴城家へ足を踏みいれる。
変な感じだった。本当に少し前には予想もしていなかったことになっている。スニーカーを脱ぎ、「お邪魔します」とかぼそく言って、ドアマットに上がった。他人の家特有の、暮らす人間には分からない匂いがする。
左手にフローリングの廊下が伸びていた。「寝なきゃダメだよ」と言う聖樹さんに、「目が起きちゃった」と返す男の子のあとを、しずしずとついていく。
廊下を抜けると、部屋が広がっていた。手前にキッチン、奥にリビングがある。リビングの角にはテレビとゲームが置かれ、クッションがふたつ、その手前に座卓があった。カーテンの向こうはベランダに行けるのだろう。
ビニールぶくろをシンクと焜炉のあいだに置いた聖樹さんは、男の子と僕にリビングに行くようしめした。僕は荷物を正面に抱えてリビングに行く。男の子は僕の足元を通り抜け、テーブルのそばに座った。「悠紗」と聖樹さんはやや厳しい、けれどそう強くはない語調を使う。「おとうさんも夜更かしするんでしょ」と男の子が言うと、聖樹さんは仕方なさそうに苦笑し、買ってきたものをふくろから取り出した。僕は突っ立ってしまう。キッチンとリビングの仕切りに、コンポが隠れていたのを認めたりしていると、男の子がこちらを向いた。
「座らないの?」
タメ口が嫌味ではなかった。屈託がない印象だ。僕は荷物をそっとおろして、フローリングに座りこんだ。脚がふっと楽になる。膝の傷を確かめたかったけれど、動くのがどうもはばかられた。
男の子が僕を観察している。こぼれおちそうな瞳をぱちぱちさせ、子供の本能で僕を見定めている。この子に認めてもらえなければ、ここにいるのはつらそうな雰囲気だ。緊張していると、男の子は僕のそばに這い寄ってきた。
「何ていうの?」
「えっ」
「名前。僕はね、悠紗っていうの」
「悠紗、くん」
「うん。おにいちゃんは」
「あ、僕は、萌梨」
「モエリ」
「うん」
「ふうん」
悠紗くんは、舌の上で僕の名前を幾度か転がした。慣れると、その大きな瞳に僕を映す。
「萌梨くん、って呼んでもいい?」
もちろん僕はうなずき、悠紗くんはにっこりとした。認めてもらえた、みたいだ。ほっとして僕も咲うと、悠紗くんはさらに咲い返す。奇妙な感覚がして、すぐ理解した。今まで僕は、咲ったことがほとんどなかった。咲ったとしても、愛想咲いや自嘲ばかりだった。咲いかけて咲い返された経験に至っては、なかった。この子が初めて、僕の笑顔に応えてくれたのだ。
キッチンの聖樹さんは買ってきたものを皿に移している。どう見てもそうなのだが、信じられなくて僕は悠紗くんに訊いてみた。
「ねえ、悠紗くん」
悠紗くんはくすぐったそうに咲い、「悠紗でいいよ」と言った。僕はやや口ごもり、「悠紗」と言い直す。「うん」と悠紗──は、僕を見上げる。
「聖樹さん、って、君のおとうさんなの」
「そうだよ」
あっさり肯定され、それ以上疑えなくなる。おとうさん。聖樹さんが。見えない。でも、聖樹さんの若さをさしひけば納得は容易い。この子は聖樹さんによく似ている。瞳の色合いや、口辺や、すらりとした手足──おっとりした雰囲気もそうだ。表面以上に内面からのものが聖樹さんに似ている。
悠紗の母親、聖樹さんの奥さんのすがたがないことに気づいた。リビングの右手にドアが集まっている。バスルーム、トイレと考えて、ひとつくらいは別室に続きそうだ。すでにそこで寝ているのだろうか。何となく違う気がした。ここには聖樹さんと悠紗の空気しかない。おかあさんはいないのだろうか。自分の家がそうなので、その可能性には、さして動揺しなかった。
悠紗は僕は旅行かばんに触っている。かばんは黒いナイロン製で、その黒さに悠紗の白い手は際立っている。白熱燈の下で、血管の走りもくっきりとしていた。不健康というより、太陽に犯されずしっとりしたままという感じだ。「おっきいかばんだね」と悠紗は言い、僕は曖昧に咲う。
「何が入ってるの」
「ん、いろいろと」
「いろいろ」
悠紗は把握しきれない様子で、独断しようとナイロンを軽く押す。「柔らかい」と言って、別のところを触り、今度は「ここは硬い」と中身を推量している。
「服とかが入ってるんだ」
「服」
悠紗は首をかたむける。生活用品を抱えた大荷物が何を指すか、知らないのだろう。
ひと昔くらい歳の開きがあるにも関わらず、悠紗は僕と対等に話をした。僕には兄弟もいないし、昨今の悠紗ぐらいの子がどうなのか知らなくとも、悠紗が大人びているのは確かだ。子供と接した経験のない僕としては、安心させられた。甘えられたりごねられたり、生意気をされたりしたら、どうしたらいいか分からない。
不思議な子だ。聖樹さんと悠紗も不思議だ。初対面の僕でも、このふたりは親子だなあ、と感じる。すると、食器を持った聖樹さんがリビングにやってきた。
「萌梨くんも、お腹空いてない?」
「え、あ、そうですね」
「よかったら食べて。こら、悠は歯磨きしただろ」
テーブルに並んだサラダのプチトマトをつまんだ悠紗は、「また磨くもん」とすかさず頬張ってしまう。聖樹さん相手だとどこか生意気なのも、親子っぽい。
聖樹さんは肩をすくめ、僕に飲み物を問う。何でもいいです、と言いかけ、お決まりのコーヒーが来たら困るので、「お茶で」と言う。聖樹さんはうなずいてキッチンに行き、家事に手慣れたその様子に母親がいる影はますますなくなる。
「萌梨くんも、食べようよ」
悠紗に誘われ、僕もテーブルに向かおうとした。すると右膝に痛みが走り、怪我を思い出した。座り直して傷を覗いてみる。明かりが広くすりむけているのを照らし出した。固まりきっていない血が、いやにどす黒い。悠紗が心配そうにこちらに来て、傷を認めた途端、「怪我してる」と僕より慌て出した。「待って」と立ち上がってコンポを乗せたローボードに駆け寄り、戻ってきた聖樹さんも「あ」と声をもらす。
「そうだ、怪我してたんだ」
「あ、その、大したことないですよ」
「でもアスファルトだったし」
悠紗が薬箱を持ってくると、「貸して」と聖樹さんはお盆を置いた。悠紗は僕の怪我を覗き、我が事のように痛そうな顔をしている。「沁みるよ」と聖樹さんは断り、消毒液を染みこませた脱脂綿で怪我の手当てをしてくれた。刺激された痛覚に反射で顔を顰めつつ、何だか奇妙な気分になっていた。
不思議な、変わったふたりだ。一時間前には見ず知らずだった人間を家にあげ、構ってくれる。僕なら怖くてできない。僕に変な仕業をする気はなくても、普通、案じないだろうか。ふたりに僕を邪推するふうもない。心配されている身で不謹慎だが、慈悲深いのか無防備なのか分かんないな、と思った。
あるいは、このふたりはひと目で人の本質が分かるのか。ゆとりがあれば、人の性格なんて簡単に読めるのか。聖樹さんと悠紗に流れるものは、ただとても、穏和だ。生まれてこのかた、僕は感じたことのなかったものだ。この不思議さは、僕が知らないその安らぎに起因しているのだろうか。
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